白のプレリュード④ side - 柴 大寿「ま、待ってよ、兄貴……」
そんな八戒の声が聞こえた瞬間、大寿は思わず息を呑んだ。
三ツ谷に唆され行くぞとは言ったものの、ついて来ない可能性も、十分にあると思っていたからだ。
「早くしろ」
動揺を悟られぬよう、極めて冷静に返しながらも、自然と大寿の歩く速度は落ちていた。
ほどなくして追いついた八戒を連れ、大寿はワインセラーへと案内する。その少し後ろを歩きながら、八戒はチラリと兄の様子を伺った。
ただ淡々と先を進む姿には、なんの打算も感情も見て取れない。笑うでも怒るでもない様子は、むしろ何を考えいるのか分からず、八戒はかえって不安になる。とはいえ訪ねる勇気もなかった。
なにせ大寿と再び会うようになってからは、いつも三ツ谷が一緒にいたため、二人きりになるのは初めてなのだ。三ツ谷がいたからこそ言葉を交わせていたが、そのサポートがない今、一体何を話せばいいのか分からない。取っ掛りすら思い浮かばず、八戒は閉口するしかなかった。
しんとした空気の中、声の代わりにコツコツと靴音だけが木霊する。その沈黙に若干のいたたまれなさを感じていると、大寿の足が止まった。
セラーの入り口に着いたらしく、大寿はガラス戸にカードキーをかざし、慣れた様子で室内へと入る。その後に続いて、八戒も恐る恐る足を踏み入れた。
入った瞬間、ヒヤリとする温度に包まれる。少し肌寒い空調を新鮮に思いながら、八戒は上を見上げた。
「すげぇ……」
天井近くまでずらっとワインが保管されたガラス張りのセラー。その迫力に思わず感嘆の声を上げながら、八戒は目を輝かせて辺りを見回した。
「さっきのワイン、何処が不味かったんだ」
「え……」
初めての場所に浮かれていると、大寿にそうさらりと話しかけられて、八戒は思わず驚いた顔を浮かべる。
このまま無言が続いてしまったらどうしよう。さっきまでそう思ってはいたものの、いざこうして話しかけられると、慣れない気持ちからたじろいでしまう。
「さっさと言え」
「……えっと、それは……」
一体どこまで正直に答えていいのか。その線引きが分からず、八戒はますます言葉を詰まらせる。
けれど大寿は八戒を咎めることはなく、ただジッと続く言葉を待っていた。
その姿がなぜか三ツ谷と重なって、八戒はゴクリと唾を飲むと、おずおずと言葉を紡いだ。
「なんか、変な匂いがしたって言うか……」
「匂い?」
「なんか、ちょっと苦くて、草みてぇな匂い」
「そうか。その前に飲んでた白は全部飲んでただろ。何が良かったんだ」
「良かったとこ? んー……果物とか花っぽい匂いと、あ、あとあんまり酸っぱ過ぎなくて飲みやすかった」
「果物と花か……」
大寿は顎に手を当て、次の肉料理を頭に思い描きながら、ワイン棚に目を向ける。
今日の肉料理は、シャトーブリアンとサーロインのステーキに、ソースが二種類と岩塩。
肉に負けない力強いワインでなくても、合わせようがある料理だ。感想を聞く限り、赤よりも、フルーティーでくせのない白ワインの方が好みだろう。
そう当たりをつけると、大寿は今日の肉料理にも合わせられ、三ツ谷と柚葉も好みそうな、スッキリとした軽めの白ワインを三本選んだ。
そこで少し遅れて、大寿に呼ばれていたソムリエがセラーに顔を出す。丁度良いと言わんばかりに、大寿は選んだワインが試飲できるように指示をする。
「え、でも、そのワイン、まだ未開封じゃ……」
「問題ない」
そう言われてしまえば、八戒は黙るしかない。
一度開けたワインは数日で味が変わってしまう。そう三ツ谷から教えてもらった八戒は、試飲のために三本も開けて良いのかなと、グラスに注がれていくワインを眺めた。
「どれも口に合わなかったら、そう言え。別なのを選び直す」
「う、うん……」
この中に好みの味がなかったらどうしよう。そんなプレッシャーを感じていた八戒は、想定外の言葉に間の抜けた顔をしながらも、空気が和らいだのを感じて胸をなでおろした。
気負っていた気持ちも落ち着いたところで、ソムリエの説明を受けながら、三つ並んだグラスに順番に口をつけていく。
その様子を見守りながら、大寿はふと昔を思い出した。
『八戒は、お兄ちゃんのことが大好きなのね』
まだ母親が生きていた頃、言われた言葉だ。
母親が亡くなった時、目の前が真っ黒に塗り潰され、全てが深淵の闇に呑まれていく中で、その言葉だけは、まるで道しるべのようにハッキリと頭の中に残っていた。
父親が帰ってくるのはごく稀で、母親の病気がどれほど進行しようと、その頻度は変えられなかった。
母が病気になったところで、生活は続く。
病気の治療も、家族の生活も、全ては金がないと始まらない。医師ではないのだから、見舞いをするよりも、少しでもいい治療が出来るように金銭を稼いで来た方がいい。
そう考えた父親の判断が愛の形の一つだと、大寿は子供心に理解はできていた。
不安や寂しさがなかったわけではない。けれど長男である自分が母に寄り添い、寂しがる妹と弟の面倒をみる事は、家族全員のためになるはずだと、その想いが大寿を奮い立たせていた。
たとえその足場が、今にも崩れ落ちそうなほど、危ういバランスの上で成り立っていたのだとしても。
ただ、入院時も見舞いの時も、雇われの家政婦と子供達しか訪れない光景は、周囲には異様に映っていたらしい。よく知らない周囲の人間が、あまりにも父親が現れないために、児童相談所に連絡をするべきか迷っていたのも、おかしい話ではなかった。
最低限の家事は家政婦がやってくれていたが、世間はそれを保護者とは呼ばない。
母親が亡くなった時、海外で仕事をしていたため直ぐには来れなかった父親に、いよいよ連絡が必要なのではと周りの大人達はざわめいた。そんな相談をする周囲の噂話を聞いてしまった大寿は、真っ黒な闇の中で、ふつふつと灼熱の炎の様な激情が沸き起こるのを感じた。
このままでは、父親の事を知りもしない周囲の大人たちのせいで、兄弟全員バラバラに施設に入れられるかもしれない。そんな焦燥は余計に感情を荒立たせ、心を、全身を、烈火の如く焦がしていく。
(母さんがいなくなった上に、オレは兄弟も失うのか?)
その瞬間溢れる涙は止まり、大寿は急速に世の理を理解した気がした。
弱いものには、なんの自由も与えられない。
強くなければ、選ぶ権利は得られない。
強くなくては、家族が一緒にいることすらできない。
その日から、大寿は行動は一変した。
大人たちの前で頻繁に父親の名前を出し、良いように印象付ける方法を覚えた。その話術は直ぐに周囲にいた子供達にも転用した。大人にも通じた手腕で子供を心酔させ、手足のように動かす。
大人と渡り合えるなら、大寿にとって善し悪しなんて瑣末なことだった。重要なのはただ一つ。家族を引き裂かれないことだけだった。
弱い者は淘汰されてしまう。弱い者の意思はどう頑張ったって尊重されることはない。だから家族がずっと一緒であるためには、長男の自分が、強くあり続けなければいけない。
そう思うと同時に、大寿にとって弱いものは、たちどころに価値を失っていった。
中でもすぐに泣く八戒は、とても弱いものに思えた。
泣いて喚いても、誰も助けてはくれない。ただ己の無力さを思い知るだけ。
それなのに、弱いままでいる八戒がどうにも腹立たしく、大寿は強くするためだと弟を殴った。
特段愛してやまない弟だからこそ、価値のあるものでいて欲しい。そのためには、オレが強くしてやらなくちゃならない。
そう思っては殴り、夜に一人で懺悔をする。
兄弟が一緒にいるための試練なのだと、大寿はそう自分に言い聞かせながら、弱さに繋がる邪魔な感情は、身を削る思いで削ぎ落とした。
奪われないようにと全てを掴んでいたはずの両手は、元から何も掴めてなどいなかったとも知らずに。
大寿は当時を思い出しながら、静かに目を伏せた。
「昔、クリスマスにお父さんから贈ってもらったの」
真っ白なポインセチアを眺めながら、母はそう言った。
少し前まで、母親に好きな花を聞いてはしゃいでいた柚葉は、今はもう、その小さな身体を丸め、母親の膝の上でゆっくりと眠っている。まるで全てのものから守って貰っているような安心した顔で、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
窓の外で、炎のような色で揺らめく太陽が、ゆっくりと今日の役目を終えて沈んでいく。
その残映を浴びながら、母親は静かに笑っていた。
「大寿、また難しい顔してる」
母親はそういうと、大寿の頬に触れた。
「もっと笑って? 大寿は笑顔が素敵なんだから」
そう言われても、笑う気にはなれなかった。
父がいなくて寂しくないんだろうか。
両親の仲の良さを見ているからこそ、大寿はそう思わずにはいられなかった。
父親の事を好きだからこそ、思い出話を余計に寂しいと感じてしまう。
けれどそれを口にするのは両親を困らせる気がして、大寿は唇を固く閉じた。
「大寿の優しくて真面目なところ、私は大好きよ」
黙っていても、息子の想いは母親には筒抜けだったのだろう。ふわりと微笑むと、私がバラしたってお父さんには内緒よ、と言いながら大寿に顔を寄せてとっておきの話をした。
「この花をもらった時、大寿が私のお腹にいる時だったの。白いポインセチアの花言葉は『あなたに祝福を』なんだ、って言いながら、お父さんは私と大寿に渡してくれたのよ」
夕映えの中で柔らかに微笑む母親との秘密話は、輪郭を光で縁取られたかのように、キラキラと輝いて見えた。
そんな、暖かく、煌めくような思い出が、大寿の中にはいくつも積み重なっている。
だからこそ、母を失った後で思い出そうとすれば、身を裂かれる様な痛みを伴った。その痛みは、癒えない傷を抱えたまま向き合うには辛すぎて、大寿は無意識のまま全ての思い出に蓋をした。
「これ、すげぇ美味い! 果物かじってるみてぇ」
見守る大寿の視線に僅かに緊張しながらも、三つ目のグラスを口にした八戒は、目をパチクリとさせた。
念の為に、もう一度三種全てを飲んでみたものの、最後に飲んだワインが、圧倒的に好みだった。
「決まりだな。そのボトルを運んでくれ。残った二本は、今日いるスタッフで試飲していい。客に説明する時役に立つだろ」
「かしこまりました」
「それでも余ったら持ち帰る。まぁ、三ツ谷が喜んで飲むだろ」
「え、いいなぁ」
スタッフに指示をしたあと、最後は呟くように言った大寿の言葉に、八戒が反応する。
そして言葉にしてしまった後で、しまったと言わんばかりに口に手を当てた。
「……お前にも、数本持たせてやる」
「え、あ、でも……」
しどろもどろになる弟に、遠慮をしているのかと思った大寿は、それらしい理由をつけてやる。
「うまいかどうかは別にして、知っていると話題にも出来る。仕事でも役立つ時があるだろ。有名なのを数本持たせてやるから、飲んでおけ」
「う、うん……」
まさか、三ツ谷と家に帰っても一緒に酒を飲める事が羨ましかった、だなんて今更言えるわけがない。
そもそもどうして大寿がここまでしてくれるのか。その理由が八戒には分からなかった。
とは言え嬉しい気持ちも本当で、八戒は思いがけないお土産を素直に受け取ることにした。
「……ありがとう、兄貴」
「……あぁ」
そう返事をした大寿の口元は、僅かにほころんでいた。
改心はない。
その時できる全てで、家族を愛していた。
今も、これからも。
八戒のネクタイに付けられたホワイトシルバーのピンは、その想いだけは持っていても良いと許されている気がした。