知恵の幽霊 知恵の殿堂へ出入りする人間の顔は大体把握している。それは何年も教令院に所属しているアルハイゼンにとってはごく自然なことで、ゆえに、見慣れない顔を目にしたときはこれもまた自然と視線を奪われる。
若草よりも青みを帯びた長い髪が揺れるさまを見た。振り返ったさきにいたのはアルハイゼンの知らない男だった。歳の頃はアルハイゼンに近しく、衣服から学生でないのは見てとれた。髪と同じく長い黒衣と金の装飾は伝統の衣装に似た型をしている。不審だった。知恵の殿堂へ出入りできるのは学生か教令院の関係者のみで、後者だとしてもあんな、膝を立て頬杖をつきながら書物を読み耽るなんて態度をとるはずもない。ここは未来の賢者の目で溢れている。
そこまで把握して、アルハイゼンが最初に思ったのは珍しいな、という関心だった。アルハイゼンの予測からすれば、彼は知恵の殿堂へ潜り込んだことになる。おそらくたった一人でだ。堂々としていればバレないと知っているし、実際旅人に実行させたのはアルハイゼンではあるが、目の当たりにするのはまた別だった。興味をつよく惹かれた。
だから、無断侵入への注意だとか警告だとか、そういった義務感はひとつもなく(そもそもそういったことはアルハイゼンの仕事の範疇ではなかった)、その長い髪で隠れた顔を拝んでやろうと思った。
開いていた本を閉じて、体を男の方へ向け。瞬きをした。アルハイゼンにそうした自覚はなかった。それこそ一瞬、一秒にも満たない時間視界が途切れた。たったそれだけで、男は姿を消していた。
「……は?」
思わず声が漏れ、足が止まった。何度、わざと瞬きをしたって景色は変わりやしなかった。男はいない。読んでいた書物もない。椅子の位置が、ひとり座っていた分ずれているだけである。
見間違えたはずもない。なにせアルハイゼンは彼を視界に捉えてから、その衣服や姿勢に至るまでを観察していたのだ。そも、アルハイゼンは自身の記憶力を疑ったことなどなかったので、男がいる幻覚を見たかもしれないなどという考えは存在しなかった。
しかしアルハイゼンは学者であった。自身の能力とは別に、第三者の見解も必要だと心得てはいた。ゆえに、消えた男が使っていたテーブルの隅で論文を書いている学生に声をかけた。
「きみ」
「? はい、書記官。どうかされましたか」
「そこに座っていた男を知っているか?」
「はい……?」
学生はアルハイゼンの顔を見て、その指差した席を見て、視線を戻した。眉は下がり、瞬きはのろく、指先だけでずれた眼鏡をあげるさまは困惑を隠していなかった。
「男、と言われましても……。僕は朝からここを利用しておりますが、近くに座ったものは見ておりません」
「集中が過ぎたのではないかな」
「流石に椅子を引く音が聞こえればわかります」
お疲れなのではないですか。学生の声は遠かった。アルハイゼンの意識は、音もなく消えた男に──……男が座っていた席にかすかに残る風元素に囚われていた。