桜時(知己の巷談) 春光を包んだうららかな風が桜の香を帯びて彷徨う。いかに雪深く閉ざされた姑蘇といえど春の訪れを感じられるこの穏やかな季節。春風と共に雲深不知処ではある噂が流れていた。
「なあ、知っているか」
稽古場の片隅、冷たい湧き水で剣術の疲れを癒していた藍思追に、藍景儀が声を潜め話しかける。
「雲深不知処の裏山に一本の古びた桜木があるだろう。そこで好きな相手の服の裾に触れると、二人は生涯幸せになれるらしいんだ」
その漏れ聞こえた話に、魏忘羨は盛大に吹きだした。
「な、なんだよ!魏先輩」盗み聞きするなよ!と詰る景儀に「ああ、なんでもない続けてくれ」こほんと上級者らしく咳をして誤魔化すが、しかし心の中では(流石お子ちゃまたちだな!そんな噂を信じているとは!)と腹を抱えて笑っていた。
桜の木の下で、男女が結ばれる逸話なんて、古今東西何処にでもありふれた巷談だ。魏無羨の故郷・雲夢では桜ではなく、湖上で一番先に花咲く蓮花の傍らであったが。
娯楽の少ないこの場所では、そんな噂があたかも美談のように語り継がれているらしい。(健全で結構なことだな)にやにやと上がる口角を魏無羨は指で隠す。
そもそも女人が極めて少ない姑蘇藍氏だ。魏無羨もこの間女修士を見かけた時は、感動し、しばしば見入った程である。そんな稀有な存在と人気ない裏山へ連れ立って行けるのならば、その男女は元々十分に脈があるし、注目の的にもなろう。なるほど、噂というものは成るべくして成るものらしい。
残念なことに、魏無羨の座学時代には、こんな浮ついた噂話等なかった。家訓と睨み合うばかりの退屈な毎日だ。だから、学友たちはこぞって魏無羨の居室に集まり、酒を片手に春宮図や女の好みについて語りあう刺激的な夜を過ごしていたのである。
(……そういえばこの時期は、裏山で美味い山菜が採れていたな)
酒の肴にしていた山の実や根菜を思い出し、よし、久しぶりに取りに行くか、と魏無羨は軽い足取りで稽古場を後にした。
裏山がこの付近一帯で人気の少ない理由は、その未開さにある。姑蘇でも北側、奥窄みにある裏山は、雪解けが遅く、獲物となる動物も少ない。また諸所が荒廃しており、通行も不便なため、滅多に人等通らなかった。だからこそ、誰から荒らされることもなくのびのび育った山の幸を、魏無羨は昔から独り占め出来たのだ。
目ぼしい山菜をあらかた取り終え、木陰で一休みしていると、ふいに人の声が聞こえる。
(こんな場所に人が来るなんて珍しいな)
興味に駆られ、そっと声のする方を覗き込むと、魏無羨から少し離れた薄暗い林の影に小柄な女性の影が見えた。
歳は15・6歳位だろうか、顔はよく見えないが、きょろきょろとあたりを見回すその仕草にはやや幼さが残る。白い校服に身を包みその傍らに剣を排していることから座学の修学に来たどこぞの世家の子女だろう。
一瞬、裏山に迷いこんだのかと思ったが、彼女がしきりに背後を気にし、時折何かを話しかける様子から、独りではないことが伺い知れた。
(裏山に女と連れ……これはもしかして例の噂話じゃないか!)
なんと巡り合わせのいいことだろう。面白くなってきたぞ、と魏無羨はひょいっと木の上に飛び登ると、見つからないよう身を伏せ、高みの見物と決め込むことにした。
魏無羨の読み通り、女性の後ろから出てきた影は、彼女より一回りも肩幅や背丈がある頑丈な男のものだ。二つの影は、女性が導くように一定の距離を保ったまま、山の麓へと向かっていく。この時になり、ようやく魏無羨の隠れた場所からも二人の顔が確認できた。
(大人しそうなお嬢さんだが、男を連れ出すなんてなかなか勇敢じゃないか、度胸もある。こんな子女に好かれる運のいい男はどんな奴だ?)
口許を緩ませながら身を乗り出した魏無羨は、現れた男の横顔にハッと息を飲むと、びくりとその身を震わせた。
白く艶やかな肌は、陶磁器のように滑らかで美しい。
墨で引いたような整った線が彼のすっきりとした目元と長い睫毛を彩っていた。その容貌はこんな深い山奥で見ると、麗し過ぎて人間のものとは思えず、さながら仙人か神かといった神秘的な雰囲気だ。思わず見入った魏無羨は、やがて深いため息をつくと、片手を額に当て天を仰ぐ。
(お嬢さん、それは悪手だ。そいつは俺の夫じゃないか!)
含光君が年頃の若い娘と連れ立て歩いている。その光景を目の当たりにしても魏無羨の心に浮かんだものは嫉妬ではなかった。なにせ座学時代ですら、あの堅物と勧んで二人きりになろうとする猛者はいなかったのだ。今もあの男は、娘がしきりに振返り、懸命に話しかけているのに、うんともすんとも言わず、冷ややかな表情を崩さずにいるので、魏無羨が彼女に同情するのも仕方がないことだろう。
裏山の切れ目となる開豁地、樹木が鬱蒼と茂る裏山で唯一、日光の燦燦と当たるその場所に、噂の桜の木はあった。老幹が大きく腕を広げ、残り雪を洗い流すかのように桃色の淡い桜が仄かに咲き乱れる。
そこで、ようやく彼女は、足を止めた。
「貴方様のことをお慕いしておりました。今日はお別れを言いたくて、お呼び致しました」
深々と頭を下げ、過去の言葉形式から始まる彼女の告白は、魏無羨の予想の外だった。
「含光君にお相手がいることは存じております」
穏やかな静寂に波紋を立てるように、喉を振り絞るような彼女の微かな声が聴こえてくる。
魏無羨が趣味悪く覗いたりせずとも、伸びた影が初々しい二人の距離を映し出していた。彼女の堅く握った拳が、小刻みに震えていることも 。
座学が終われば彼女は自らの世家へと戻る。この年頃であれば、もう嫁ぎ先も決められているかもしれない。この先、含光君への接見はおろか、この雲深不知処に足を踏み入れることすら、叶わないのだろう。
「私は、貴方様のお姿を遠くで拝見できるだけで、毎日が、とても幸せでした」
もう会えなくなる胸の痛みに、残されたわずかな時間に、背中を押された彼女の精一杯の告白は、悲壮だ。告白とはこんなにも痛ましいものだっただろうか、と魏無羨は静かに聞いていた。
「私なんかが含光君にお願いするのも大変烏滸がましいと承知しておりますが、どうか、どうか最後の思い出に含光君の服の裾を触らせていただけませんか」
お願いしますと再び頭を下げ、思い出の中だけで慎ましくを愛しい人を想うことを選んだ娘は、いじらしい。応援する気などさらさらない魏無羨でも、心絆されてしまうくらいに。
「……」
僅かに含光君が動いた気配がして、ドキリと魏無羨は怯えた。
(彼女に触らせるな)
彼女の背中に師姉を重ねた。この娘は、片思いの痛みにもじっと堪え、人を思い続けることができる勇敢で優しい人なのだ。そんな人に近づいて欲しくなかった。
魏無羨の心は波打ち際の防波堤のように絶え間なく大きな不安に満ちて、溢れてしまいそうになる。
含光君の綺麗な指先が服の裾へと伸びていく。その動きに魏無羨の胸は締め付けられるように軋む。もとより服に等執着のない男だ。頼み込まれれば、簡単にそれを与えてしまうかもしれない。それが嫌だった。
「成らぬ」
突然聞こえた含光君の声に弾かれたように魏無羨は二人を覗き込んだ。はっきりと告げた声に、彼女は目を大きく見開くと、すぐに零れ落ちそうな涙を隠すようにぐっと唇を噛み、くしゃりと笑った。
「そうですよね、私なんかが触るなんて」
羞恥と悲しみに泣きそうになりながらも、それでも背筋を伸ばし、耐えている彼女は美しい。
「違う」珍しく、口数を足し、含光君は云った。
「魏嬰が……悲しむかもしれない。私はそれが嫌だ」
俺は、……俺はきっと彼女の味方をすると思う。「なんだよ、藍湛、服くらい触らせてやれよ。減るもんじゃないだろ?」そう笑って本心を隠して、藍湛の気持ちを推し量ることもなく。
なあ、だって仕方ないだろう。俺は目の前の人を見捨てていられない性質なんだ。
「お前の博愛主義も大概にしろ」と江澄には幾度も叱られたが、俺はそうやって身を滅ぼすまでこの生き方を変えられないのだと、そう思っていた。
だが違う。お前と会って俺は己の心の狭さに何度も気づかされる。
……服の裾すら触れさせたくないなんて。
「羨ましいです。そんなに貴方様に思われている人が」
彼女は独り事のように呟くと、最後にもう一度、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。……さようなら、含光君」
走り去っていく彼女の姿は、ひらり舞う花びらに隠れて藍湛には見えない。
大粒の涙が、春風に紛れて消えていく。
それを魏無羨は眩しい目で見ていた。
立ち去る彼女の後ろ姿に師姉の影が重なる。もう何年も経ったのに、記憶をなぞろうとすれば、すぐに鮮やかに、思い出す。
「阿羨」と俺を呼ぶその優しい響きも、温かな手の温もりも、師姉の背で散った舞うような桜の花びらも。
「羨羨にはまだ恋は早かったかな」
記憶の中の師姉は揶揄われ、魏無羨は一人心地に呟いた。
(違うよ、師姉、あの時はもう、俺はあいつのことが好きだったのかもしれない)
だがこんな優しい思い出は、俺にはなかった。
「魏嬰」
「なんだ、俺がいることに気づいていたのか」
突然声をかけられて、罰が悪そうに魏無羨は木の陰から顔を出した。
ふらりと飛び降りると、当然のように白い衣の腕で包まれる。はためいた抹額が頬を掠め、ふと感傷に浸った。
「…俺にも、お前との思い出があったらよかったな」
ぼそりと口をついて出たのは、鉛玉のような本心だった
あの時は、生きるのに精一杯だった。
どうしたら目の前の者を守れるのかと、身を擦り減らすばかりで恋だの、愛だのは、魏無羨には与えられなかった。
「……私には、ある」
その言葉に、魏無羨は目を細めた。
「へえ?いったい誰とだ」
一瞬迷ったような顔をした藍忘機だったが、すぐにその些細な変化を止め「君を見つけたときのこと、だ」と語りだす。
座学時代、蔵書閣から居なくなった魏無羨を探しに行くよう藍啓仁から命じられ、藍忘機は、裏山に辿り着いた。桜の木の下では気持ち良さそうに昼寝をしている君がいて、いつもならすぐに起こす藍忘機だったが、その日は出来なかった。
魏無羨の腕に抱かれ、兎が寝ていたからだ。
仕方なく、藍忘機はその隣に並んで座り、その寝顔を見ていた。
(もうじき君はいなくなる。君の家へと帰る。私のことも、忘れてしまうのだろう)
春風が踊り、桜が舞い散る。花びらが二人を隠してくれる。
たなびく校服が、魏無羨の顔を掠め、しまったと思ったが、慌てて差し出した指を彼の頬から退けることが出来なかった。
触れている場所から小さく鼓動が聞こえる。皮膚の温かさを感じる。それに胸が真綿で締め付けられるような切なさを覚えた。
「お前たちくすぐったいぞ」目を瞑ったまま、あどけなく笑う君は、明日此処にはいない。
穏やかな時間、永遠にこのまま閉じ込めたいと願った。
「……なんだ。俺にもあったんだな。お前との思い出が」
顔を上げることが出来ずに、忘機の胸に顔を埋める魏無羨の肩を「うん」優しく忘機が抱いていた。
「にしても、なんだったんだろうな、あの噂は」
取れたての豊富な山菜に香辛料を浸しながら魏無羨は云った。今日は気分がいいので、特別に分けてやると呼ばれた藍景儀は、渡された小鉢の刺激臭に「うっ」と顔を歪める。
「それなんですけど、昔素行の悪い座学生たちが、毎晩この雲深不知処で酒盛をしていたらしいですよ」
思追が全員分の茶を沸かしながら云う。
「その中の一人が酒の肴に、この恋愛話をされたのがきっかけのようです」
素行の悪い座学生が、毎晩酒盛りをし、女の話を。
ふと、何かが魏無羨の記憶を掠める。
「なあ、この春宮図の豊満に実った胸はお前好みじゃないか」
「ふん、俺の好みはもっとしとやかで、倹約家で、大人しくて……」
「魏兄~、この山菜どこで採ってきたのー?」
酒が禁止の雲深不知処で、夜な夜な酒盛に興じる座学生などそうそういるだろうか。
思い当たる節がありすぎて、魏無羨は顔を歪めた。その様子をじいっと忘機が咎めるように見つめる。
すぐに魏無羨はハハハと乾いた笑みを浮かべると「そら食べろ、気にせず食べろ」と赤く染まった山菜を小鉢に盛った。
もしかしたら裏山で実っていたのは恋愛ではなくて、山菜の方かもしれない、そう思いながら。