ともがき 故郷になにか思うところが、まったくなかったとは言いませんが、それとこれとは話が別とはよく言ったもので、わたしは何ら抵抗なく、庇護された箱庭を飛び出して行きました。なぜかといえば簡単で、ただ留まっているのは性分じゃないというだけの話、そういうふうに命を授かった、というわけであります。
かのおひとはわたしをよくわかっていたのかなにも申しませんで、はらから共もまた同様で、わたしは個として世界を漂い始めました。とおくには山をもたやすく切り開く強いお方がいらっしゃるだとか、日と月のように背中あはせで民を守るお方がたがいらっしゃるだとか、そういう話は故郷にいたときですら簡単に耳に入りましたから、はきとした目的というものがなくとも、わたしは己を満たせると確信していた次第です。
思っていた通りと申しますか、それ以上と申しますか、いわゆる旅というものはわたしをより強く、眩く象っていきました。岩を司る屈強なおかたは想像していたよりも細身でいてなめらかで、想像している通りにお堅いおひとでありましたし、雷を司るお二方はそのもののとおり、雷光とそこにおちうる影といった体で、しかし常に轟くわけではなく、やわらかく語ることもご存知のようでした。そうやって、己が目でみることを愛しておりました。得たものを己が言葉に記すのも愛しておりました。そういうところはどうしようもなく故郷の影響を受けており、そうと自覚したのもまた、己が満ちてゆく過程で気づき、指摘されたことであります。
おもえばわたしというものは、はらからどもに比べて、はじめっから我がはっきりとしていたのでしょう、というのも、まだ文字もない時分からおのれだけのものを作っては、今にして思えば怪文を生み出しておりましたし、それを元素で目に見える形にするというのも息をするかの如く試しておりました。はらからどもが日々することといえば風を起こすだけ、漂うだけ、たまにひとを助けるだけ。わたしがいかに可笑しかったか、よくわかることでしょう。
わたしは矮小な身でありながら、己をより強く獲得していくなかで、はきとしたおのれのからだをも得てしまいました。食事も睡眠も、必要ではないにしろ人民と同じように体験できる、これまでよりもさらに近くで、ものごとを感じ取れるそれはわたしを満たし、さらなる自由をもたらしました。そう、思いました。喜びでした。知り合った尊い方達に見せに行っては、彼らの反応を書き記すのが楽しくて楽しくて、しかたがなくって。
そうして時は過ぎてゆき、だんだんと世が荒れ、魔神どもが争う世界になっても、わたしは変わらずそこにありました。たまに故郷に戻りはしましたが、それは帰るというよりも滞在するといったもので、そのころには生まれた場所だなんてものは名ばかりで、わたしにとっては数ある土地の一つという認識に落ち着いておりました。常に滞ることなくながれ、記し、まためぐる。そういう生き方が身について、それこそが己であると分かっていたからで、今後世界がどのようなことになったとしても、わたしの存在と自由は覆らないと信じて疑いすらしませんでした。
***
そのひとに初めて会ったのは、塵歌壺のなかだった。
まだ俺とパイモンしか入れないはずのちいさな箱庭、必要最低限のものしか置いていない広い館の一室で、空中に文字を書きつけている姿はいっそこちらを感動させた。指先から青みを帯びた白緑の光が伸びていくさまが幻想的だったのもあるが、なによりも少しを声をかけたくらい、武器を向けたくらいでは気づかないのである。耳の遠い人に声をかけるくらいの音量でやっと俺たちを目に移した彼は、きょとんとした顔で言った。
「ありゃ、なんだ空き家じゃねえのか。生活感がねえもんで勘違いしてたよ」
わるかったな、借りてるぞ。おおよそ不審者でしかなかった。しかし俺たちは受け入れた。なぜかって、そのあとこちらが何を言っても彼は微動だにしなかったから。
パイモンはカンカンに怒っていた。まあ当然ともいえる。やっと雨風や魔物に侵されない安心安全の家ができたのに、突如として不審者が現れたのである。マルに聞けば、気配がこの箱庭と同化しているせいか気付かなかった上に追い出せもしないらしい。まあ悪さをすればさすがにわかるらしいので、パイモンを宥めつついつもどおり外へ出ることにした。彼はこっそり侵入野郎のあだ名をたまわった。
洞天に帰って来られたのはそれから数日後である。
璃月で休む間もなくいろんなひとの使いっ走りをし、くたくたに疲れていた。腹は減っているのに食べる気になれない。シャワーを浴びたいのにその体力がない。とりあえず寝たい。這々の体で塵歌壺を持ち出し、その中に入ったときに、ふと俺たちは思い出した。そういえば不審者がいるんだった。
ここで私物が荒らされていたら最悪だ、いやマルがいるからそれはないのでは。そんな話をしながらぼやっとした視界で館を見上げた時、玄関がゆっくり開いた。件の彼だった。
「おかえり。遅かったな」
外の時刻は日付を超えたばかりだった。まるで家人のような口ぶりにかちんときたのは一瞬、まなじりを釣り上げたパイモンが何か言うまえに彼がこちらに手を差し出した。
「飯できてんぞ」
めし????
ぽかんとする俺たちを、彼はなにやらつぶやいてから家の中に引っ張っていった。玄関をくぐった瞬間にほんのりえびのかおりがした。何もなかったはずのエントランスには大きなテーブルがあって、そのうえには鶏豆花と、水晶蝦、それからピリ辛蒸し饅頭が並んでいた。じわりと唾液が口の中にたまる。
「な、なんだこれ? 侵入野郎がつくったのか?!」
「そりゃアおれのことか? まあいい。そのまえに風呂だわな。湯は張ってあるから泥落としてきな。ほれ、あっちだ」
彼はさっと指を振って料理に白緑色の膜を張り、すぐさまどこからか吹いた風によって俺たちを風呂場へ追い立てた。シャワーしかなかったはずのそこは、彼の言った通りバスタブがあって、湯気とともに程よい温度の湯がなみなみと揺蕩っていた。
眠ってしまいそうになりながらもなんとか風呂を出て、すこし疲れが取れたような心地でご飯を食べた。これがまた美味しいのである。薄めの味付けは疲れた体にじんわりと沁みて、食欲がないなんて思ったのが嘘のようにするする口の中に入っていった。パイモンなんか細かな食リポをしているくせに手が止まっていないくらいだ。おかわりが欲しい、と彼を見たところで、何も食べずに俺たちを眺めていた彼は空になった皿と交換で湯呑みを出した。
「足りねえって顔だな? また明日だ。それ飲んだら寝るこった」
「もっと食べたい〜! 侵入野郎!」
「やらん。八分目でやめときな」
湯呑みの中は蜂蜜の入った生姜湯だった。不貞腐れるパイモンと一緒にちまちまそれを飲んでいると、風呂の中にいたような心地がまた戻ってきて──……気がついたらベッドの中で陽光を浴びていた。
あさ、エントランスで約束通りたっぷりの料理を堪能してひといき。疲れが取れてすっかりまともに働く様になった思考で、昨日からの流れはどういうことだと相棒と詰め寄ったところ、彼の答えはこうだ。
「あン? 気にしなさんな。それよかいいのか? 今日も忙しいんだろ」
納得できねえなら置いてくれてる恩だとでも思っとくれ。ひらひらと振った手で頬杖を着いた彼は、そのまま整った顔立ちにおだやかな笑みを浮かべてみせた。
「いってらっしゃい。気ィつけてな」
それからずっと、彼は俺たちの洞天に居座ったまま、態度や行動もそのままだった。俺たちは偶然、旅人でありながらあたたかい食事とベッドの待つ家を持ってしまったのだ。
いうまでもなくパイモンの機嫌は爆上がり、比例して彼への好感度も上がっている。なにせかれのご飯があまりにもおいしい。初めて食べた料理が薄味だったから好みなのかと思いきや、拉麺や獣肉シチューが出てきたり、そもそも璃月だけじゃなく他の国の料理も網羅しているようだった。あれは疲れて帰ってきた俺たちへの労りらしい。彼はどうしてか俺たちの帰ってくる日時や疲れ具合を把握していて、それにあわせて全てを用意してくれるのだ。事情を訊ねても気にするなの一点張りでより不審さは増すばかりだが、かといって胃袋と生活を掴まれた俺たちはいまさらそれらを手放すこともできなかった。これが作戦ならば恐ろしい。
彼がいることで落ち着いたのは食事や睡眠だけではない。必要最低限のものしかなかった邸宅はいまや立派に家として機能していた。外に出ていた簡易鍋と水場は中に持ち込まれてキッチンに、友人たちからもらった品々は自室の棚に、そして手に入れた本や資料が積まれるだけだった部屋は書斎になった。当然彼の部屋だって作ってある。遠慮されたのを押し切って机やらベッドやらを運び込むと、かれは観念したようにわらった。
「ありがとよ。おれにゃもったいねえくらいにいい部屋だ」
外にはマルの力を借りて木々や畑をつくり、猫や犬のような動物も放し飼いにすることにした。シャワールームは彼が勝手にいじったらしいが、ありがたいのでそのままにしておいた。バスタブに浸かる心地よさからは離れられそうにない。
こんなにも早く洞天をいじる余裕ができたのは彼がおおよその家事を引き受けてくれているからである。おおよそというのは、初対面の時の様に部屋にこもっている日があるためだ。空中や紙にずっと文字を書き付けている横顔を見ると、彼へ対する疑問が浮かんでは消える。どうやって洞天に入ってきたのか。なにをしているひとなのか。そもそも俺たちは彼の名前すら知らない。訊ねたところで答えが返ってくるとは思えず、けれどこの奇妙な共同生活はもうすっかり馴染んでしまっていて、関係性に心地よさすら感じているせいで崩す気にもなれなかった。このまま日々を過ごしていれば、なんとなくで語り合える日が来そうな予感がする。
そんなふうに、呑気に思っていた。
朝から冒険者協会の依頼をこなし、ヒルチャールやアビスの魔術師たちを蹴散らして昼頃。璃月港に帰ってきたら講談師の真ん前、いつもの席に座る鍾離先生と──……同席している彼を見つけた。
「し、侵入野郎?!」
驚いた。パイモンが上げた声が聞こえたのだろう、彼がゆるりとこちらへ視線を移してうすらに笑う。
「おう。奇遇だな」
「おまえ、外に出られたのか?!」
「ちび、お前さんたびたびおれのこと馬鹿にしてくれるな?」
ひでえやつだ。喉を揺らして笑うさまに、おいで、と言われているような気がして身を寄せれば、きょとんと少しだけ目を見開いた鍾離先生が言った。
「旅人、彼を知っているのか?」
「知り合いというか」
「いまはこいつらんところに間借りしてる」
「……また勝手に住み着いてるのか」
仕方ないやつだ。ふう、と小さくため息をついた先生は、俺たちに席を勧めた。また、とは。首を傾げたが、店員が注文を聞きにくるのに思考は中断された。ふたりでそれぞれ頼み終えてから気がついた。テーブルの上には美味しそうな料理がいくつかのっているが、全て鍾離先生に寄っている。彼の前にはない。
「もう食べたの?」
「いや。おれぁひとが食ってるのを見るのが好きでね。同席だけしてる」
今日もそれさ。会話に応えるように麻婆豆腐を口に運んだ鍾離先生を、頬杖をついたまま眺める姿には既視感があった。そういえば、彼はいつも俺たちが食べる姿を見るだけだ。時間がまちまちなので先に済ませているのかと思ったけれど、そもそも食べていないらしい。パイモンがぎょっとして彼を見る。
「ほんとか?! 腹は減らないのか? 何を楽しみに生きてるんだ……」
「パイモン……」
ご飯とお宝が大好きなパイモンからすれば信じられないのだろうけど。じっと非常食を見つめれば、なんだよぉ……と弱々しい声が返ってきた。その姿を見てかれが笑う。
「はは。言った通り、おまえさんらがうまそうに食ってるのが楽しみなのさ。このセンセだってうまいもんに当たった時はこの辺を緩ませやがる。そういうのがイイんだ」
彼に自分の頬を突きながら視線を送られ、鍾離先生はどこか呆れ顔だ。
「そんなことを考えていたのか。奇特な趣味だとは思っていたが」
「そうかい? 食はいいもんさ。どの時代、どの国に行ってもあるし、らしさが一番出る。当然、たべてる人間にも影響するもんだ。おもしれぇだろ?」
頼んだ料理が運ばれてきた。湯気とともにふわりと香る香辛料は、すっかり身になれたものである。きらきらと瞳を輝かせたパイモンが、懐から取り出した専用のフォークで(この非常食は手が小さいせいか、いつまで経っても箸がうまく使えない)揚げられた鶏肉を刺した。その隣の肉をひとつ、箸がつまむ。
「マ、食えねえわけじゃねえ。味がわからんと料理もできんからな」
「あ〜!」
彼はなめらかな動作でそれを口に入れた。ふうん、と小さくつぶやいてすぐに箸を置く。これに黙っているパイモンではない。身を悶えさせながら彼を怒鳴りつけた。
「なんでオイラのを取るんだよぉ! おまえも頼めばいいだろ!」
「すまんすまん、夕飯はおまえさんの好きなもん作ってやっから、おさめてくれや」
「!! なににしようかなぁ……あっいや、許したわけじゃないぞ!」
そもそも大抵彼女の食べたいものが出ている気がするが、胃袋を掴まれているとこれだからいけない。取り繕うふうですっかり夕飯のことに脳を割いている相棒は放って、ふたりを眺める。鍾離先生が行儀が悪いと眉を寄せるのに、彼は軽く笑うのみだった。会話を聞いていて思っていたけれど、どうやら彼らの付き合いは長いらしい。言動のひとつひとつにきやすさを感じた。
たとえばこんな話。
「どうだい、このセンセにゃ振り回されてるんじゃないかい? 頼りにゃなるが、ひとの細けえ機微ってもんをまるで感じられねえ男だろ」
「そうだろうか。理解しているつもりだが」
「おまえさんのそれは理屈さァ。昔っから言ってるがよ、理解と実感ってのは別もんだろうが。かみさま視点は抜けねえな」
「俺は凡人になったぞ」
「おまえさんが凡人ならだれだって凡人だぁな。名ァ捨てたところですぐにゃ変わらんとも。だから今の生活なんだろ? これからのんびり染まってくのがいいさ」
「む」
それからこんな話。
「旅人のところに居着いているといったが、どうだ。また食事を作っているんだろう」
「まァ。頬膨らませてたらふく食ってくれるやつがふたりもいるんでね、作り甲斐もあらぁ」
「旅人、あまりこいつの料理ばかり食べるのはおすすめしない。どこへ行っても物足りなくなってしまう」
「褒めてくれてんのかい? 照れるねェ。ならセンセ、おれの飯食ったせいで物足りなくなったってえのはなんだ? 教えてくんなよ」
「いわないぞ」
「なんで」
「やっと別の味に慣れてきたんだぞ。また食べられなくなる」
「……あっはっは! かぁわいい! 鍾離ィ、おまえさんいつのまにそんな可愛げ身につけたんだ、え? これぞ愉快ってえもんだなァ!」
「ふ、凡人は愛らしいものだろう?」
「冗談まで言いやがる!」
俺は彼が大口を開けてわらうところや、鍾離先生が拗ねるというか、不貞腐れるというか、そういう表情をしているところを初めて見た。どちらもタイプは違えど落ち着いていて、マイペースをたもつ人たちだから、こうして楽しそうに会話されると微笑ましく見えてしまう。そう、やっぱり彼らは長い付き合いなのだ。永い──……
後に続く言葉は、口の中いっぱいに詰め込んでいたものを飲み込んだパイモンがわけ知り顔で言ってくれた。
「ふたりは仲のいい友達なんだな!」
時が止まった。そう、錯覚してしまうほどに、ふたりは、特に彼が動きを止めた。眼球のゆらぎも、呼吸もない、たった一瞬。それでも俺たちが首を傾げるには十分の時間だった。
「侵入野郎?」
「……ン」
ちいさく頷き、彼がパイモンの頭に手を伸ばす。髪をかき混ぜかきまぜ、眉を下げて笑った彼は、ぞっとするほどやわらかい声で言った。
「おまえさんに目にそう映ったのなら、そうなのだろうよ」
そのまま彼は立ち上がった。鍾離先生が視線で彼を追う。心配するような、案じるような、そんな色があった。
「セイ」
「……悪ぃなセンセ、今日はこのへんで終いだ」
しかし彼はそれを遮断するように目を閉じる。宙で指を振ると、白緑の光とともに分厚い本と小さな袋が現れた。金属の擦れる音、きっと袋の中にはモラが入っているんだろう。ふたつをテーブルの上に重ねておき、先生の近くに滑らせる。のろりと開かれた瞳は、こちらを柔らかく見ていた。
「ちびも、おまえさんも。呼び寄せてすまねえな、このセンセとは知った仲なんだろ? 構わずゆっくりしていきな」
べつに、捲し立てられたわけではなかった。その声にも言葉にも彼らしい穏やかさが宿っていて、さきほどの楽しそうな会話の流れで同じことを言われていたら、きっと何の違和感も持たなかったのだろうと思うくらいに「いつもどおり」だった。……けれどそれらはすべて、努めて作られたものなのだと肌で感じてしまった。
別れの音だけを残し、風を纏って彼が消える。髪が頬をくすぐるなか残されたのは、俺とため息をついた先生、それから困惑しきりのパイモンだった。
「ど、どうしたんだ? オイラ、まずいこと言っちゃったか?!」
「いや。大丈夫だろう」
「でも……」
あわあわと口元に手を当てる彼女に、ゆっくりと鍾離先生が首を振る。口元には苦笑いが添えられていて、いまにも仕方がないとこぼしそうな顔だった。
「あまり気にやむな、きっとセイもそう思っている」
セイ。先ほども聞いた。むしろ、一度も聞かなかったことがおかしかったのだ。意図して使われていなかった音だった。察しているくせに、それでも口から出るのを止められなかった。
「それは、彼の名前?」
「そうだ」
ずっと聞きもしなかった答えは、いとも簡単にもたらされた。それも本人の口からではなく、彼をよく知るだろう他人から、得てしまった。
踏み込んでいる自覚があった。これは、崩したくないと思っていた関係にひびをいれる行為だ。やめるのなら今だろう。けれど。
知らず、握っていた拳を解いた。鍾離先生は腕を組んでこちらを穏やかに見つめている。
「続き聞かせて、先生」
「いいのか?」
「うん、知りたい」
聞いてしまったから。わかってしまったから。今までと同じようにはいられない。彼は、嫌がるかもしれないけれど、それでも気になるのだ。一緒に暮らしているから。たくさん世話になっているから。なにより彼が好きだからだ。パイモンはどうだろうと視線を送ると、彼女はぐっと拳を持ち上げた。
「お、オイラも。オイラも聞きたいぞ!」
「ふふ。では、名の話をしよう」
講談師の声はもうずいぶん前からなくなっていた。いつだって賑やかな璃月の昼間、おだやかで、すこし機嫌の良さそうな先生の声がはっきりとこちらに届く。
「彼はいくつか名前を持っているが、全て物語ることを意味している。俺が知っているのは三つ。セイ、スクリプトゥム、それから綴だ。璃月ではセイと名乗ることが多いな」
彼がなにかを書きつけているのを見たことはあるか。そう言いながら、鍾離先生は彼が置いていった本を手に取った。表紙をひらけば、じわりと文字に緑の光が宿って、すぐに消える。彼がいつも、空中に書いているのと同じ色──……風元素のそれだった。
「セイは文字書きをしている。世界を見たそのままを綴ったり、架空の物語を作ったりもする。……あれほど滑らかに、美しく文をかたどる男を俺は他に知らない。それを提供するかわりに、食事を共にするのが俺とセイとの契約だ」
手袋をした指がページに触れる。また文字に色が灯って、書かれた一文にほんのすこし橙が混じった。元素がそっと指を撫でるのを見て、先生が笑う。
「紙の中で語ることも、こうして音でかたらうことも愛しているのに、あれは自分の話をしない。聞かれたとしても上澄みだけで、うまくかわすばかりだ」
ふと食事をする前のことを思い返した。そのときは違和感なんて感じなかったけれど、勝手に住み着いている、といった先生に対して、彼はなんの弁明もしなかった。食事についてだって、自分がなぜ食べないのかまで掘り下げなかったのだ。鍾離先生によれば、ああして眺める楽しさについて話したのも珍しいほうだという。
「指摘すれば、セイは口を滑らせたとでも言うかもしれないな。だが気づかないほどに、今日の場を楽しんでいたのだろう」
いいことだ。鍾離先生が器をゆったりと持ち上げて茶をすする。
「旅人。俺たちは友人だ」
「うん」
「俺は、彼ともそうだと思っている。だがあれは、関係に名前を付けたがらない性質なんだ。忌避していると言ってもいい。昔はそうでもなかったが……」
視線を巡らせて、先生は口を閉じた。そうなった理由を知っていそうな口ぶりだが、過去までつまびらかにしてしまうのは違うと思ったのだろう。おれも、根掘り葉掘り聞きたいわけではなかったからそれでよかった。パイモンはむず痒そうな顔をしていたが、口を開くことはなかった。
「今日は、もしかしたら帰ってこないかもしれない。だが次に会った時は普通に接してやってほしい。彼も何事もなかったような顔をするだろう。あれは確かに世話焼きだが、気に入らない相手の家で飯炊を続けるほどお人好しではないから」
「それは……」
彼も、今の関係を心地よく思ってくれているのだろうか。頭をよぎった疑問は、さきほど聞いた鍾離先生の言葉で良い方に落ち着いた。先生が笑う。今日は、よく笑う日だ。
「あれでいて、不器用なところがあるのでな」
そう、ついに仕方がないとこぼした彼は、どう見たって友人の顔をしていた。
***
その日の夜、先生の言った通り彼は洞天のどこにもいなかった。しかし邸宅内にはあたたかな食事が用意されていて、風呂も沸かしてあった。作りたてだったわけでもたまたま湯がたまるタイミングで帰ってきたわけでもない。風元素で熱を逃さないよう施されているのである。
「め、飯がある! 風呂もある?! ま、マメだな〜うれしいけど」
まったくそうだ。家事はかれの仕事というわけではないのだから、放って行ってもいいはずなのに。
「こういうところが世話焼きって言われるんだろうね」
きれいになった体でパイモンとふたりご飯を食べる。昼間に言ってたパイモンの食べたいものはそもそもリクエストしていないため出ていないが、それでも彼女のすきなものばかりだ。お肉とにんじんのハニーソテーを頬張るパイモンはにこにこしている。やわらかで弾力のある獣肉と、肉汁と甘さが染み込んだにんじんはとてもおいしい。おいしい、が。
空いた椅子に目がいく。俺とパイモンだけでは用意されなかっただろう席、彼が、セイがいつも座る席。キッチンに一番近く、それでいて一番おれたちの顔がよく見えるそこ。
俺たちを見る彼を思い出した。テーブルに肘をついてこちらを眺めているとき、彼の青みがかった緑のひとみはとろりと緩み、まゆは柔らかく下がって、口端が少しあがる。嬉しそうで、満たされているようで、それこそ美味しいものを食べたときのような、どうしようもなく、幸せそうな顔。
今日あったことを話しながら、おいしいななんて言い合いながら、話に入ってこない彼をふと見た時に、そんな顔をしている。視線があえば笑みが深まって「どうした?」と首を傾げるだけだ。不快だと思ったことはない。ただ、すこし照れ臭くなるだけで。
今日はあれがない。作り物めいた美しい容姿から繰り出される荒い言葉遣いも、指先一つで操られる風元素も。邸宅内はいつもどおりに整えられているのに、彼だけがいない。そういう夜だった。
「……もうすっかり馴染んじゃったんだなぁ」
「どうした? 空」
「なんにも」
ほっぺにソースをつけたパイモンに笑い、肉を口に入れた。甘辛いそれはとても美味しかったけれど、どこか物足りない気がした。
夜中に目が覚めた。隣のベッドではパイモンが寝ている。ひどい寝相だ、上半身がベッドからはみ出てのけぞっている。塵歌壺を譲り受けるまでベッドで寝るなんてそうそうなかったからか、普段消えるか浮くかして寝ているからか。パイモンはシーツの上で暴れまわるのだ。
そっと真ん中に寝かし直す。伸びをした。目が冴えてしまったようだった。水でも飲もうかな。音を立てないように部屋を出た。吹き抜けを挟んで向かい側には、彼の部屋がある。
階段を降りようと窓に近づくと、人の声が聞こえた。喋っている風ではなかった。リズムと、音程がある。──歌っている? 誰だろうなんて思うことはなかった。俺たち以外にここへくるひとなんか、決まっている。
歌は外の、上の方から聞こえた。ハミングだけの歌、容姿に見合わない低い声がおだやかに、途切れ途切れで続いていく。窓から屋根の上へ登る。赤い屋根材の上、棟のあたりに片膝を立てて座る彼の背中がみえた。偽物の月は少し傾いて、どこからか吹く風が彼の淡い色彩をもった髪を撫でていく。涼しい夜だった。やや冷たくもあった。この箱庭に、四季や不快な温度なんて存在しないけれど、それでも、冷たいようで凛とした夜は彼によく似合っていた。赤い屋根材の上、棟のあたりに片膝を立てて座る彼の背中がみえた。
声をかけようか迷った。こちらに気付いているのかはわからない。集中していない彼は、気配に鈍いというわけではないのだ。
一歩近づけばいやでも音が鳴る。彼は振り向かず、歌もやめない。口を開いて──……鍾離先生の言葉が、頭をよぎった。それでもそのまま声に出した。
「……セイ」
彼の肩は震えなかった。代わりに歌が止まる。いつもと違って解かれた長い髪が揺れ、月明かりを受けてかほんのりかがやく瞳が俺を見上げる。
「なんだい、空」
彼は微笑んでいる。食事を眺めるときとは違う、けれど穏やかな笑みだった。……すこし、驚いた。彼は一度も俺たちの名前を呼んだことがなかったから。
「……知ってたんだ?」
「そりゃアな。呼び合ってんじゃねえか」
「俺は知らなかったのに」
「はは、悪かった。センセから聞いたんだろ?」
不自然に風が吹いた。装飾具の付けられた指が空をなぞれば、元素がふたつのコップと蒲公英酒の瓶を運んでくる。そのうちの一つを受け取った。変わった、というか、巧みな元素の使い方をするものだといつも思う。
注がれる酒を眺めながら、何も考えずにいった。
「今日は一晩いないんだと思ってた」
「それもセンセの入れ知恵かい? あのおひとは先見がありすぎていけねえな」
彼は喉を震わせながら、自分のグラスに瓶を傾ける。躱された、と思った。受け答えに違和感はない。そういうつもりだった、というふうにも取れる言い方だ。ただ、直接的な言葉はくれない。つまりはその先を語るつもりがないのだろう。
考える。これは線引きなのだろうか。踏み込んでくるなと、そういう意味なのだろうか。先生も普段通りに接してくれと言っていた。自分のことを語らない男なのだとも。それははっきり訊かれるのも苦手という意味なのだろうか。わからない。でも、探るのは今がいちばんいい気がする。彼が許してくれる距離、彼の琴線のぎりぎりのところ。これからも一緒に暮らすための境界線。
「これから、セイって呼んでもいい?」
「好きにしなァ。お前さんの呼びやすいどれかでいい、新しく増やしたっていいぞ」
侵入野郎とかな? そう言って彼はいたずらっぽく瞳を細める。俺の呼びやすいどれか。どこまで聞いているのかを見透かされていた。けれど見た限りいまの彼に変わりはない。今日の昼間に見せた少しの動揺なんてかけらもなかったかのようだった。許されているような気がした。なかったことにしてくれと言われているような気もした。それでも止めなかった。
「なんでいくつも名前があるの」
「そりゃ国によって変えてるからだな。それぞれに馴染む音ってのがあるのさ」
「自分から名乗りもしないのに?」
「根に持ってるなァ。訊かれることがあんだろ? なくてもおれぁ困らねえがな、誰のことを言ってんのかわかるほうがいい」
「それはそうだね。やっと俺もだれかに綴の話ができる」
「おっと、そっちにしたのか?」
「いろいろ呼んでみようと思って。……さっき国によって変えてるって言ってたけど、いろんな国に行ってるのか?」
「おう、そうだな」
「旅人なんだ」
「おまえさんほどじゃないさ。そう呼ぶやつもいるがね、おれぁ物書きだ。見たまんまを書いて、見てねえもんも見たように書くのよ」
「読んでみたいな」
「さて。すぐに渡せるもんがあったかね」
「普段どんな話を書いてるんだ?」
「ン、いろいろだよ。決めてねえからな、おまえさんのすきなもんはあるかい」
「俺も決まったジャンルはないかな。最近読んだのは、帝君遊塵記。拾ったんだけど、鍾離先生こんなことしてたのかなって思うと特に面白くて」
「あァ。まだ残ってたか」
「え?」
「そりゃおれが書いたもんだ。読んでくれてありがとよ」
「えっ、は?!」