ちちみず「あったかいな、お前」
そう呟いた水木が、とん、と隣に腰掛けていたゲゲ郎の左肩に頭を預けた。温もりを求めるかのように、水木の右手がゲゲ郎の手を取る。ひやりとしたそれに温度を分け与えるように、ゲゲ郎はそっと水木のそれに指を絡ませた。
「そうか。……わしには、おぬしの冷えた肌が心地良いよ」
ああ、それならちょうど良いと、そう言って微笑んで寄り添う水木の身体からは、およそ温度というものを感じない。幽霊族である己よりもしんと冷たい、雪のようなその身体を半身に感じながら、ゲゲ郎はゆっくりと目を伏せた。
——今の水木は、死人である。
数年前の或る冬の日、水木は死んだ。
何のことはない。人の身であの悍ましい村の怨念を、窖の瘴気を受けて長く生きていられるはずもなかったのだ。水木が鬼太郎を拾って十年、ゲゲ郎が目玉から元の姿に戻って二年ほど経った夏の終わりの頃。涼やかな風が吹き抜けた部屋でけふ、と小さな咳と共に血を吐いた水木の驚いたような顔を、ゲゲ郎は未だ忘れられない。
それからみるみるうちに水木は弱っていった。ゲゲ郎や鬼太郎の献身も、人の医者も妖怪の医者も、とんと役には立たなかった。
『水木、水木や。わしの血を、どうか受け入れておくれ』
師走の半ば頃。とうとう布団に臥せりきりになった水木を前に、ゲゲ郎はぼたぼたと涙を落としながら懇願した。そんなゲゲ郎を見上げて困ったように眉を下げた水木は、しかしその言葉に決して首を縦には振らなかった。
『俺は人のまま死にたい』
そう言った水木の瞳は死に逝く者とは思えぬほど強い意志がこもっていて、ああこれは覆せぬと、それきりゲゲ郎もその提案を口にはしなかった。それが水木の、人としての矜持なのだろうと。ならばどれだけ己が辛かろうと、悲しかろうと、水木の意思を尊重する。そう決めたのだ。
——決めたはずだったのだ。
それから数日ののち、年を越す前に水木は眠るように呼吸を止めた。最後の数十秒、息を吐くたびにか細くなっていくその呼吸を、ゲゲ郎は強く強く、手のひらに爪が食い込むほどに拳を強く握り込んで見つめていた。向かいでは、鬼太郎が唇を噛み締めて水木の手を握っている。少し前まで握り返してくれていたその手に、もう力は入っていない。まぶたも力なく閉じられていて、もうあの強い意志を宿した美しい青は見られないのだとゲゲ郎に突きつけるようだった。
やがてとくりと、水木の心臓が最後の鼓動を刻む。完全に動きを止めた心臓のあたり、そこからするりと魂が抜け出ていくのを、ゲゲ郎は呆然と見上げていた。
「……あ、嗚呼、」
——いやだ。いやだいやだ。逝くな。逝ってはならぬ。おぬしまで、わしを置いて逝くな……!
水木の魂がふわりとゲゲ郎の頭上まで浮き上がった。微かな軌跡を描いて天へ昇ろうとするそれを捉えた視界が急速に色を失って、は、と息が上がる。逝くな、と。ただ、ただそれだけが胸の内を支配して、他の何も考えられなかった。
「…………父さん……」
鬼太郎の、小さな声にハッとする。
——気づけば、青白く光る美しい魂が、強く握り込んでいたはずのゲゲ郎の手のうちに、あった。逃げ出さぬようにと、己の両手の中に隠すように囲われた水木の魂は、ゆらゆらと不安定にその形を揺らめかせている。その様は炎にも似ているのに、何の温度も感じなかった。
(……離してやらねば)
離して、天へ昇らせてやらねば水木の魂はどこへも行けない。真に人として死ぬことができず、それはつまり水木の最期の願いを叶えてやることができないということだ。それでも、どうしてもその手を開いてやることができない。そうして逡巡していると、不意に鬼太郎があっと声を上げた。
「父さん、手が……」
手。水木の魂を捕らえている己の手を見る。青白い光に照らされて、手のひらに赤い筋が見えた。水木を看取る瞬間、強く拳を握ったせいで食い込んだ爪が傷をつけたのだろう。よく見れば、爪の先も赤く染まっている。
そこに閉じ込められた水木の魂に、それが——幽霊族であるゲゲ郎の血が、じわりと滲むのが、見えた。
「——……」
人間は、その肉体に幽霊族の血を取り込むと、生きたまま屍になる。
——では、既に死した肉体から抜け出した魂にその血を取り込んだら、どうなるのか。
こくりと、ゲゲ郎の喉が鳴る。わからない。わからないが、既に血は水木の魂へ滲んでいる。ゆらゆらと不安定に揺らめく質量のないそれからは、滲んだものを拭うこともできない。そも、質量のない魂に血が取り込まれること自体がおかしいのだが、あの村の血桜の血を浴びたことが一因ではないかとこの時のゲゲ郎は結論付けた。思慮深いゲゲ郎にしては拙い推理ではあるが、理由などこの場ではどうでもいいことだった。
「…………水木や、」
手の中に閉じ込めたままの魂に、祈るように目を伏せて。ゲゲ郎はそうっと、水木の身体の上で手を開いた。解き放たれた魂は、しかしぼとりと水木の身体の中へ波紋を広げるように落ちていく。まるで、血の重みで天へ昇れないと言うかのように。その様を、二人の幽霊族は呆然と見つめていた。
「父さん……これは……」
やがて、鬼太郎が困惑しきった声で呟いた。目の前で起こったことが信じられないと顔に書いてある。
「……わからぬ……」
天へ昇ろうとする魂を血で汚し、あまつさえ死した肉体へ戻すなど。古今東西でも聞いたことのない、幽霊族の血であったからこそ成し得た奇跡、あるいは愚行か。ゲゲ郎は項垂れ、縋るように水木の冷え切った手を握った。
「もしかしたら、許されぬ行いであったかもしれん……」
「…………水木さんは、目を覚ますでしょうか……」
ぽつりと鬼太郎が問うた。ゲゲ郎の行いを責めるような響きはなく、ただ水木を——あるいはゲゲ郎のことも——案じるような声音であった。ゲゲ郎は答えることなく、ただ首を振った。
「彼奴は、人として死ぬのだと言っておった……わしも、それを受け入れたはずじゃったのに……」