いつまでも良い夫婦 隣で七海さんが寝息を立てている。息を飲んで側に置いてある引き出しからメジャーを取り出した。
もうすぐ夫婦の日という日が来る。数年前までは気にもとめなかったのに、彼ーー七海さんと付き合ってから意識するようになった。
付き合った最初の年に七海さんが花束をくれた日、間抜けな顔と声で「貰われたんですか?」と言ってしまったあの日はいつ思い出しても恥ずかしくなる。七海さんは「良い夫婦の日だそうですよ。これからもよろしく伊地知くん」とその時笑って言ってくれた。
付き合って2年目の去年はケーキを七海さんが買いコーヒーを私が買って良い夫婦の日を楽しんだ。
そして今年、私は七海さんに指輪をプレゼントする!!
運良くこちらに向いている左手の薬指に細いメジャーを絡ませる。
私よりも大きい薬指にときめきながら測り、即座にスマホのメモに大きさを入力した。これで一安心と私は布団に潜り込んで眠った。
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「あんなに地味なやつで良いの?ダイヤモンド10個くらい付けてるのとかあるけど」
「それは予算を大幅に上回るので却下です」
「僕が出すって言っても?」
「私の財布から出すので五条さんのありがたい援助はお断りしますって最初に言ったじゃないですか」
ジュエリーショップで指輪を買った。初めての買い物で足元がふわふわして落ち着かない。
面白半分で着いてきた五条さんはニヤニヤしながら私と指輪のショーケースを見ている。
「にしても、良い夫婦の日に指輪ねぇ…伊地知もロマンチストになったもんだ。七海に感化されてんの?」
「感化だなんてそんな……大袈裟ですよ」
店員さんが指輪とケースを見せてくれる。藍色のケースの中にはブルーダイヤモンドが小さく輝くブラックリングが鎮座していた。
「こちらでお願いします」
プレゼント用の袋に入れられた指輪を持ち、店を出る。
「待ってたらお腹すいた。スイーツ食べ行こ」
「勝手に着いてきたんじゃないですか……良いですけどテイクアウトにして下さい。この後、高専で五条さんにサインして頂く書類がいくつかあるので」
「げー、めんどくさっ」
はいはい、といなしながら私達は車に乗り込んだ。
その日の夜、夕飯を準備しながら七海さんの帰宅を待っていると『少し遅くなります』と連絡が来た。
任務の処理が長引いているのだろうかと思いながら全ての調理を終え、待っている間にお風呂掃除や洗濯などを済ませているとガチャリと鍵の音がしたので玄関に向かう。
「おかえりなさい、七海さん」
「ただいま、伊地知くん。任務後にこれを取りに行ったので遅くなりました」
七海さんからケーキの箱が差し出される。
「今年もありがとうございます。冷蔵庫に入れてきますので、着替えて来て下さい」
リビングに戻り冷蔵庫にケーキを入れて夕飯のシチューに火を入れた。
黒のタートルネックを着た七海さんが部屋に入って来る。いつ見ても見慣れない私服の彼にドキドキしてしまう。あまりにもかっこいい。
「伊地知くん?」
「は、はい」
「君のシチューに昨日買ったフランスパンを添えても?」
「もちろん」
シチュー、サラダ、トーストされたフランスパン、白ワインを食卓に揃え向かい合った。
「いただきます」を皮切りに、一品食べるごとに美味しいと言ってくれる。
「ありがとうございます。七海さんが買ったフランスパンも美味しくて…お酒が進んでしまいますね」
「伊地知くん、飲みすぎないように。この後ケーキがあるんですから」
「そうですね…ふふっ」
談笑しながらも私の心は指輪を気にしていた。普段よりお酒を飲んでいるのも、この後、素面で渡すのが恥ずかしいからだ。
食べ終え、食器を洗い終えた所で七海さんの様子を確認する。七海さんはコーヒーミルでコーヒー豆を削っており、渡すなら今しかないと指輪が入った袋を手に取り背に隠しながら彼の前に座った。
「もうすぐ終わりますよ」
「あ、急かしてる訳ではなく……お話しても良いですか」
ミルから手を離して私を見てくれる。深呼吸をして話を切り出した。
「渡したい物があって……今、渡しても良いですか」
「ええ、良いですよ」
机の上に袋を置き、中から箱を取り出す。心臓が鼓動している音が聞こえる。
「良い夫婦の日ということなので……今後、私と……一緒になることを前提に!付き合って!下さい!」
箱を開ける。七海さんの顔が見れなくて下を向いた。今になって恥ずかしくなってきた。今も付き合っているのに付き合って下さいってなんだ。
「伊地知くん……」
あああ、七海さん引いてる!?引いてらっしゃる!?やはり私が指輪なんて合わなかったですよね!
「顔を上げて下さい、伊地知くん」
ゆっくり顔を上げると微笑んでいる七海さんがそこに居た。
「私も君に渡したい物があります」
そう言ってどこからか私と同じような小さくて黒い箱を取り出し、開く。シルバーのリングに黒い石がついた指輪があった。
驚いていると七海さんはふふっと笑って話を切り出す。
「君と同じ事を考えていましたが、まさか……君から言われるなんて」
固まっている私の左手に優しく触れ「はめても良いですか?」と聞かれた。驚きと喜びで何も言えなくて、ただ頷くことしかできない。
薬指にひやりとした感覚、大きさはぴったりだった。
「私も、七海さんにはめても良いですか」
「どうぞ」
差し出された私よりも逞しい左手に指輪を通す。黒のリングが彼の白い肌に映えて、とても綺麗で目から涙がこぼれ落ちた。
手で拭っても拭っても止まらなくて七海さんがハンカチを目元に当ててくれる。
「……うれじでずっ」
ようやく言えた感想は鼻声で聞けたものじゃなかった。
笑顔を崩してない七海さんの瞳がまるで水面のように揺らめいて見える。
「伊地知くん、改めてこれからも……私と一緒に居てくれますか?」
「はい……はいっ……!」
七海さんの目から涙が筋を作って落ちていった。
「ブラックリングに……これはブルーダイヤですか?」
「華美でないものを見ていたらそれが目に止まって、ブルーダイヤは幸福を願うという意味がある、とのことで……七海さん、あまりこちらを見ないでもらっても良いですか」
じっとこちらを見られると穴が開きそうだ。恥ずかしさのあまり、飲んでいるコーヒーの味がしない。
「君がそう思えるほど、ロマンチストになったんだなと思ってただけですよ」
「それ五条さんからも言われました。そういうところ、七海さんに感化されてるんじゃないか?って」
「案外、的を得ているかもしれませんね」
「そうですか?」
コーヒーを飲んで、指輪を愛しげに見つめる彼に嬉しくなる。寝ている時にメジャーを巻いた甲斐があったというものだ。
「七海さんが、この指輪を選んだ決め手はどこだったんですか?」
「前々から君の手にはシルバーリングが映えるだろうと思っていました。お店で見ていたら、その宝石が君の目と同じ色をしていたので選びました」
食べてるケーキが一瞬にして甘味を増した。
「大きさは合ってましたか」
「ぴったりです!」
「良かった。君が寝ている隙にメジャーを巻いた甲斐がありました」
互いに同じことをしていたんだなと分かり「ふふ」と笑ってしまう。
七海さんはそれを悟ったのか「私のもぴったりです」と言ってくれた。
コーヒー、ケーキを飲み終え片付けを済ませたところで七海さんが「あ」と声を上げた。
「どうしました?」
「伊地知くん、指輪についてもうひとつ聞いて良いですか」
何だろうと思いながらも「はい」と返事をする。
「ブラックリング、私は初めて見たのですが……君がこの指輪を選んだ決め手は何だったんですか?」
それは、1番聞かれたくない事だったのでぎくりとする。
「えっと、それ……は」
七海さんが私に近づく。顔が真っ赤になっていくのがわかる。
「あ、後でじゃダメで、うわっ!」
真正面から抱きしめられてしまい逃げられなくなった。
「言って」
私が貴方の声に弱いのを知っているくせに耳元で言うのは、ずる過ぎる。
「……帳の中に居る、貴方みたいだなと思って……選びました」
拘束が解けていき俯いている私の顔を覗き込んで額に口付けを落とす。
「君の方が私よりも、よっぽどロマンチストだ」
反論の言葉を述べようとしたが、彼の唇で塞がれてしまい敵わなかった。