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    原神夢。読み返し用

    物書きとその「友人」たちの話。

     故郷になにか思うところが、まったくなかったとは申しませんが、それとこれとは話が別とはよく言ったもので、わたしは何ら抵抗なく、庇護された箱庭を出ることを決めました。なぜかといえば簡単で、ただ留まっているのは性分じゃないというだけの話、そういうふうに命を授かった、というわけであります。
     かのおひとはわたしをよくわかっていたのかなにも申しませんで、はらから共もまた同様で、わたしはひとつとして世界を漂い始めました。とおくには山をもたやすく切り開く強いお方がいらっしゃるだとか、日と月のように背中あはせで民を守るお方がたがいらっしゃるだとか、そういう話は故郷にいたときですら簡単に耳に入りましたから、はきとした目的というものがなくとも、わたしは己を満たせると確信していた次第です。
     思っていた通りと申しますか、それ以上と申しますか、いわゆる旅というものはわたしをより強く、眩く象っていきました。岩を司る屈強なおかたは想像していたよりも細身でいてなめらかで、想像している通りにお堅いおひとでありましたし、雷を司るお二方はそのもののとおり、雷光とそこにおちうる影といった体で、しかし常に轟くわけではなく、やわらかく語ることもご存知のようでした。そうやって、己が目でみることを愛しておりました。得たものを己が言葉に記すのも愛しておりました。そういうところはどうしようもなく故郷の影響を受けており、そうと自覚したのもまた、己が満ちてゆく過程で気づき、指摘されたことであります。
     おもえばわたしというものは、はらからどもに比べて、はなから我がはっきりとしていたのでしょう、というのも、まだ文字もない時分からおのれだけのものを作っては、今にして思えば怪文を生み出しておりましたし、それを元素で目に見える形にするというのも息をするかの如く試しておりました。はらからどもが日々することといえば風を起こすだけ、漂うだけ、たまにひとを助けるだけ。わたしがいかに可笑しかったか、よくわかることでしょう。
     わたしは矮小な身でありながら、己をより強く獲得していくなかで、はきとしたおのれのからだをも得てしまいました。食事も睡眠も、必要ではないにしろ人民と同じように体験できる、これまでよりもさらに近くで、ものごとを感じ取れるそれはわたしを満たし、さらなる自由をもたらしました。そう、思いました。喜びでした。知り合った尊い方達に見せに行っては、彼らの反応を書き記すのが楽しくて楽しくて、しかたがなくって。
     そうして時は過ぎてゆき、だんだんと世が荒れ、魔神どもが争う世界になっても、わたしは変わらずそこにありました。たまに故郷に戻りはしましたが、それは帰るというよりも滞在するといったもので、そのころには生まれた場所だなんてものは名ばかりで、わたしにとっては数ある土地の一つという認識に落ち着いておりました。常に滞ることなくながれ、記し、まためぐる。そういう生き方が身について、それこそが己であると分かっていたからで、今後世界がどのようなことになったとしても、わたしの存在と自由は覆らないと信じて疑いすらしませんでした。





     洞天にしらないひとがいた。
     必要最低限のものしか置いていない広い邸宅の一室で、俺たちの私物ではない本や実験器具が広げられた床の上に座り込み、ひたすら空中に見慣れない文字を書きつける姿はいっそこちらを感動させた。青みを帯びた白緑の風元素が彼の指先に集まり、伸ばされ、それぞれ文字を形作っていくさまは幻想的ではあったけれど、そんなことはわりと些細なものだった。彼は少し声をかけたくらい、武器を向けたくらいではまるで気付かなかったのである。
    「だ、誰だお前? 泥棒か?!」
     パイモンの第一声はかなりの音量だったが、彼にはかけらも届かなかった。なんだこれ。ここは安心できる寝床だったのでは。そんな思いを抱えながらふたりであれやこれやを試し、挙げ句の果てに耳の遠いご老人を相手にするような距離で声を張り上げてやっと、彼は俺たちに視線を移したのだ。
    「ありゃ。なんだ、空き家じゃねえのか。生活感がねえもんで勘違いしてたよ」
     悪かったな、借りてるぞ。宙に書きつける文字と似た色の瞳をきょとんと見開いて、発した言葉がこれである。パイモンの怒髪天をついたのは仕方のないことだった。
     おおよそ不審者でしかなかった。モンドや璃月ではあまり見かけない服装も、繊細で整った面立ちから出る荒い言葉も、そもそもここに侵入したこと自体がそうだった。しかし俺たちは彼を受け入れるしかなかった。なぜかといえば、そのあと彼はこちらが何を言おうが微動だにしなかったからだ。
     やっと雨風や魔物に侵されない安心安全の家ができたのに、突如として不審者が現れた。しかも立退きもしそうにない。ここにいる理由すら聞かせてくれない。ならば強硬手段だ、と管理を任せているマルに頼んだが、害はないから放っておけというだけだった。壺の精霊がいうのだから、としぶしぶ自分を納得させてその日はとりあえず休み、怒りを持続させるパイモンを宥めつついつもどおり外へ出ることにした。彼はこっそり侵入野郎のあだ名をたまわった。

     洞天に帰って来られたのはそれから数日後である。璃月で休む間もなくいろんなひとの使いっ走りをしたせいだった。くたくたに疲れていた。誰かの頼みを聞いて動くのはそう珍しいことではないのだけれど、あまりに件数が多かったのだ。腹は減っているのに食べる気になれない。シャワーを浴びたいのにその体力がない。とりあえず寝たい。這々の体で塵歌壺を持ち出し、その中に入ったときに、ふと俺たちは思い出した。そういえば不審者がいるのだ。家はいま安心安全ではないのだ。
     ここで私物が荒らされていたら最悪だ、いやマルがいるからそれはないのでは。そんな話をしながらぼやっとした視界で邸宅を見上げた時、玄関がゆっくり開いた。件の彼だった。
    「おかえり。遅かったな」
     外の時刻は日付を超えたばかりだった。おだやかな笑みをたたえ、まるで家人のような口ぶりにかちんときたのは一瞬、まなじりを釣り上げたパイモンが何か言うまえに、彼はたった一言で俺たちを黙らせた。
    「飯できてんぞ」
     めし????
     思考が止まった俺たちを、彼はなにやらつぶやいてから家の中に引っ張っていった。玄関をくぐった瞬間にほんのりえびのかおりがした。何もなかったはずのエントランスには大きなテーブルがあって、そのうえには鶏豆花と、水晶蝦、それからピリ辛蒸し饅頭が並んでいた。じわりと唾液が口の中にたまる。
    「な、なんだこれ? 侵入野郎がつくったのか?!」
    「そりゃアおれのことか? まあいい。そのまえに風呂だわな。湯は張ってあるから泥落としてきな。ほれ、あっちだ」
     彼はさっと手を振って料理に白緑色の膜を張り、すぐさまどこからか吹いた風によって俺たちはシャワールームへ追い立てられた。水を浴びるだけしかできなかったそこは、彼の言った通りバスタブがあって、湯気とともに程よい温度の湯がなみなみと揺蕩っていた。
     眠ってしまいそうになりながらもなんとか風呂を出て、すこし疲れが取れたような心地でご飯を食べた。これがまた美味しいのである。薄めの味付けは疲れた体にじんわりと沁みて、食欲がないなんて思ったのが嘘のようにするする口の中に入っていった。パイモンなんて一つ食べるごとに目を輝かせている。おかわりが欲しい、と彼を見たところで、何も食べずに俺たちを眺めていた彼は空になった皿と交換で湯呑みを出した。
    「足りねえって顔だな? また明日だ。それ飲んだら寝るこった」
    「もっと食べたい〜! 侵入野郎!」
    「やらん。八分目でやめときな」
     湯呑みの中は蜂蜜の入った生姜湯だった。不貞腐れるパイモンと一緒にちまちまそれを飲んでいると、風呂の中にいたような心地がまた戻ってきて──……気がついたらベッドの中で陽光を浴びていた。
     あのまま寝落ちした上に運ばれたのだろうか。慌てて部屋を出てエントランスを覗き込めば、彼が約束通りたっぷりの料理をテーブルに並べているところだった。声をかける前にこちらを見上げた彼は、瞳をゆるりと細めて笑う。
    「どうだい、よく眠れたかい」
    「ねむれた、けど」
    「そりゃアよかった」
     昨日の疲れは嘘のように取れている。寝起きだが頭がぼやけていることも、眠気を引きずっていることもない。夢は一切見なかったし、体はとても軽かった。じわじわ自覚していく快調と、なんてことはないように食事の準備を進めていく彼のすがたに、知らずのうちに入っていたらしい力が抜けていった。
     いちど部屋に戻って、ベッドの上で暴れているパイモンを起こした。身支度を済ませ、エントランスへ降りる。朝食の準備は終わったらしく、テーブルに並べられた料理にはまた淡い緑の膜が張られ、彼は椅子に腰掛け本を読んでいた。
    「うわぁ! おいしそう……」
    「ちびも起きたか。腹一杯食いな、今度は止めねえからよ」
     本を閉じ、くるりと内側に巻く後毛を背に払いながら、彼はさっと指を振った。元素の光が散って、料理にかかっていた膜が消える。品数と準備していた姿を見れば出来立てでないのはわかっていたけれど、料理からはまるでそうであるかのように湯気がたち、芳しいかおりが漂ってくる。
     腹一杯、という言葉を聞いたパイモンが目を輝かせた。
    「いいのか?! じゃあ、いっただっきま、」
    「ちょっとまって」
     いまにも料理へ飛び込んでいきそうな彼女をおさえる。まるい瞳で不満そうに睨まれたがここは押さえてもらわなければならない。このままだったらまた、昨日みたいに流されてしまう。
     居住まいを正して彼と向き合った。一瞬ふしぎそうに目を丸くした彼は、次第に笑みを形作っていく。おれが何を気にしているのかわかっているのだろう。しっかりしているな。視線でそういわれたような気がした。
    「あのさ」
    「あァ」
    「昨日もいまも、世話を焼いてくれたのには感謝してる。でも、まだここにきた理由を聞いてない」
     理由だけじゃなかった。どうやって入ってきたのかも、なぜこんな世話を焼くのかもわかっていないのだ。前は彼が話を聞かなかった。昨日はおれたちが疲れていた。どちらの状況でもない今、ここだけは聞いておかなければならない。彼からなにか、こちらの害になるような嫌な気配はしないけれど、だからといって放置したままでいるわけにはいかなかった。
    「目的はなに?」
     彼は笑みはそのままにひとつ、ふたつうなずいて足を組み直した。机に投げ出された指がこつこつと表面を叩く。
    「実に真っ当な言い分だァな。誤魔化しやしねえ、ちゃんと答える。だからそんな顰めっ面しなさんな。おれが言うことじゃねえがな」
     彼は自分の頬を突いて見せた。こわばった表情を自覚する。隣を見れば、パイモンが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。自分で思うよりも気を張っていたらしい。……きっと、そうあらなくては、と思っていた。俺は彼についてなにも知らないくせに、昨日のたったひととき、あたたかな食事や心配り、そして向けられた穏やかな声と瞳だけで、すでに心を許しかけていたからだ。
     彼がとりあえず食えというので、手前にあったパンを手に取った。ちぎればぱりっと心地よい音と共に表面がさける。なかは見るからにふわふわの仕上がりで、何も考えずに口の中に入れた。小麦のかおりとやわらかな塩気が口の中に広がる。おいしい。手が勝手に近くのスープに伸びた。じゃがいもで作られたらしいそれはほんのりした甘みがあって、どれだけ丁寧に漉されたのかとてつもなく舌触りが良かった。むちゃくちゃおいしい。おあずけを食らっていたパイモンは一口食べるごとに感動仕切りで、毎回宙返りを見せるほどだった。ちょっと悔しい気もする。俺だって料理は得意な方だ。
     彼はそんなおれたちをどこか満足気に眺めていた。料理に手はつけていない。そういえば昨日も彼の前に食器は並んでおらず、早くに起きていたようだからもう済ませているのかもしれなかった。
    「さて。おれがどうしてここにいるのかっつう話しだな」
     俺たちの腹が満たされはじめたころ、彼は特に身構えるようすもなく話し始めた。
    「ここにはな、逃げ込んできたのさ」
    「逃げる?」
     パイモンと視線を合わせた。そんなふうにはまるで見えない。俺たちを眺めたまま、声も穏やかさを保ったまま、なにかに脅かされていたようには思えない態度だった。戦闘の心得があるのだろうか。元素を操っているから神の目を持っているんだろうけど。彼はそっと瞼を閉じた。
    「何か知らんが、最近魔物が寄ってくる。うざったくてしかたねえ。邪魔の入らねえ場所がほしくてよ」
    「それで俺たちの洞天に?」
    「あァ。野営だとキリがねえし、宿にゃ誰かの民がいる。あいつらが干渉できねえ場所っつったら仙人の箱庭だ、ってな」
     放置された洞天だと思ったのさ。そこでやっと、笑みを収めて眉を下げた。
    「ここにいた理由はそんなとこだ。改めて、勝手に入って悪かった。集中してっとほかが見えなくなっちまうもんでなァ、ずいぶん困らせちまったろ」
    「それはまあ」
     こまったというか、諦めたと言うか。あの日の彼は集中しているというレベルではなかった。何をしているのかはわからなかったけれど、野営をしているときも彼曰く集中している時間があるならぞっとする。剣を向けても気付かなかったのだ。魔物が寄ってくるという自覚があるくせに無防備すぎる。だからこそ邪魔の入らない場所を探していたのだろうが。
     だが、それよりも気になることがある。話す気はないのかな、と視線を向けたところで、スープを飲み干したパイモンが首を傾げた。
    「逃げてきたのはわかったけど、どうやってここに入ってきたんだ? ここは空が招待したやつしか入れないはずだぞ」
    「ン」
     彼はゆっくりとまぶたをとじた。表情が抜け落ちる。笑みもなく、申し訳なさそうな色もない。そうしていると、彼の整った容貌が浮き彫りになった。風元素を思わせる緑色の髪、同じ色のながいまつげが頬に影を作る。通った鼻梁も、薄い唇も、ひとつひとつが作り物めいた美しさを持っていた。そのまま、低く、声がこだまする。
    「おれァ風のあるところならどこでもいける。……昔取った杵柄、ってやつさ」
     これまでずっと穏やかで明るかった声色が、どこか硬質なものを帯びた気がした。だけれどそれは一瞬で、青みを帯びた緑の鮮やかな瞳を露わにした彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべる。それだけで、彼の作り物めいた雰囲気は霧散した。
    「昨日と、今日の飯は詫びのつもりだ。気に入ってくれたかい」
    「おう! めちゃくちゃ美味かったし今日もうまいぞ! な、空」
    「うん」
    「そりゃよかった」
     ゆうるりと瞳を滲ませ、やわらかく口角を上げる彼は実に満足そうだった。なんの含みもなく、嬉しいのだとすぐわかる表情だ。昨日と今日、俺たちが食事をしている様を眺めていた時もこの顔をしていた。料理が好きなのだろう。それを食べてもらうことも。振る舞うことに慣れているようにも見えた。
    「で、ここからは相談なんだが」
    「なに?」
    「もうしばらくここにおいちゃくれねえか」
     驚きはない。予想していないわけではなかった。彼はどういうわけか追われて、落ち着ける場所を探して、他の洞天ではなくここへきた。初めて鉢合わせた時、彼はおそらく思う存分に集中していたのだろう。あの状態がやりたいことならば、確かに脅かされない場所が欲しいはずだ。
    「置いてくれって……一緒に住みたいってことか?」
     パイモンが眉を下げていうのに、彼は笑って答える。
    「ずっとじゃアねえよ。そうだな……ひと月ぐらいか。空いた部屋をひとつ貸してくれ。家賃は払うし、置いてくれてるあいだは何でもする。おまえさんらがやらせてくれるんならな」
    「家賃収入……!」
    「なんでも、ってたとえば?」
    「ン? 飯炊きやら風呂の世話やら邸宅の整理やら……まァ昨日やったな。あとは戦闘の補助ってとこか。どこへ行こうが何させられようが邪魔にはならねえつもりだよ」
    「! な、なら、夕飯のリクエストも聞いてくれるのか!」
    「ちゃんと言ってくれりゃあな」
     きらきらと目を輝かせるパイモンをみやりながら、どうだい? とこちらに問いかけてくる彼に不安そうな色合いはない。受け入れられる自信があるのだろうか。
    「もしおれが断ったとして」
    「エッ」
    「ほかにどこかいくあてはあるの?」
     衝撃を受けたのか、ねだるようにこちらを見てくるパイモンは無視だ。彼は大して動揺しなかった。顎に指を当て、すこし視線を巡らせる。
    「あるっちゃあるがね。なんども頼るのはちっとな」
    「そのひとはご飯食べてくれない?」
     おそらく食べているところを見るのが好きだろう彼にとっては、重要なことなのかもしれない。昨日と今日で感じたことを冗談半分で問いかけてみれば、彼はきょとんと目を見開いたあと愉快そうに笑った。伝わったらしい。
    「はは、よく分かったな。鋭いねェ」
    「わかりやすい顔してたよ」
    「そうかい。で、おれぁ駄目か?」
    「いや」
     首を振る。事情を聞いたって、彼は不審者のままだ。突然家に上がり込んで、勝手気ままに家具を置いて、世話をしてくるおかしな不審者。だけれど害はなかった。壷の精霊であるマルが反応しないのもあるが、短い邂逅だけれど自分の目で見てそう判断した。きっと、彼は大丈夫だろう。気が合いそうだとも思う。少々楽観的かもしれないが。
    「ここを荒さないって約束してくれるなら。お風呂もご飯も助かったし……ちょっと、食事は悔しいけどね」
     相棒の胃袋が掴まれるのは割とよくあることである。笑みを作って手を差し出せば、彼は目を細めてそれを握った。
    「契約成立だな。書類はいるかい?」
    「ううん、大丈夫」
     それよりも自己紹介だ。座り直して胸に手を当てる。空気を読んだのか、パイモンも少し胸を張ってすまし顔をした。それも一瞬で崩れることになるだろうが。
    「俺は旅人の空。こっちは非常食のパイモン」
    「ち、が、う〜! 会うやつみんなにやるつもりか?!」
    「はは! いいね。おまえさんらと居ればネタに事欠かなさそうだ」
     案の定怒った彼女にけらけらと笑った彼は、そのまま組んだ足に頬杖をついた。ゆるゆると瞳が緩んで、俺たちに対する好感が滲み出す。
    「おれぁセツってんだ。しがねえ物書きさ。よろしくな」
     こうして俺たちは洞天に新たな住人を受け入れ、旅人でありながらあたたかい食事とベッドの待つ家を持つことになった。






     予感が、しておりました。
     彼らのそばにいれば、何かが起こる予感。それが大きい刺激になる予感。ただでさえ邪魔をされて筆が燻っていると言うのに、まるで旅を始めたころのように、腕が足りなくなるほどに書きたいことが増えそうな、そんな確信に近い予感が、その目と目が合わさった瞬間に、この身体中を駆け抜けていきました。
     彼らのことをまったくしらないわけじゃございません。モンド城の栄誉騎士、璃月港の英雄。風に乗れば、どれだけ離れたところにいてもよぉく聞こえてくるものです。それが面白い、精霊どもの興味を引くようなものであればなおさら、風は楽しそうに笑いながら、わたしの元へ噂を運んでくるでしょう。とくに彼らは特徴的でありましたから、多少脚色された語りであっても一目瞭然、間違えようもありません。
     わたしは運が良いのでしょう、偶然入った洞天で、偶然であったのがかれらで、さらにはわたしを受け入れてくれるというのですから、こんなに僥倖なことはございません。世界の外から来た彼と、旅をし続けていても見たことのなかった空飛ぶ少女。わたしの知らない視点で世界を旅するかれら。なにより疲れていても美味しそうに食事をする彼らの顔といったら!
     ここ最近の悩みの種だった鬱陶しい魔物どもなど、もはや些細なことでありました。この、定めた期間の中で、彼らが見せてくれるだろうこの世界の新たな姿が、綴るべきことが、楽しみで楽しみで、しかたがなくって。ついでに集中できる場所もくださるのですから、わたしの期待は膨らんで、はじけてしまいそうなほどでした。







     セツのいる生活に慣れるのは早かった。元々こちらに気配を悟らせず洞天に潜り込んだ彼だ。違和感を与えない立ち居振る舞いになれているのか、他人の懐に入り込むのが上手いのか。荒い言葉遣いに対して彼の気遣いはとても細やかなのだ。
     自分で言っていた食事と風呂の世話はもちろんのこと、どの時間に帰り、出ることになっても出迎えと見送りをしてくれる。邸宅内に何が欲しいか聞かれたと思ったら、次に帰ってきた時はある程度用意されていて、触っていいものをより分ければそれもまた次には綺麗に収納されていた。適当に配置したから好きなところに並べ直したらいいと言われたが、そんな事をしなくても十二分に使いやすい。なるほど、よく使うものとそうでないものを分けるように言われたわけである。
     極めつけは彼と共に外へ出た時だ。今後に備え、どれくらい戦えるのか確認するために任務に誘ったのだが、それどころではなかった。
    「あァ、近くに清心があンな。要るってんなら採ってくるが」
    「ん。このさきにゃ猪がいるみてぇだ。さて、獣肉はあったかね」
    「ならず者どもがいやがるなァ。いいもん貯め込んでるらしいが……懲らしめとくかい?」
     行く先にある敵だったり素材だったりを先回って教えてくれるのだ。彼は視界の外にあるものも察することができるらしい。あれこれとこちらに提案したり、風元素を散らして姿を消したと思ったら自分に必要な素材を取ってきたりする。
     どうしてか訊ねてみれば、軽く笑ってかれは答えるのだ。
    「風が教えてくれらぁ。おまえさん、テイワットを旅してんだろ。ならそのうち似たようなやつに出会すだろうさ」
     彼のいうことはたびたび抽象的になる。説明をする気がないのか、そのままを伝えているだけなのか。どちらにせよ、嘘ではないのだろうと思う。はぐらかしても騙すような真似はしないと、その頃にはなんとなくだが察していたからだ。
     探索能力が凄まじいのはわかったが、戦闘がそれに劣るわけではない。
     法器が得物らしい彼は、私生活同様サポートに優れていた。離れた敵を引き寄せる、武器を振りかぶった頃合いを見て転ばせる、短時間ではあるが相手の動きを拘束する。それらは全て風元素で行われている為、当然拡散のダメージが入るのだ。邪魔にはならないとの申告通り、それ以上の働きである。俺がいるからサポート役に徹していたのだろうが、立ち回りのうまさからして一人でも十分に戦えるはずだ。きっとアビスの魔術師に遅れをとることはなく、だからこそあのとき「邪魔」なんて言葉で済ませられた。
     いつもより短い時間で終わった戦闘で、元素の名残であおられた髪を背中へ払いながら彼は言った。
    「どうだい。おれぁ合格か?」
    「合格どころか」
     時間が取れる時はぜひお願いしたい。そのまま伝えれば、彼は弾けるようにわらった。
    「必死にアピールした甲斐があったってもんだ」

     そんな感じで三週間、彼とすごした訳だが。
    「……だ、堕落する……!」
     頭を抱えながらパイモンが呟いた。朝から冒険者協会に顔を出し、今日の依頼をこなしてしまえば太陽がちょうど真上を指す時間帯、璃月港は実に賑やかだ。となりの相棒もまた、いつもとは少し違ってはいるが同様である。
    「このままだとオイラたちは堕落する……! 生活能力を奪われる!」
    「だから今日はふたりで行ってきたんでしょ」
     キャサリンから今日の報酬を受け取って鞄にしまいこむ。そもそもパイモンの生活能力なんて皆無に等しい。堕落も何も、という話なのだけれど、かと言って否定できるかと言えば違う。むしろパイモンのいう通りなのだ。
     朝起きたらおいしい食事が用意されてあって、おだやかな挨拶を聞き、家を出るときには柔らかく見送られる。物書きだからなのか知識が深く雑談も面白くて、そんな会話の端々からいつのまにやら好みや希望は把握され、必要なものが手元に現れる。疲れて帰ってくればあたたかく迎えられて、甲斐甲斐しく、けれどこちらが気にしない範囲で世話をされて、用意のしてあるバスタブに浸かり、日で干されたベッドで眠る。これが二週間。危機感を覚えたのは昨日の夜で、空いているならセツも誘おうかなんて話していたのを放り投げ、今朝は心なしかバタバタしつつ外に出てきたのだった。
     今日の依頼もそうだった。戦闘中、元素が動かないことに違和感を覚えたし、崖を登るときに誰もいない隣を見た。毎日連れ回しているわけでもないのに、だ。気付いた時にぞっとした。どれだけ自然に世話を焼かれていたのか。このままではいけない。なにかお礼をしたい。彼の好きなもの、と考え始めたところで、パイモンが何かを閃いたような顔でいう。
    「もしかして侵入野郎は人をダメにするタイプの妖魔なんじゃないか? こう、ぬるっと相手の懐に入り込んで、生活できないようにして、去っていく、みたいな……」
    「流石に失礼だし怖いよ。たしかに人間ってかんじではないけど」
     あれほど巧みに元素を操るひとはいままで二人くらいしか見たことがない。彼は姿を晦ませたり、膜や壁を張ったり、日常生活の細かなことでも使用する。自分そのものが元素だというような使い方だった。外見よりもうんと長く生きているのは確実だろう。それこそ、ウェンティや鍾離先生のように。
     何はともあれ食事時である。パイモンの腹の虫が鳴いたのもあって、冒険者協会のすぐ近くにある万民堂で昼食を取ることにした。空いている席を確認すると、奥に先ほどまで話題に出ていた彼がいた。しかも、ひとりではない。
    「あれ、セツだ」
    「鍾離もいるぞ!」
     パイモンの声が聞こえたのか、テーブルに頬杖をついていたセツがこちらを向いた。次いで鍾離先生とも視線が合う。ふたりは知り合いだったのか。意外なような、そうでもないような。手招きされ、人の合間をぬいつつ近くへ寄る。
    「やあ、旅人」
    「ひさしぶり、先生」
    「奇遇だなァ、おふたりさん。昼飯か?」
    「うん。今日の依頼も終わったし」
    「侵入野郎は自分だけでも外に出るんだな」
    「ちびはたびたびおれのこと馬鹿にしてくれるな?」
     ひでえやつだ。彼は喉を揺らして笑いつつ、こんこんと空いた席を指で突いた。昼間の万民堂は満席だ。お礼を言いつつ椅子に腰掛ければ、じっと俺たちを見ていた鍾離先生が言った。
    「ふたりは彼と知り合いなんだな」
    「知り合いというか」
    「いまはこいつらんところに間借りしてる」
    「……また勝手に住み着いてるのか」
    「人聞きの悪いこといいなさんな。ちゃァんと了承は得てる」
    「おまえは全く」
     先生はふう、と小さくため息をつき、セツはそれを口端を釣り上げながら見ている。また。その口ぶりに長い時の流れを感じた。俺たちに説明した事情は事実なのだろうけれど、それが起こるよりも前から、だれかの家にふらっと現れていたように聞こえる。同時に、彼らが俺が思ったよりもずっと長い付き合いであるのも察せられた。
     渡されたメニューをパイモンと一緒に覗き込む。今は香菱が食材を取りに行っているらしく、卯師匠の手がけた料理が出るようだった。テーブルには鍾離先生の前にだけ食事が並んでいる。セツが何かを食べているところは見たことがない。洞天でもそうだった。一緒に外へ出ても帰るのは別々で、彼の作った料理は俺たちばかりが食べていた。
    「セツはもう食べた?」
    「いや。知っての通り、おれぁ見てる方が好きなんでね」
    「それはそうだけど」
     見るのがすきだから食べない、というのは別に理由はなっていない。
    「必要不可欠じゃねえってことだ。食えねえわけじゃねえよ」
     味がわからんと何も作れねェだろ。セツは聡いひとだった。俺が言葉を探しているうちに答えをこぼして、証明するように鍾離先生の皿から鶏のあんかけを摘んで口に入れた。先生の目が据わっている。行儀が悪いと叱られてもどこ吹く風だ。
     メニューに気を取られつつも話を聞いていたらしいパイモンが信じられないとばかりに声を上げる。
    「じゃあ侵入野郎は腹が減らないのか?! いったい何を楽しみに生きてるんだ……」
    「パイモン……」
     ご飯とお宝が大好きな彼女からすれば信じられないのだろうけど。じっと非常食を見つめれば、なんだよぉ……と弱々しい声が返ってきた。その姿を見てセツが笑った。
    「言ったろうが、おれぁひとがうまそうに飯食ってんのが楽しいのさ。おまえさんらも、このセンセだって、うまいもんに当たった時はこの辺を緩ませやがる。そういうのがイイんだ」
     セツは自分の頬を軽く突きながらとなりを見た。悪戯っけを含んだ視線だったけれど、鍾離先生はうすらと笑ってそれを流す。
    「気にすることはない。昔は彼も毎度食事をしていたし、なんなら目につくものを全て口に入れていた。岩を齧った時は驚いたものだが」
    「えっ」
     ぎょっとしてセツを見た。愉快そうな表情は一転、今まで見たことのない苦い顔をしている。俺たちが見てきた彼はよく笑っていたから新鮮だ。
    「ちょいと、センセ?」
    「契約違反をしたわけでもないのに、自分から喰らいに行くとは」
    「あーあー、もう。若かったんだよ。忘れてくれ」
    「残念だが、記憶力はいい方なんだ」
    「ジジイめ」
     小っ恥ずかしいわ。セツは話を散らすように手を払った。ぜひ詳しく聞きたいが、情報源の鍾離先生は肩を揺らしつつ目を細めるだけだった。彼をいじるのは止めらしい。残念である。
     頼んだ料理が運ばれてきた。湯気とともにふわりと香る香辛料は、すっかり身になれたものである。きらきらと瞳を輝かせたパイモンが、懐から取り出した専用のフォークで(この非常食は手が小さいせいか、いつまで経っても箸がうまく使えない)揚げられた鶏肉を刺した。鍾離先生が食べているのに釣られて頼んだものだ。
     俺たちが食事をしている間も、会話は途切れることがない。交わされることばは全て気安く、また遠慮がなかった。
     たとえばこんな話。
    「どうだ、このセンセにゃ振り回されてるんじゃねえか? 頼りにゃなるが、ひとの細けえ機微ってもんをまるで感じられねえ男だろ」
    「そうだろうか。理解しているつもりだが」
    「おまえさんのそれは理屈さァ。昔っから言ってるがよ、理解と実感ってのは別もんだろうが。かみさま視点は抜けねえな」
    「俺は凡人になったぞ」
    「おまえさんが凡人ならだれだって凡人だぁな。名ァ捨てたところですぐにゃ変わらんとも。だから今の生活なんだろ? これからのんびり染まってくのがいいさ」
    「む」
     それからこんな話。
    「旅人のところに居着いているといったが、また食事を作っているんだろう」
    「まァ。頬膨らませてたらふく食ってくれるやつがふたりもいるんでね、作り甲斐もあらぁ」
    「旅人、あまりこいつの料理ばかり食べるのはおすすめしない。どこへ行っても物足りなくなってしまうぞ」
    「褒めてくれてんのかい? 照れるねェ。ならセンセ、おれの飯食ったせいで物足りなくなったってえのはなんだ? 教えてくんなよ」
    「いわない」
    「なんで」
    「言えばお前は作ってくるだろう? やっと慣れてきたというのに、またお前の味が恋しくなってしまう」
    「……あっはっは! かぁわいい! 鍾離ィ、おまえさんいつのまにそんな可愛げ身につけたんだ、え? これぞ愉快ってえもんだなァ!」
    「ふ、凡人は愛らしいものだからな」
    「冗談まで言いやがる!」
     俺は彼が大口を開けてわらうところや、鍾離先生が拗ねるというか、不貞腐れるというか、そういう表情をしているところを初めて見た。どちらもタイプは違えど落ち着いていて、マイペースをたもつ人たちだから、こうして楽しそうに会話されると聞いているこっちまで楽しくなる。
     すごく賑やかで、たのしい食事の時間だった。ずっと聞いていても飽きない。最近余裕が出てきたし、洞天を本格的に整備して、鍾離先生を招くのもいいかもしれない。そうしたらセツはきっととびきりのご飯を作ってくれて、先生は反撃とばかりに彼の昔話をする。彼らの歴史の一端を聞ける。今日聞いたくらいじゃ話は尽きていないだろう。だって、こんなにもふたりは。
     ちょうど、会話の切れ目だった。全員が食事を終えて、湯呑みの中すらなくなって、そろそろ出ようか、なんて誰が言ってもおかしくない頃合いだった。きっとそこに至るまでのプロセスは違うのに、パイモンが、俺の思った続きを言った。
    「ふたりは仲のいい友達なんだな」
     時が止まった。
     そう、錯覚してしまうほどに、ふたり、特にセツが動きを止めた。眼球のゆらぎも、呼吸もない、たった一瞬。それでも、これまでの会話を聞いていたからこそ。俺たちが首を傾げるには充分だった。
    「侵入野郎?」
    「……ン」
     ちいさく頷き、セツがパイモンの頭に手を伸ばす。髪をかき混ぜかきまぜ、眉を下げて笑った彼は、ぞっとするほどやわらかい声で言った。
    「おまえさんに目にそう映ったのなら、そうなのだろうよ」
     否定も肯定もしない口ぶり。彼にしたら珍しいこともない。だけれどその微笑みも、声音も、知らない──……いや、一度見たことがあった。彼の事情を聞いたあの朝、どうやって洞天に入ってきたのかを聞いたときに、彼は同じ雰囲気を纏っていた。
     そう間をおかずに場はお開きになった。セツはすぐいつもの調子に戻って、すこし雑談を続けたあと全員分の食事代を払い、鍾離先生に一冊の本を渡してから風を伴って消えた。彼は一緒に任務へ出てもさきに戻るひとだ。妙な空気だって雑談であるていどは払拭されたと思う。それでも、あの声色と、言葉と。表情が頭から消えることはなかった。追及されたくなくて姿を消したようにすら感じた。
     やわらかい風が髪を揺らす。となりの鍾離先生を見上げると、彼はセツの消えていった方をぼんやりと見つめていた。その横顔はどことなく心配そうだった。ううんと唸ったパイモンが鍾離先生の周りを飛ぶ。
    「鍾離、鍾離。オイラ、なんか悪いこと言っちまったかなぁ」
    「……いや。大丈夫だろう」
    「でも、」
     あわあわと口元に手を当てる彼女に、ゆっくりと鍾離先生が首を振る。口元には苦笑いが添えられていて、いまにも仕方がないとこぼしそうな顔だった。
    「あまり気にやむな、きっとセツもそう思っている」
     鍾離が言うならそうか。パイモンはそれで自分を納得させたようだ。けれど、俺はそうできなかった。鍾離先生に寄り添うように立って、小声で問いかける。
    「昔、何かあったの?」
     本人に聞くべきだとはわかっている。けれどたぶん、いまの状態で聞いたとしても、セツははぐらかすだろう。だから、ヒントが欲しい。今の関係を崩さないようにするためのかけらが、俺には足りなかった。
     きっと先生は俺の意図を汲んでくれた。彼はそうだな、と小さく相槌を打ち、ゆったりと瞬きをしてから視線を合わせてくる。
    「あるかないか、だけで言えば前者だろう(・・・)。俺も詳しくは知らない」
    「先生でも?」
    「語ることを愛しているくせに、自分語りをしない男なんだ」
     知っているだろう? 問いかけられて頷いた。心当たりはたくさんある。付き合いの短さが理由でないのも、いまわかった。鍾離先生の声が穏やかに響く。
    「旅人。俺たちは友人だ」
    「うん」
    「俺は、彼ともそうだと思っている。だがあれは、いつしか関係に名前を付けたがらなくなった。忌避していると言ってもいい。昔は言葉にするのを嫌がっていただけだったが……」
     視線を巡らせて、先生は小さく息をついた。過去のことを思い出しているのかもしれない。
    「今日は帰ってこない可能性が高いだろう。だが次に会った時は普通に接してやってほしい。彼も何事もなかったような顔をするだろう。あれは確かに世話焼きだが、気に入らない相手の家で飯炊を続けるほどお人好しではないから」
    「それは……」
     彼も、今の関係を心地よく思ってくれているのだろうか。頭をよぎった疑問は、さきほど聞いた鍾離先生の言葉で良い方に落ち着いた。先生が笑う。今日は、よく笑う日だ。
    「あれでいて、不器用なところがあるのでな。多めにみてやってくれ」
    「付き合いが長いんだね」
    「そうだな。彼と会った時、まだ璃月港は存在していなかった」
    「そんなに前からなのか?!」
    「ああ。歳は近い方だ」
     パイモンと顔を見合わせた。長いだろうとは思っていたがそこまでとは。璃月港ができる前で鍾離先生と歳が近いとなると、セツは約四千年、もしくはもっと歳を重ねていることになる。それだけの月日があるならば、俺たちやほかのひとなんて子供のように見えるに違いない。あの面倒見の良さや落ち着きようにも性格以外の説明がつく。
     同時に、考えてしまった。もし、彼が関係に名前をつけたがらなくなったきっかけが千年単位で昔の出来事だったとすれば、それは。……たとえそうであったとして、俺にはどうしようもないのだけれど。
     なんにせよ、セツのあの態度の輪郭は掴めた。気をつけることはさして思い当たらなかったけれど、それは先生の言う通り「いつもどおり」が良かった、ということなのかもしれない。きっと彼だっていつもどおりに振る舞うだろう。俺たちが出かけている間に戻ってきて、料理や風呂の支度がしてあって。おかえり、と言われるのにただいま、と返すのだ。彼が、帰ってきたら──……?
    「侵入野郎、今日は野宿になるのか?」
     はた、と、気づいたことを、眉を下げたパイモンがそのまま言った。そうだ、彼は外でひとりになるのだ。襲われると言っていたが大丈夫だろうか。俺たちがそばにいたときはそうでもなかったが、それはつまり一人の時を狙われているということで。心配していたのが顔に出ていたのか、鍾離先生が首を傾げる。
    「どうした。不安そうだが」
    「セツが外で一人っていうのがちょっと」
    「ふむ?」
    「あいつ、最近魔物が妙に寄ってくるからってオイラたちのところに来たんだ」
    「何?」
     眉を寄せた先生に、自分語りをしない弊害を見た。あれだけ話していたのに、近況報告もしていないらしい。
    「いつもの気まぐれかと思っていたが」
    「逃げ込んできた、って言ってたよ。執筆中に邪魔されるのがうっとうしいから、絶対相手が干渉できない洞天が良かったんだって」
    「……なるほど」
     次に来たときは問い詰める必要がありそうだ。顎に手を当てて少し視線を巡らせた先生は、すぐに俺たちを見て小さく微笑む。
    「感謝する。あれは聞かれなければ話さずとも良いと思っているうえに、こちらに異変を悟らせないからな」
     そう言ったあと、ついに仕方がないとこぼした彼は、どう見たって友人の顔をしていた。


    ***


     その日の夜、先生の言った通り彼は洞天のどこにもいなかった。しかし邸宅内にはあたたかな食事が用意されていて、風呂も沸かしてあった。作りたてだったわけでもたまたま湯がたまるタイミングで帰ってきたわけでもない。熱を逃さないよう風元素が施されているのである。
    「め、飯がある! 風呂もある?! ま、マメだな〜……うれしいけど」
     まったくそうだ。たしかに洞天へ置く代わりに家事手伝いをしてくれるという話だったが、あくまで手伝いなのだ。放って行ってもいいはずなのに、彼は今も、普段からも一手に引き受けてくれている。
    「こういうところが世話焼きって言われるんだろうね」
     おかえり。ちょっと出てくるから、こっちは気にせずゆっくり過ごしてくれ。テーブルの上に残された置き手紙には、流麗な文字でそんなことが書かれてあった。
     きれいになった体でパイモンとふたりご飯を食べる。お肉とにんじんのハニーソテーを頬張るパイモンはにこにこしている。やわらかで弾力のある獣肉と、肉汁と甘さが染み込んだにんじんはとてもおいしい。おいしい、が。
     空いた椅子に目がいく。俺とパイモンだけでは用意されなかっただろう席、彼が、セイがいつも座る席。キッチンに一番近く、それでいて一番おれたちの顔がよく見えるそこ。
     俺たちを見る彼を思い出した。テーブルに肘をついてこちらを眺めているとき、彼の青みがかった緑のひとみはとろりと緩み、まゆは柔らかく下がって、口端が少しあがる。嬉しそうで、満たされているようで、それこそ美味しいものを食べたときのような、どうしようもなく、幸せそうな顔。
     今日あったことを話しながら、おいしいななんて言い合いながら、話に入ってこない彼をふと見た時に、そんな顔をしている。視線があえば笑みが深まって「どうした?」と首を傾げるだけだ。不快だと思ったことはない。ただ、すこし照れ臭くなるだけで。
     今日はあれがない。作り物めいた美しい容姿から繰り出される荒い言葉遣いも、指先一つで操られる風元素も。邸宅内はいつもどおりに整えられているのに、彼だけがいない。そういう夜だった。
    「……もうすっかり馴染んじゃったんだなぁ」
    「どうした? 空」
    「なんにも」
     ほっぺにソースをつけたパイモンに笑い、肉を口に入れた。甘辛いそれはとても美味しかったけれど、どこか物足りない気がした。

     それから。彼は三日経っても帰ってこなかった。





     ふらふらと飛び回っていたわたしには、きっとそうと呼べるものが各地におりました。畏れ多くも尊いお方々や、はらからども、人の子など、のべつまくなしに語り合ってまいりましたから、そう不思議なことでもないのですが、なにぶん当時のわたしというのが、わざわざ言葉にしなくてもわかる、そもそも確かめるだなんて野暮も野暮、と知ったかぶった風体でいたものですから、まあばかばかしい話です。語りを愛しているというわりに、ひと一倍二倍こだわりばかりをもって、そんなことを真だと信じて疑っていなかったのです。
     故郷を飛び出して幾星霜、おもえばわたしのまわりにはお優しいかたばかりだったのでしょう。当然のこと、物盗りやらならず者やらに出会したことがないというわけではなく。わたしが語りかけるお方も、それを受け入れてくださるお方も、みな素直なもので、少なからず心というものを持っていらした。わたしはそれに生かされていた。箱庭から出てきたわりに、いつまで経っても箱入りの世間知らずであった。こういうわけです。
     だから、わたしは穴に墜ちました。魔神の争う時代の真っ只中で、無防備にも自身に入りくる冷えた風を堪能しているときに、強く叩きつけられ墜ちました。風が産毛すら揺らすことのない、石造の穴です。墜ちるのも、蓋をされるのも、瞬き一つで終わるほどの出来事でした。思い返せばおのれですっころんだようなものとはいえ、そのとき近くには、というよりもわたしの足を引っ掴んだのも蓋をしたのも、わたしが確かめなくともわかると豪語したうちのひとりでありましたから、どうしてどうしてと喚いたものですが、ま。莫迦はそのまま放置され、おのれで積んできたと思っていたものは、ほかの優しさで包まれていたからこそなのだと知らざるままではいられませんでした。
     かといってなにもしないままであったわけではありません。はじめは石壁を叩いておりました。つぎに逃れることを試みました。おのれの諦めが悪いというのを知ったのはこのころでした。声は枯れ、得た体は裂け、風を起こすことすらできず、肉体を自ら解くこともできず。そうしてやっと、なにもできぬことを悟ったのです。
     そう。わたしは別段自由などではなかった。不自由を知らぬだけでありました。





     夜中に目が覚めた。隣のベッドではパイモンが寝ている。ひどい寝相だ、上半身がベッドからはみ出てのけぞっている。塵歌壺を譲り受けるまでベッドで寝るなんてそうそうなかったからか、普段消えるか浮くかして寝ているからか。パイモンはシーツの上で暴れまわるのだ。
     そっと真ん中に寝かし直す。伸びをした。目が冴えてしまったようだった。水でも飲もうかな。音を立てないように部屋を出た。吹き抜けを挟んで向かい側には、彼の部屋がある。もうずっと、帰ってこない、気配すら見せない彼の部屋だ。
     セツが姿を消してもう十日以上が経っている。最初の二、三日は気にしないようにしていたが、四日も日がすぎると流石に心配で友人たちに話を聞いては璃月港を走り回った。彼が戦闘にも優れていると知っているが、それとこれとは話が別だ。これまでは一人で旅していたのだからそうそうまずいことにはならないだろうけど、それでも事情を聞いた身としてはどうしても心配になってしまう。
     そうしているうちに次の七神探し──……稲妻への旅に目処がつき始めて、少しだけ忙しくなって、それでも探し続けた。結果、彼は見つからないままだ。鍾離先生には心配し過ぎるな、と言葉をもらった。それが二つの意味を持っていることは理解している。ひとつはセツの身の安全、もう一つは、俺の心情について。
     もうすぐ、彼と出会って一月になる。契約の終わりが近づいてきている。集中できる環境を求めてやってきた彼は、瞬く間に俺たちに馴染んでしまった。このままいなくなってしまうつもりだろうか。そんなことを考えて、素直に嫌だな、と思った。会えなくなるのが不安だった。彼が甘やかすのがうまいからじゃない。もっと、同じ時間を過ごしたかったから。これまでの時間が楽しかったからだ。……そんな不義理なことはしないだろうとわかってもいるのだけれど。
     ちょっと出てくる、と彼は書き残した。長く生きている彼のちょっと、と俺の体感は違うのだろう。でも。
    「……長すぎるよ」
     彼の部屋を見るたびにそう思う。たくさんの本やなにやらかの器具が乱雑に置かれた室内は、セツがいたころとまったくかわりのないままにしてあった。もともと何もなかった部屋なのだ。部屋を覗き、様子が変わっていないのを確認しては安堵と心配がないまぜになる。今夜もまた、部屋に変わりはない。
     階段を降りようと窓に近づくと、人の声が聞こえた。喋っている風ではなかった。リズムと、音程がある。──歌っている? ど、と心臓が音を立てる。誰だろうなんて思うことはなかった。俺たち以外にここへくるひとなんか、決まっている。
     歌は外の、上の方から聞こえた。ハミングだけの歌、低い声がおだやかに、ときおり外れながら途切れ途切れに続いていく。慌てる心を押さえつけながら窓から屋根の上へ登れば、赤い屋根材の上、棟のあたりに片膝を立てて座る彼の背中がみえた。
     偽物の月は少し傾いて、どこからか吹く風が彼の淡い色彩をもった髪を撫でていく。涼しい夜だった。やや冷たくもあった。この箱庭に、四季や不快な温度なんて存在しないけれど、それでも、冷たいようで凛とした夜は彼によく似合っていた。
    「セツ」
     呼びかけたのと同時に、屋根材が軋んだ。歌が消える。宙に伸びかけていた彼の指は止まり、ゆるりとこちらを振り返る。風元素を思わせる目が見開いている。俺に気づいていなかったのを見るに、どうやら前ほどにはないにしろ集中していたらしい。
    「おっと、起こしちまったか?」
     わりぃな。一緒に過ごしていた二週間とまるで変わりのない声音に憎らしさが募った。なんで平然としてるんだ。こっちがどれだけ心配したかも知らないで。恨言がいくつも頭の中に浮かんでは消えて、十日前に鍾離先生に言われたことが頭をよぎり、音になることなく吐息に変わる。
     いつもどおり。ならば何よりも先に、こうするのが一番だろう。
    「おかえり」
    「……おう。ただいま」
     すこし不貞腐れた声になってしまったのは否めない。それでも彼は瞳を蕩かせながら返事をした。その目を見て、先生が言っていたことが正しかったのだと思い知らされる。彼は、おそらく安心している。俺の一言目が、彼がいなくなった日の言及でなかったからだ。なんでもないような顔をして、声をして、その奥に小さな不安を隠している。
     少し荒くなった動作で隣に腰掛ければ、彼はもはや懐かしさすら感じさせる元素使いで、俺に毛布と水の入ったコップを用意してくれた。一口飲んで、見極めつつ文句を垂れる。
    「セツのちょっとだけ、ってこんなに長いの」
    「はは、寂しかったかい?」
    「心配した。襲われなかった?」
    「マ、来はしたが。綴るのはやめてたんでな、問題ねえさ」
    「それならいいけど」
     いや、よくはない。だってこれじゃあ俺の不安の一割も伝わっていない。かといって全てをぶつけてしまえばあの日のことに近くなりすぎて、言及するにも今ではないのは明らかで、結果なにもいえず黙るしかなかった。膝を抱え顎を乗せて遠くを眺めていれば、となりからくすりと吐息が漏れる。
    「ありがとさん」
     柔らかい声だった。宥めるような、けれどきっと、それだけの意味ではない、心からのものだった。
    「わるかったよ、おれが不義理だったな。置いてもらってるってんのに空けすぎた」
    「そうだね」
     意地悪のつもりで肯定した。置いてあげているなんて、そんな恩着せがましいことは思っていない。むしろ彼がいてくれているおかげで、生活が豊かになっている自覚がある。いなくなったら不安でたまらなくなるくらいに。視線を向ければ、彼は声と同じく柔らかに微笑んでいる。
    「このまま姿をくらまそうなんざ考えちゃいなかった。ちゃァんと戻るつもりだった。これでも早かった方だ、なんせうまそうに飯食ってくれるやつらがいねえもんでな」
     俺の感情は彼に筒抜けらしい。だから言葉にしてくれている。きっと、訊ねなければ言わなかっただろうことを、いま伝えられている。それをじわじわと理解して、同じように胸が暖かくなっていった。少なくとも、そうやって気をかけてくれるくらいには、俺たちとの出会いを悪くないと思っている証拠だ。
     体のうちに燻っていた怒りと不満は消えていた。自分の単純さが妙に笑えて、緩んだ口元はそのままにすこしからかってみる。
    「寂しかったんだ?」
     声音で伝わったのだろう、彼も口角を釣り上げながら乗ってくる。
    「あァ、そうとも。特にな、あのちびはいい顔して食いやがるから」
    「セツのご飯は美味しいからね。すごく悔しいけど」
    「ちびはおまえさんの飯も食いたがってるよ。たまァによ、思ってんのとちげえなって顔をしてる。ありゃあおまえさんの味を思い出してんだろうさ」
    「ほんと? よくみてるね」
    「それが趣味なんでな。おれぁ目も、耳もいいのよ。……噂に聞いたぜ。探してくれてたんだろ」
    「鍾離先生に聞かなかったらもっと探し回ってたよ」
    「何か言ってたか?」
    「しばらくすれば戻ってくるだろうから普通にしとけって」
    「はァ、あのおひとは機微に疎いわりにわかっていやがるからいけねえ」
    「古い付き合いなんだってね」
    「そうさ。うんと昔から、おれの名をつけたのもあのおひとよ」
    「そうなの?」
    「おん。説、ってな。綴るお前にゃちょうどいいだろうと、今よりかたァいご尊顔で言われたよ」
     それは聞いちゃいなかったか? 過去を語る彼に何かを秘める色も、憂いも見られなかった。本当に、よく話してくれている。あの日、触れてしまったことを絶妙に避けて、けれど空けた時間を埋めるように、言葉を尽くしてくれている。その優しさに甘えることにした。話が面白かったというのもあるが、聞いていれば彼の琴線を見極めることができるんじゃないかと思った。
    「おれが飯を振る舞うようになったのもあのセンセイさ」
    「なにか契約したの?」
    「あァ。紙なんぞなかった時代だ、おれが書いてはその辺に放るのをあのおひとは気に食わなかったようで、残してえから対価を決めろ、と言われた。だったら飯を作るから食えってなもんで、今まで続いてる。センセはこれは契約になってねえとうるせえが」
    「もしかして、たびたび一緒にご飯食べてるのってそれ?」
    「ン。飯屋ができ始めてからは作んのも減ったな。おれぁ食ってるところが見たくて、あのおひとはおれの書いたもんがほしい。作る代わりに奢ってんのさ」
    「俺もセツが書いた本読んでみたいな」
    「さて。すぐに渡せるもんがあったかね」
    「普段どんな話を書いてるんだ?」
    「いろいろだよ、決めてねえからな。おまえさんのすきなもんはあるかい」
    「俺も決まったジャンルはないかな。最近読んだのは、帝君遊塵記。本屋で見たんだけど、鍾離先生こんなことしてたのかなって考えながら読むと特に面白くて」
    「あァ。まだ残ってたか」
    「え?」
    「そりゃおれが書いたもんだ。読んでくれてありがとよ」
    「えっ、は?!」
    「もしかしたら他にも読んでたりしてなァ」
     ふと、会話が途切れた。コップの水はとっくに飲み干して、体を包む毛布には俺の熱がうつりきっている。それくらいの時間が流れていた。そろそろお開きだろうか。終わりの気配を感じ取っていれば、ふと遠い偽物の空を眺めていたセツが、たびびと。静かな声で俺を呼んだ。
    「おれぁしがねえ物書きだ。この世界にあったこと、なかったこと、全部ひっくるめて、かき混ぜかき混ぜして綴るもんだ」
     彼の指が宙を滑る。集められた元素が夜闇にぼんやりと光り、この世界の文字を象っては崩され消えていく。淡い光がわずかな時間、彼の睫毛や頬を照らして沈む。
    「それはな、ものを見て聞いてなんぼだ。おれの綴りてえのはまったくの虚(うろ)じゃねえ。このテイワットにある事実、そっから派生するなにかなのさ」
     セツがこちらに視線を向けた。彼はいたずらっぽくでもなく、愉快そうでもなく、声と同じく静かに微笑んでいた。細められて滲んだ風元素の瞳が、月明かりをはじいて色を薄くしている。輝いているようにも見えた。
    「知ってるか。おまえさんらと出会ってから、おれは筆の乗りがいいんだ」
     だから。続く言葉に期待した。同じことを思ってくれているのだと予感した。そしてそれは、決して気の所為などではなかった。
     彼の唇がほんのすこしだけ戦慄く。きっと、躊躇っているのだった。それでも収めることなく、彼は口にした。
    「もうすこしばかり、ここにおいてくれ。迷惑じゃねえなら、だが」
    「そんなの思ったことないよ」
     少し食い気味に言ってしまったのは仕方がないと思う。彼はどんなに俺たちが助かっているのかわかっていない。
    「俺も、パイモンもね。セツと一緒にいて楽しかったからさ」
     うれしいよ、と言えば、彼は少し目を丸くしてからはにかんだ。
    「ありがとさん」
     今度は明確な期間を決めなかった。先程までは腹を立てていたくせに、彼がもう少し、と言ってくれたのが嬉しかった。なにせ、セツのちょっとは俺が考えるよりも長いのだ。
    「セツってなんでもできると思ってた」
    「うるせえ、忘れろ」
    「なにかって言ってないのに」
    「わかってんだよ。歌は得意じゃねえんだ」
    「音痴ってほどじゃなかったよ」
    「忘れろっつってんだろ」
     完全に不貞腐れた声音、しかめっつらに鋭い眼光。おだやかさとは遠い、そんな子供っぽい様子は初めてで、声をあげて笑ってしまった。より睨まれた。ごめんってば。

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