幸福論を蔑む足跡(冒頭) 白い山が平らになり、リビングのカーペットが見えてきた。
母さんのマグカップを割った罰として渡されたのは、取り込みたてのタオルの山。きっちり畳みきるよう命じられた俺は素直に頷き、広げた両腕より大きなそれを、せっせと四つ折りにしていった。
これさえやり切れば二葉を取り戻せる。
文句や言い訳を口にする時間すら惜しい。一秒でも早く二葉を迎えに行きたい。
その一心で手を動かしていく。
溺愛する双子の弟は、俺の邪魔になるからという理由で客間へ連れ去られてしまった。
基本的に聞き分けが良くて大人しい二葉だ、俺の邪魔などしないのに。
恐らく母さんは俺が二葉を連れて脱走すると考え、先手を打ったのだろう。
更にもう一つ。
視界に片割れの姿がないと落ち着かず、身体の一部が触れていないと気に入らない俺への罰も兼ねているに違いない。
流石母さんだ、俺の弱点を的確に突いてくる。
二葉を取り上げられた挙句盾にまでされてしまったら、俺はどうすることもできない。白旗一択だ。
だからこそ大人しく引き下がったのだけれど。
そんな事を考えつつ最後の一枚を掴んだ瞬間、
「初芽、はじめ……っ!」
弾んだ声が俺の名を呼んだ。
片付けの手を止めて振り返れば、お気に入りのぬいぐるみを抱えた弟——二葉が、ぺんぎんの赤ちゃんみたいにぽてぽて歩いて来る。
——ご褒美が、頬を紅潮させて近寄って来る。
俺は残りの一枚を慌てて畳むと、積み上げたタオルをリビングの隅へ寄せた。
急ぎソファーの前へ戻って胡坐をかけば、大きな目を輝かせる二葉が白兎を抱き締めたまま、俺の前にぺちょんと座った。
「あのね、あのねっ!」
「おう。ちゃんと聞くから、ちと落ち着……」
「けっこんしたらね、ずっと一緒にいられるんだって!」
「!」
珍しく興奮している片割れを落ち着かせようと上げた手が、中途半端な位置で止まった。
まるで二葉の高揚が伝播したように、顔や胸がじわじわと熱くなっていくのを感じる。
今、二葉は何て言った?
とんでもないことを言わなかったか?
何となくシャツの裾で拭った掌は、僅かに汗をかいていた。
「ずっといっしょ……?」
「うんっ! 幼稚園で借りた絵本でね、王子様とお姫様がけっこんしたの。でね、お母さんにけっこんってなあにって訊いたら、ずっと一緒にいることよって!」
「母さんが言ってたのか?」
「ん!」
駄目押しするように尋ねれば、林檎ほっぺがこくこく頷く。
「早く初芽に教えたくて来ちゃった!」
「よく母さんがゆるしたな」
「もう終わるころだから良いわよって言ってたよ」
「へえ、お見通しか」
二葉の答えに、興奮から乾き始めた唇を一撫でした。
いつになく大きな声で呼ばれた理由はこれだったのか。
二葉は多分、この高揚感を共有したかったんだ。
理解すると同時に、さっきから気になってしょうがない兎へ視線を落とす。同時にそのもふもふ頭を掴んで二葉の腕から取り上げた。
ここは俺の特等席だ、ぬいぐるみにだってやらねえ。
贅沢者の白兎をソファーへ退かせば、自由になった二葉の腕が、当たり前のように俺へと伸びて来た。
望まれるまま二葉を抱え、互いの隙間を埋めるようにむぎゅむぎゅ抱き合う。
およそ三十分ぶりに取り戻した温もりは、言葉に出来ない充足感をくれる。
「ねえ初芽。けっこんしたら、ずっとこうしてられるのかなぁ?」
「わかんねえけど……一緒にいられんなら、できんじゃね?」
俺は二葉が好き。
二葉も、俺が好き。
だからずっと一緒にいたい。
これって当たり前の感情だろ?
けっこんってやつがどんなもんか知らねえけど、一緒にいられるならすれば良いよな。
寂しがりで心配性な片割れの丸い頭をよしよしと撫でながら、俺は言葉を続けた。
「俺だって二葉とはなれたくねえし。はなせっつっても、はなしてなんかやんねえからな」
「えへへ、うれしい……ずっとはなさないでね?」
「はいよ」
笑顔を取り戻した二葉の柔らかい頬が、俺の首筋にうりうり懐いてくる。可愛いやつめ。
俺も二葉の首に顔を埋めようとして、やめた。
鼻孔を擽る、甘くて美味しそうな二葉の匂い。
幸せの匂いを発する、白い肌。
目の前にあるそれにかぶりつきたくなるが、ぐっと堪える。
先日、どうしても我慢できなくて細っこい首を甘噛みしていたら、母さんにぶん殴られた。二葉は擽ったがってふにゃふにゃ笑ってたのに。
今顔を埋めたら絶対に噛む。引き離されていた分、我慢が利かなくなる自信がある。
魅力的な首を諦めてふわふわの髪に擦り寄ると、やっぱり美味しそうな匂いがした。
二葉の身体は不思議だ。どこもかしこも美味そうな匂いがする。
耳の付け根あたりに鼻を埋め、幸せの匂いを肺一杯に吸い込むと、可愛い片割れが恥ずかしそうに身を捩った。
「ふふっ。初芽、よくそれやるよね。俺の匂い好きなの?」
「おう、好きだ。美味そうな匂いがする」
「そう? 俺はねー、初芽の匂いの方が好きだなぁ。初芽はね、幸せな匂いがするんだよ」
「ふはっ、同じこと考えてる」
「ほんと?」
「ん、ほんと。二葉も幸せの匂いがする」
「へへ……じゃあお揃いだね」
「だな」
どちらからともなく顔を上げ、額を合わせて笑った。
俺たちはきっと、お互いがお互いの幸せなんだ。
こんなに好きになる人なんて、他に現れるはずがない。
もし万が一、二葉の許に現れたら——取り上げ引き離して、奪い返せばいい。
——ソファーへ放った兎のように。
だって今、約束しただろ。
ずっと一緒だ、離さないってさ。
そうだよな、二葉?
続