白のプレリュード③ side - 柴 柚葉「うちは堅苦しい店じゃねぇ。飲みてぇモノがあったら、好きに注文しろ」
数品の料理が終わったところで、大寿はそう言ってドリンクメニューを弟妹に渡した。
ここまではソムリエと相談しながら、大寿が料理に合うワインを選んでいた。てっきりコースの終わりまで選んでくれるものだと思っていた柚葉は、急に自由にしろと言われた理由が分からず、渡されたメニューに困惑する。
ここまで三ツ谷と大寿は、それとなく柚葉と八戒の好みを聞きながらワインを選んでくれていた。
もしかして、それが面倒になったのだろうか。
柚葉はそんなことを考え、少し寂しい気持ちになりながら、隣にいる八戒にどうしようかと目配せをした。
とそこで、柚葉の瞳に八戒のワイングラスが映る。
さっきまで食べていた料理に合わせた白ワイン。それが、八戒のグラスには半分以上残っている。
果実の酸味とスパイスを感じるライムイエローのフレッシュなワインは、とても柚葉の好みだった。けれど八戒には飲みにくかったのだろう。先ほどのシャンパンと比べると明らかに減りが悪く、口に合わなかったのは一目瞭然だ。
それに気づいた柚葉は、すぐにもう一度八戒と視線を合わせた。
こう言う時の末っ子は、妙に察しがいい。きっと薄っすら状況に気づいているんだろう。
『どうしよう』とありありと書かれた八戒の顔を見ながら、柚葉は苦い顔をする。
とはいえ、慌てる八戒をよそに、柚葉は冷静だった。
今更どうしたって、八戒がワインを残した事実は無くならない。仮に柚葉が八戒の残したワインを飲み干したところで、それに意味があるとも思えなかった。
大寿は、残した事を咎めている訳ではない気がしたからだ。
では今の大寿には、なんと答えるのが正解なのか。
(アタシは、兄貴が選んでくれたワインでいいのに)
ドリンクメニューを眺めながら、柚葉は心の中でそう呟く。と同時に、全く同じ言葉を三ツ谷が口にした。
「オレは大寿くんが選んでくれたワインがいいな」
あまりのタイミングの良さに、柚葉は驚きながら視線を上げる。
にこりと笑顔で話す三ツ谷と、そんな三ツ谷の態度にどこか安心したような雰囲気を纏う大寿。柚葉はその様子に、ゴクリと唾を飲んだ。
まさか急にワインを選ぶのを辞めたのは、八戒に自分が選んだワインを残された事がショックだったから、とでもいうのか。
けれど三ツ谷の言葉は、ショックを受けた大寿を安心させるものに思えた。
それに、その解答が有効なのであれば、柚葉にとっても都合は良い。
「アタシもオススメで良い。さっきのも美味しかったし」
「……そうか」
そう答える兄は心なしか嬉しそうに見えて、柚葉はむず痒い気持ちになる。
「えっと……、オレも……」
大寿がワインを残された事にショックを受けているなんて、きっと八戒は思いもしないだろう。とは言えその場の空気に敏感な末っ子は、全員の顔色を伺いながらそう口にした。
けれど大寿は無言のまま応えない。そのオススメを残している八戒の言葉を、そのまま受け取ることは難しかった。
「なら八戒、お前、大寿くんと一緒にワインセラーに行って選んでこいよ」
「えっ……」
三ツ谷の言葉に、八戒も、そして大寿も目を見開いた。
「お前、まだそんなに種類も飲んでないし、自分の好みもちゃんとワカンねぇだろ?」
「そうだけど……」
八戒が言葉を詰まらせるのも無理はない。そんなことを言われても、大寿が頷く姿が思い浮かばないのだろう。
けれど三ツ谷は違うようで、構わず話を続けていく。
「オーナーが、従業員の勉強用にって何本かボトルを開けてくれてたはずだからさ、それ試飲させて貰ってこいよ」
「お前、よく覚えてるな……」
「そのお零れに預かったからな。それに、どれもすげぇ美味かったし」
軽口を叩きながら、三ツ谷は八戒の顔を伺い見る。
「大寿くん酒詳しいし、お前がどんなの好きか言えば、料理に合うやつ選んでくれるよ」
「それはオレじゃなくて、ソムリエに聞きゃぁ良いだろ」
「初心者だと、そもそもソムリエの人に何聞いたら良いかも分かんねぇだろ。その辺サポートしてやってよ、お兄ちゃん」
「…………」
言い返す言葉が見つからなかったのか、大寿は黙って少しばかり眉をひそめた。
「もしワインが厳しそうだったら、飯に合うカクテルでもいいし、な?」
「……くそっ。……行くぞ、八戒」
ニコリと微笑む三ツ谷とは反対に、大寿は苦虫を噛み潰したような顔をしながら席を立った。
「あ、あと、俺と柚葉の分もよろしくな」
ひらひらと手を振る三ツ谷に、大寿は軽く舌打ちをすると、ワインセラーに向かって歩いていく。
柚葉と八戒は、その様子を目を白黒させながら見つめていた。まさか大寿が承諾するとは、思っていなかったのだ。
八戒はこの状況をどう飲み込んでいいか分からずに、柚葉と三ツ谷を交互に見てしまう。
その縋るような眼差しは、まるで捨てられた子犬のようだった。三ツ谷はそんな八戒としっかりと目を合わせると、安心させるように柔らかく微笑んだ。
その笑顔に背中を押され、八戒は意を決したような様子で席を立つ。
「ま、待ってよ、兄貴……」
恐る恐る、けれどしっかりとした足取りで、八戒は大寿の後を追っていった。
その姿を映す柚葉の瞳に、幼い頃の二人の姿が重なる。
「大寿の後を、八戒が追いかけてる……」
胸を突き上げるように、感情が溢れて止まらなかった。どうにか抑え込もうと目頭にグっと力を入れるのに、それは今にも溢れてしまいそうになる。
「きっと八戒は覚えてないだろうけど……、昔、まだママが元気だった頃、八戒は大寿にすごく懐いてたんだ」
ポツリ、ポツリと話す柚葉の言葉に、三ツ谷は静かに耳を傾ける。
「兄ちゃんって言いながら、大寿の後ろを付いて回って……。ママは、八戒はお兄ちゃんが大好きなのねって、いつも嬉しそうに笑ってた……」
笑顔を浮かべる母親と、楽しそうに大寿の後を追いかける八戒と、はにかみながらもどこか嬉しさが滲む大寿と。
柚葉にとっては、大好きだった、大切だった時間。と同時に、もう二度と訪れないだろうと思っていた時間だった。
けれど、またあの日々が帰ってくるんじゃないか。
そう思ってしまうくらいには、二人の姿は希望を含んでいた。
「ねぇ、店内装飾の花、白のポインセチアを選んだのって、誰?」
「メインの花を決めたのは大寿くんだよ。一緒にアレンジに使う花とか配置は俺も考えたけど」
その答えに、柚葉の瞳が揺れる。
「やっぱり、忘れてなかったんだ……」
ポツリとつぶやきながら、ワインセラーに向かっていった大寿の背中を眺める。
じわじわと、喜びと哀しみが混じりあったような色が、柚葉の瞳を彩っていく。
『ママはその花が好きなの?』
幼い頃、柚葉は母親に、そう尋ねたことがあった。
真っ白な葉のポインセチア。母は、毎年必ずその花を買っていたから、理由が気になったのだ。
柚葉の問いに母親は頷くと、昔、父からプレゼントされた事がきっかけで好きになったと教えてくれた。
「白のポインセチアには『あなたの祝福を祈る』って意味があるんだって。私たち兄弟三人の祝福を祈ってるって言いながら、ママは毎年買ってた……」
花言葉を知ってから、もっと好きになった花だと母は言っていた。
今思えば、父親との思い出がある白のポインセチアは、母にとって、家族をつなぐ絆に思えていたのかもしれない。
「大寿は、ママがいなくなってから、ママの話は一切口にしなかった……。でも、ちゃんと向き合えたんだね……」
母親の事を思い出そうとすると、温かい気持ちと同時に、いまだに胸のあたりがずしりと重くなる。
きっと大寿だって、同じだったと、柚葉は顔を曇らせる。
重く激しい悲しみは、幼い身には持て余したに違いない。悲嘆に暮れ、抱えきれない感情に飲み込まれ。そんな荒波に、子供が出来ることなんて限られている。
抱えきれなかった感情を、記憶を、背負った傷もそのままに心の奥底に押し込めて蓋をしたことに、誰が文句を言えるだろう。
けれど大寿は、自分の店を白い花で飾るくらいには、母親との記憶を大切な思い出として救い上げてくれていた。
それが柚葉は嬉しかった。
「……今の話を聞いて、ちょっと納得した」
ずっと黙って聞いていた三ツ谷が、ふとそんな事を口にした。
「納得?」
意味が分からず聞き返せば、三ツ谷は過去を懐かしむように目を細める。
「あぁ。今日八戒が着てるスーツ、大寿くんと一緒に生地を選びに行ったんだよ。ネクタイピンは、その時に大寿くんが見つけてさ。花の装飾を選んだの、ちょっと意外だと思ってたんだ。もっとシンプルなの選びそうだと思ってたから」
「やっぱり、ネクタイピンは偶然じゃなかったんだ」
「気づいてたのか」
「星みたいな形の花が付いてたから、ポインセチアがモチーフかも、くらいにはね。もし兄貴が選んだんなら、忘れてないのかもしれないって、ずっと考えてたから」
母が他界して直ぐ、大寿は自分を追い詰めるように塞ぎこんだ。
兄弟にすら心を打ち明けず独りでいる大寿の後ろを、八戒がついて回ることはなくなり、柚葉も距離を置くようになった。
そうして大寿が独りでいればいるほど、それに比例して、柚葉も独りで家族を守らなければと思い詰めていく。そんな悪循環が永遠と巡り続けていた。
最悪の結末を迎えなかったのは、奇跡に近い。
数年前のクリスマス。あの日がなければ、大寿が八戒に贈り物をするなんて、そんな未来はなかっただろう。
柚葉は、ディスプレイも兼ね、ガラスの壁で作られたワインセラーの方に目を向ける。
中では、大寿と八戒が相談をしながらワインを試飲していた。
大寿があのクリスマスの日を境に変わったとはいえ、忘れようと押し込んだ記憶の蓋を開けるのは、どれほど勇気が必要だっただろう。ふさがっていない傷を直視するのは、どれほど痛みを伴っただろう。
幼い大寿が一人では抱えきれなかった、愛おしく、だからこそ深い悲しみを纏うその感情と向き合えたのは、きっと三ツ谷が隣りで寄り添ってくれていたからだ。
独りじゃないと気づかせてくれたあの日を思い出しながら、柚葉は三ツ谷を見据えた。
「三ツ谷……、大寿を独りにしないでくれて、ありがとう」
思いがけない言葉を贈られ、三ツ谷はキョトンとした顔つきになる。
それから直ぐに目尻がゆるんで、木漏れ日のような優しい暖かさを滲ませた。
「……オレ、長男の友達って少なくてさ。それも三兄妹なんて滅多にいないし。だから、長男の悩みを相談できる大寿くんは、貴重な存在なんだよね」
「妹なら、どんな悪さも笑って許してやらなきゃならないし?」
「その通り」
「弟のためなら、一本数万円のシャンパンも、簡単に開けなきゃいけないしね」
「それは、オレも驚いた」
大きく肩をすくめる三ツ谷に、柚葉はなぜだかホッとして、肩の力が抜けていく。
『お別れだ柚葉。せいせいすんだろ!』
あの日、そう言って出て行った大寿の笑顔は、今でも忘れることは出来ない。
そんなことを言わせたかったわけじゃない。
だから今、大寿の隣に寄り添ってくれる人がいることが、嬉しかった。
「次はいくらの酒を持ってくるんだか」
「そうね、うんと高いお酒じゃないと、八戒の口には合わないかも」
柚葉は春の日差しで綻んでいく花のように、柔らかな笑顔を咲かせた。