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    西田聖

    @hNishi38

    フリートのかわりです

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    西田聖

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    アルカヴェ
    長めの話のめちゃくちゃ中盤なので通しで読みたい方は記憶を失う準備をしてから読んでください
    完成したらここは消えます

     人の気配はある。しかし、物音はしない。
     立ち止まった廊下の曲がり角で、アルハイゼンは嘆息した。さっと一歩を踏み出せば、壁の向こうで身を縮こまらせている男と目が合った。
    「あ、」
    「……」
    「その……石鹸あるか? シャワー、浴びたくて……」
     畳んだタオルを抱いたままアルハイゼンから目を逸らして所在なさげにしている男の、頭のてっぺんからつま先までを視線で舐める。ゆっくりと一往復する頃には、男の視線はアルハイゼンに戻っていた。たった一瞬のことであるが、相手はすでに痺れを切らしている。
    「おい、なんとか言ったらどうなんだ。ないならないで別にいいし、」
    「風呂場に出ているのがまだあるだろう。見ていないのか?」
    「え? ……あ、あれはだって……きみの使いかけじゃないか。嫌だろ、貸すの」
    「俺は気にしないが」
     男ははっきりと口角を下げた。理解不能とでも言いたげな顔をしている彼の横を素通りし、バスルームへ足を向ける。戸棚から新しい石鹸を取り出し、入り口の向こうからこちらの様子を伺っている男に向かって差し出した。
    「気になるなら使うといい。置き場は自分で作ってくれ」
    「あ……いや。きみがいいなら、いいんだけど……」
     アルハイゼンの明快な答えにもごもご言いながら、男もまたバスルームへ足を踏み入れる。おずおずと出された手のひらの上に、消耗品を置く。
     数日前からアルハイゼンの家に身を置いているこの男は、名をカーヴェと言う。アルハイゼンの平穏で平坦な日常に突如転がり込んできた彼は、かつてアルハイゼンと教令院で日々を過ごし、互いに研鑽し合い、まだ見ぬ答えを見つけるべく共に研究に励んだ二つ年上の先輩で、友人だった男だ。
     いつもたくさんの人に囲まれていて、慕われ、常に誰かの期待を背負っていた。無垢で純粋で、明るく振る舞い、すべてを掬い上げようと必死になって。それが彼本来の善性にひどく癒着した罪悪感から来るものだと知ったとき、アルハイゼンはカーヴェにこの事実を指摘し、二人は互いの手を離した。見るからに擦り切れていた彼は、雲間に隠れるようにアルハイゼンの前から姿を消した。そしてつい数日前、数年の時を経て再会した星は、かつての輝きをすっかり失っていた。
     戸口に寄りかかり、腕を組む。鏡面の前で石鹸の包み紙を破っているカーヴェの後ろ姿を眺めながら自分の肩に触れた。上着にぶら下がっているのは、透き通る緑石――人はこれを願いだと言うが、アルハイゼンにとってはただ「決め事の証拠品」に過ぎなかった。大袈裟な言い方をするなら「決意」。
     願いは自分で叶えるものだ。アルハイゼンは数日前、何の気なしに立ち寄った酒場でその一端を捉えた。そうして手元に転がり込んできた――転がり込んできたも何も、アルハイゼンが自ら拾ってきたのだが――昨日と違う今日をどうしたものか、アルハイゼンの方も決めあぐねていた。いつどんな機会があってもいいようにと心の準備は常にしていたものの、状況は思ったより芳しくない。この男に関わることはどれもこれもが予想外で、良く言えば退屈しないが、悪く言えば煩わしい。揺さぶられる心の重みも含めて。
    「君はいつまでそうやって怯えているつもりだ?」
     バスルームから出て行かないアルハイゼンをちらちらと振り返っていたカーヴェへ、投げやりに問いかける。びく、と震えた肩のむこうで、わなわなと唇が開かれた。
    「誰が――怯えてるだって? 何に?」
    「教えて欲しいのか?」
    「いい、結構だ。どうせきみの得意な決めつけで事実を捻じ曲げられるに決まってる」
    「なら君の事実を言ってみるといい。酒場での勢いはどうした? 俺の前で取り繕っても仕方ないと言ったのは君だろう」
    「取り繕ってなんかっ……」
     勢いよく振り向いた手から、すぽんと固形物が飛び出す。床に落ち、滑り、くるくる回り、アルハイゼンの靴先に当たって止まった。二人して石鹸の円舞を見守ったのち、満ちた沈黙を打ち破ったのはカーヴェの方だった。
     数歩の距離をドカドカ歩き、アルハイゼンの前で身を屈めて石鹸を拾う。バネのように勢いよく身を起こし、キッとアルハイゼンを睨みつけると、その胸に人差し指を突き立てた。
    「いいから出てってくれないか!! 家主だからって僕の入浴にまでついてくるつもりか!?」
     たかが指一本、軽く押された程度でアルハイゼンの体幹が揺らぐことは、本来はないが。
     予想外の言葉と状況に、アルハイゼンは軽く目を見張った。突き立てられた指からまるで弾丸でも放たれたかのようで、咄嗟に半歩、後ろに足を引く。その一瞬の隙に、派手な音を立てて目の前で扉が閉められた。
    「…………」
     アルハイゼンはしばらくの間、呆然と扉を見つめていた。見慣れた自宅の見慣れた扉。額に手を当てて、深く息をつく。全くもって想定外、煩わしいことこの上ない。


     とはいえ、一度決めたことを投げ出すつもりはさらさらない。
     酒場に居座っているらしいカーヴェを今夜くらいはと自宅へ誘ったのは、故意ではない。居どころさえわかれば、アルハイゼンの願い事を試行するには事足りるはずだった。
     長いこと愚痴を垂れ流していたおしゃべりな男が、かつて自宅のあった方角を向いて口を噤んだ横顔を見て、もうしばらく話を聞いていてもいいと思った。閉店時間より前に酒場を出たアルハイゼンの後ろをついてきたカーヴェと、河岸を変えるならばどこがよいか。検討事項として成立するよりも前に、自然と解が決まっていた。
    「宿がないなら、俺の家に寄っていくか。フィッシュロールに合う酒がある」
     カーヴェは虚をつかれたようにぽかんとし、自分の手元を見、アルハイゼンの手元を見た。カーヴェを長らく世話していたらしい酒場のマスターが、喋り続けるカーヴェがこちらを見ていないうちに渡してくれた包みには、マスターお手製の料理がくるまっている。二つ渡されたうちの一つをさりげなくカーヴェに持たせたことに、彼は気づいていなかったようだ。
    「フィッシュロール……いつの間に!?」
    「はあ、食事のタイミングを逃したな。まだ温かいうちに帰って食べるとしよう」
    「は? おい! アルハイゼン!」
     腹が減っていたのも本当だったので、アルハイゼンは自宅に向かってスタスタ歩き出した。後ろでアルハイゼンを呼ぶ声が、遠くなり、そのうち騒々しい足音と共に近くなった。
     そうして共に帰宅し(家に入るなり、カーヴェは渋い顔をした。彼にとっては苦い思い出の詰まった建物だからだ)、少しの酒と共に遅めの夕食を摂り、喋り疲れて寝始めたカーヴェをリビングに放置した。翌朝、しっかり眠ったアルハイゼンがリビングへ向かうと、一度起きた気配のあるカーヴェがカウチの上で唸りながら寝ていたのでそのまま無視して出勤した。棚に仕舞い込んだ合鍵のことなど、つゆほども思い出さなかった。
     夕刻家に戻ると、リビングの隅で居心地悪そうに膝を抱えていたカーヴェがぱっと顔を上げて、家を出られなかったことについて風スライムのごとく怒り出したので、なんやかんやと揉めている間に夕食が出来上がり(アルハイゼンがあるもので済ませようとしたところを勝手にカーヴェが手伝っていつもより豪華な食事になった)、いつのまにか夜も更け、キリがなくなってアルハイゼンの寝室の前で解散したのが昨日。
     再会から三日目、合意を得ないまま二泊もしたことにようやく気づいたカーヴェは、朝からお得意の罪悪感に飲み込まれていたようだった。アルハイゼンの姿を見てびくつき、根城のようになっているリビングのカウチで頭を抱えているのを、アルハイゼンはコーヒー片手に眺めた。ここに至ってカーヴェが家を飛び出していかないのは、不本意にも受けてしまった恩を何某かの形で返さないことには気が済まないからだろう。相手が奉仕の精神を微塵も持たないアルハイゼンなら尚更。
     アルハイゼンは既にこの問題に対する解決策を持っていたが、カーヴェがこれを受け入れるかどうかは賭けに近かった。同時に――自分の本心も、いまひとつ推し量れずにいた。この提案をして、カーヴェが受け入れたとして。自分はそれでいいのだろうか。この「願い」は、自分にとって何よりも重要な今の生活を差し出してまで成し遂げたいことなのだろうか。
     うんうん唸るカーヴェに、食事の用意をしてくれるなら好きにしていい、と言い置いて書斎へ籠り、休日の主な過ごし方である読書に勤しんだ。食卓で何か言いたげにしているカーヴェの気を当たり障りのない話題で逸らして一日過ごし、廊下の角で遭遇したのが先ほどのことである。
    「――わ、」
     そして今度は、リビングの入り口でカーヴェとぶつかった。
     濡れた髪から滑り落ちたタオルが彼の肩を撫でる。見開かれた大きな目に、アルハイゼンのアーカーシャが放つ淡い光が宿った。縁取りの先を腰にぶら下げた石と同じ色に染め、一度瞬きをして――すぐに歪んだ。困ったように、泣き出す前の子供のように、罰に怯え、傷ついたように。
     それで、アルハイゼンの中の何かが切れた。驚いたまま動けなくなっているカーヴェに向かって両腕を広げると、そのまま抱きすくめた。鼻先を掠めた湿った匂いを存分に吸い込む。
     カーヴェはびくりと大きく体を震わせて、石像のように固まってしまった。息をしているか心配になり始めた頃になって腕の中で暴れだす。
    「は――はあっ!? なっ、何、あ、アルハイゼン!」
     身を捩ったり腕を掴んでみたり、一通り抵抗して、がっちりと自分を抱え込んだ拘束がびくともしないことがわかると、カーヴェはようやく諦めたようだった。上がった息の合間に、なんなんだよ、と小さく溢す。
    「どうかしてる……きみ、こんなふうだったか? 身分のわからない人間を何日も家の中でほったらかしにしたり、同じ石鹸でもいいと言ったり、こんな…………、は、離してくれっ」
    「身元がわかっていれば十分だろう。君の身分は、俺にとってはどうでもいいことだ」
     もちろん身分も知っている。妙論派の星、大建築家、近年のスメールで最も優秀な建築デザイナー。興味がなくとも耳に入ってくるような一般的で大きな噂の数々。
     それらが全て彼を束縛する鎖でしかないことは、あの日酒場で項垂れている男を見れば一目瞭然だった。今まで誰にも見抜かれなかったのに。そう言って寂しそうに笑うかつての友人を、――想うことの、何がいけないのか。
    「誰も彼もにこうするわけじゃない。実際、俺がここに住み始めてから足を踏み入れたのは家具の運搬業者と君くらいだ」
    「業者にまでこんなことしてたら今頃アアル村に送られているだろうな」
    「正直に言えば俺も慣れない。だが家の中でいつまでも煩わしい思いをするつもりもないからな。荒療治だが慣れるまでこれをやる」
    「は!?」
     慣れないというのは大嘘だが、嘘も方便になりうる。特にアルハイゼンは、カーヴェの刺激の仕方を良くわかっていたので。
     腕を緩める。先ほどの怯えた様子はすっかり鳴りを顰めて、呆れた瞳がアルハイゼンを見た。小さく息を吐く。
    「きみの思いつきは大概突拍子もないな。それにその……まるで、これからもこの家に居ていいような口ぶりじゃないか」
    「勘違いしてもらっては困るんだが、賃貸契約には家賃の支払いが必須になる」
     少しの期待を織り交ぜて胡乱げにアルハイゼンを見上げる瞳が、再び驚きに見開かれる。ぽかんと開いた口に何か投げ込んだら面白いだろうか、などとアルハイゼンが考えていると、酸素を求める魚のようにぱくぱくと開閉しはじめた。
    「――――家賃!?」
    「権利を放棄したのは君の方だろう」
    「そんっ…………それはっ……、……くっ……!」
     反論が口から飛び出すより前に脳内ですべて否決されたらしい。ぐうの音も出ずアルハイゼンに負け犬の顔を晒しているカーヴェを見下ろしていると、長年忘れていた童心が胸のうちで跳ねるのを感じた。おそらく悪戯心と呼べるものが。
    「どうする、カーヴェ? 数日住んでみて住宅としての使い心地はわかっているだろう。ちょうど一部屋持て余しているんだが。不動産収入になるなら、貸してもいい。君になら」
    「住んでないっ! 〜〜〜〜言いたいことは山ほどあるがっ……!」
    「感謝の言葉なら、三回回ってから言うといいよ」
    「違〜〜う!!」
     にやりと笑うアルハイゼンを睨みつけて唇を噛むカーヴェが結論を出すまで、三十秒と掛からなかった。緩めた腕の中から出ていかない男が、拗ねたように唇を尖らせて「支払いは少し待ってくれ」とモゴモゴ言うのを聞いて、アルハイゼンはようやくカーヴェをリビングに放流した。

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