地獄を泳ぐ1 飲んだくれて、帰ってくる父親のことは嫌いではなかったと思う。酔いが顔に出やすい血統なのだと、真っ赤な顔をしながら気に入った映画のことを自分や合歓を抱きしめ、頬擦りしながら話をする姿はむしろ好きだった。自分も大人になって酔っ払ったらこうなってしまうのか、と、どこかもどかしい気持ちにもなった。それから、母に対して、今度はこんな脚本がいいなあとねだる父はものすごく母のことを愛しているように見えた。
そんな父に、「私、ミステリーなんて書けないわ」なんて言いながら三ヶ月後には俺も合歓も父も世間も縮み上がる結末を書き上げ、父はその本を撮ると息巻いていた どんなジャンルでも母は自分のものにしていった。
だからだ。
だから。
父は、映画監督だった。
母は脚本家だった。
父が恋をし、愛していたのは母ではなく、母の脚本であった。そのミステリー作品は、あらゆる映画業界で「脚本」を賞賛された。しかし、「演出」は評価されなかった。父は、自分が評価されないことに怒り狂い、母に二度と脚本を書くな、外に出るな、俺の前に現れるななどと暴言を吐き、挙句の果てに母に手を上げはじめた。
母は、「芸術家っていうのはね、ああいうふうに育つのよ」と笑っていた 母は父の六つ年上だった。俺は中学生になったばかりだった。
それから約二年半後、父は母以外の人間が作った脚本で映画を撮っていた。完成も目前に迫っていただろうある日、学童に合歓を迎えに行った帰り道で、家の近くにパトカーが止まっているのが見えた。
なんだか嫌な予感がして、合歓に「どこか友達の家にでも遊びに行ってきていいぞ。そのおうちのお母さんに、あとで俺のケータイにかけるように言ってくれるか?」と、声をかけて、その場から離れさせた。合歓が見えなくなったのを確認して、ゆっくり、ゆっくりと、パトカーに近づいて、そして、黄色い規制線をゆっくりと、跨いだ。一人の警察官に「君、何を勝手に…!」と言われたが、腹に一発入れてやったところ、周りの警官たちは、俺の歩みを止めることをしなかった。ゆっくりと、ゆっくりと、近づき、ギリギリ中が見えない規制線の目の前で目を閉じた。
何があったって驚かないように、呼吸を整える。そして、目を開いたそこにあったのは、
無惨にも、脚本の泳ぐ、血の海であった。言葉の通り、文字の書かれた紙が、床にぶちまけられ、赤い液体にさーっと浮いて、ところどころ紙に染み始めている。そこから視線を外すと、父が倒れている。あ、こいつから出た血なのか、そうかそうか。脚本を一枚ひろいあげる。
「決定稿」
その字の隣に母の名前があった。母は、やはり女だった。
彼女は、父が自分以外の人間が書いた脚本で映画を撮るのが嫌だったのだろうか。
母はその日から姿を消した。
「芸術家っていうのは、ああいうふうに育つのよ」
母はやはり女だった、そして
うちで一番の芸術家は母さんだったのだ。
俺は、その血の海を泳いだ脚本を大事に抱えて、映画監督の門を叩いた。
『地獄を泳ぐあなたへ』
女は、都合よく俺を甘やかしてくれるから好きだった。さみしいような顔をすれば、一緒に寝てくれる。実際、さみしかったのだと思う。泥臭く母親の姿をした野望を追いかけながらも、大事な妹は守りたい。そんなガキが一人で抱えきれないでっかいエゴを抱えていたら、次第に心は壊れてしまうものだ。そんな姿もかわいく思ってくれたのだろうか。と、顔も覚えていないような女たちのことを思い出していた。
そんな左馬刻の隣に今寝ていたのはほぼ同じ体格をした男である。ふにゃふにゃと口の形を変えながら、どんな夢をみているんだろうか。さみしくなくても、いつどんなときだって会いたいよ。小さい子供の俺が顔を出す。さみしくなんかないよ、さみしくなくたって、母さんがそこにいるなら、俺はあいたいな。会いに行くよ。なんて、多少マザコンがすぎる発言に、「サマトキは、大きくなったらきっとモテモテよ。さすがアタシとあの人の子ね」と笑われたんだった。
「…さ、まとき、さん?」
愛しさの塊が、自分の名前を呼ぶ。
「おはよーさん。起こしちまったか?」
開かれたヘテロクロミアにうつるのは紛れもない自分であったし、自分がみているのは、妹でも母親でもない、6歳下の恋人だ。
「ゆめ、みてた」
「どんな」
「さまときさんが、じゅーしに怒ってる夢」
昨日ヘマをやらかし、時間を食っていた照明助手に怒鳴りつけたせいだろうか。しかし、自分以外の男が恋人の夢に出てくるのは癪に障るタチだ。
「ありゃ、助手のほうじゃなく、先生のオトモダチの…」
「アマグニさん?」
「おう…あいつが食う時間が長すぎんだいつも。先生はどっしり待ってられるけど、俺はそんなのんきじゃねえ」
「でも、じゅうとさんも、待てって言ってたし」
「撮影部はだいたい照明部の味方になんだよ」
「それでも、俺の顔、すっごく良く撮れたろ?」
な、とカリカリしていたどころを抱き留められてしまってはしょうがない。確かに、昨日は照明部に2時間ほど渡した甲斐があったくらいにはいいシーンが撮れてしまった。母の脚本を越えられるとは思わないが、あの夢野幻太郎が書いた官能小説を原作に自分が脚本にした作品なのだ。その作中で、一郎は、姉のように慕っていた年上の女性に男として性愛を自覚してしまう主人公を演じきったのだ。
[好きなんかじゃないです。親しいとか思ってもいないです。だって、僕は貴女の羊水で眠る赤子にもなれないくらい、遠い、遠い男なのですから]
青白く光る湯船に、別の男と心中し終わった女を見て言う主人公のラストの台詞であった。
読み合わせのころから一郎と何度も言葉を交わした。そのうえで、映画とは全スタッフのおかげで成り立っているものだ。この瞬間を永遠にしたかった。カットなんてかけたくない。その場にいる全員が思ったことだろう。実際左馬刻だって、カットを言うタイミングなんて忘れて、一郎を見つめていたが、なんとかふみとどまって震えた声を上げたのだ。
「なんで、昨日のカット、遅かったの?」
ゆるりと、体をおこして左馬刻から少し離れた一郎は子猫のようにこちらをうかがった。大人の顔色を窺って、嫌われないようにと生活してきた性なのだろうか、そんな顔せずともどんな言葉にだって応えてやれるのに。
「お前に見惚れちまった。監督失格だわな」
あっけらかんとして一郎の手をにぎってやった。
「ウソツキ」
「は?」
「左馬刻さんが見てたのは、俺じゃなくてちゃんと作品だったよ」
手を握り返して少し笑った一郎はそのまま俺の体にすり寄ってきた。
「左馬刻さんは、監督失格なんかじゃない。いつだって「人を愛する検定」が不合格なの」
そんだけ。そんだけって、なんだよ。どことなく居心地が悪い言葉を唇でふさいでやった。
「またそうやって、応えられるのはじぶんだけだっておもってっ、ん」
唇をふさいではぐらかそうとするけれど、またその美しい形の唇から俺の鳥肌を立てるようなおぞましい愛の言葉をささやくのだろうか。
「ききたくねえ、」
「なんで」
「…二度と、聞けなくなるのが嫌だから」
心から愛せる人はみな、母親のようなかたちをしている。合歓だって、歳を重ねるごとに母さんに似てきていた。
一郎は、自分にとって一体なんなのだろうか。恋人であることは間違いなくて、弟のようにかわいがりたい友人でもあって、共に作品を作り上げる最高の相棒でもあるのは事実だ。それの総称はいったい何なのだろうか。
「なにをそんなに、怖がるんスか」
握られた手は少し震えているようだ。自分の手なのに、こんなに強張っているのはなぜだろうか。
「離れないよ、左馬刻さん。俺、アンタから離れる気ない。あんたに言われない限り、あんたのそばから離れないよ」
「偽善者。俺が言っても離れんなよ」
「俺、尽くすタイプなの」
一郎が、その手を左馬刻の手に絡めて、その不安を奪い取り、熱を置いていく。
「…左馬刻さんの手、つめて、」
「おまえが、あっちーの」
「いひひ」
伏せられていたヘテロクロミアが自分をのぞき込む。今にも消え入りそうな緋色がそれに重なれば、溶け合うようにまた口づけられた。触れて、溶けて、離れて、また触れて。羊水に守られているような感覚に溺れていく。男とはいつまでたっても母親の腕の中を忘れられない甘ったれなのだ。恋人に強いるわけではないが、羊水の中にいるような温かさを思い出すことくらいは許してほしい。
「おれは、お前から産まれたかったのかもな」
海の中から這い上がるような、産声を上げ始めてすぐの赤子のような、そんな声を、一郎に届くかわからないそんな糸のような声を吐き出した。
「ひっでぇ」
母さん、母さんはなぜ父さんが好きだったんですか。
父さん、父さんはなぜ母さんが好きだったんですか。
お二人に、「夫婦」という名前が付いたのはなぜだったんでしょうか。
「俺、左馬刻さんのお母さんじゃなくて、お嫁さんになる気なんだけど」
そもそもまず、「夫婦」とはいったいなんなのでしょうか。
「そうか、楽しみにしてるわ」
まずはこの、年下の母親のような、弟のような恋人から教えてもらうことにした。