Chrysoprase ざぁざぁとバケツをひっくり返したように空から降り落ちる大粒の雨を【本日臨時休業日】と書かれたポスターがシャッター前に貼られたベーカリーの軒下から眺める。
店の前を濡らして申し訳ないと思いながらも、コンクリートの地面に持っていた袋を置くと、すぐさま接地面が灰色から黒に変わっていくのにため息を吐きたくなった。
今日の降水確率は二十%だと言っていたのに、どうやら二割の方を引き当ててしまったらしい。
運が悪い時もあるものだと、ため息を吐かなかったかわりに、被っている黒いキャップの固い布地すらも通り抜けた雨水が髪を濡らしているのを感じて、その不快さに思わずキャップを一度脱いで頭を振る。
隣に居るミラージュも同様に髪に乗せていたサングラスを外してシャツの胸元に引っかけると、湿り気のせいでウェーブの伸びた前髪が額に張り付くのを嫌がるように髪をかきあげていた。
どうにか二人で手分けして運んでいた食材達もビニールや紙袋に入っているとはいえ、完全に無事とは言いがたそうで辟易する。
今日は珍しく二人揃ってのオフで、このタイミングで一気に買い出しに行ってしまおうと決めた昼過ぎまでは、太陽が頭上で燦々と明るく輝いていたのだ。
それがいつもよりも少し遠くにあるマーケットで買い物を終え、ミラージュがいっとう気に入っているベーカリーに向かっている合間にどんどんと黒い雲が立ち込め始めたかと思えば、避難する間も無く雨が落ちてきて、結局この有り様だった。
その上、ベーカリーは臨時休業という笑い話にもならない展開に、ミラージュに八つ当たりしたくもなるが俺以上に濡れネズミ状態かつ、明らかに気落ちしているように見える男にそれを言うのはあまりにも酷だろうとキャップを被り直しながら、黙って濁った色をした空を見上げる。
どうせいつもの通り雨だろう。暫くすればすぐに止む筈だ。
ふと曇った空から視線を動かして斜め後ろに立っているミラージュの方を見れば、シャッターに描かれたベーカリーのマークを寂しそうな顔で眺めているだろう後ろ姿が目に入り、思わずその背を観察してしまう。
近くに買い物に行くだけなのに、『誰に会うか分からないから』と言って、俺にしたら派手に感じるくらいに模様の入った薄手の柄シャツ姿のミラージュの背にシャツが纏わりつき、鍛え抜かれた背中の形を露にしている。
それに合わせて履いている白いデニムは透けてはいなかったが、比較的ドッシリとしたミラージュの厚みある臀部を殊更に強調しているように思えた。
それらを見ていると雨で冷えた筈の身体が熱を孕み始める。
明け方近くまでこの羨ましくなる程に逞しい肉体の下でぐずぐずになるくらいまで押し潰されて、まだ腹の中にその感覚が意識せずとも思い返せるくらいには残っていたからだった。
『今日は余りにもお前の運が悪くて可哀想だから、帰ったら一緒に風呂に入って背中でも流してやろうか?』という提案が唇から出そうになるのをまだ熱しきれていない理性が止める。
こんな事を言って、その先を期待しているのはお前の方だろうと見透かされるのが嫌だった。
それこそ、朝までシても構わないと言って、こちらを気遣う素振りを見せたミラージュに三回目をねだったのは俺の方からだったのに。
次から次へと落ちる雨があっという間にいくつもの水溜まりをアスファルトの上へと作り出す。
ベーカリーが面している道路の一本向こうにある大通りでは果敢にも小振りの傘を持った人達が必死に雨の中を進軍していた。
風がそこまででは無いのがせめてもの救いだろう。
それこそもう少し雨が収まったら、駆け足で帰ってしまった方が良いかもしれない。
熱を帯びた身体を冷ますように、無意味にさまざまな所に視線を走らせては今後の事を考える。
そもそも、隣に居るミラージュが珍しく言葉を発しないせいで余計に雨音が耳を突いた。
何か言うべきだろうかとまたミラージュの方へと視線を向けると、後ろを向いていた筈のミラージュがこちらを見返してきていた。
前髪の除けられた広い額、垂れ目がちの瞳を縁取る長い睫毛が緩やかに開かれては閉じる様を黙って眺めていると、どこかモジモジとしている男が言いにくそうに唇を開く。
「なぁ、クリプちゃん」
いかにもこちらの様子を窺う声色しながらも期待の籠った瞳をしたミラージュが顔を覗き込んでくるのに、咄嗟に身を引きそうになるのを我慢する。
影になっている場所だというのに、妙にミラージュの顔がハッキリと見える気がするのは脳の錯覚なのだろう。
「……帰ったらさ……一緒に風呂、入らないか?」
まさかの質問に答えを返すまでにラグが生じる。
こちらの返答の遅さを否定と受け取ったのか、ミラージュはさらに続けて声を張り上げた。
「勿論!! やましい気持ちなんかこれっぽっちもないぜ? 本当だ! 昨日? いや、今日か? 今日って言って良いよな? とにかく朝は結局一緒に風呂入ってる時間も体力も無かったろ。でも、実はお前と一緒にゆっくり入りたくて最近買ったばっかりの凄くいい匂いがするハチミツの成分がたっぷり入ったバスジェルがあるんだ。肌にもいいらしい、ネットで書かれてるレビューを読んだんだ。ビックリするくらいつるつるになるんだってさ。ついでにマッサージもしてやるし……」
昨日は無理させちまったからそれくらいは喜んでする、とマシンガンのごとき速度で言葉を羅列したミラージュの目元は仄かに赤い。
………なんなんだ、この可愛い生き物は。
瞬間的にそう考えてしまった自分のこめかみをデバイスの取り付けられた人差し指で抑える。
確かに朝方までこの男は俺の上で不敵に笑って、容赦なく腰を振っていた筈なのだ。
それが今は随分と可愛らしい望みを述べては少年のように照れた姿を見せつけてくる。
荒々しい夜の気配や表情など微塵も感じさせないその姿に、本当に同一人物なのか疑いたくなるくらいだ。
けれど、昼と夜、それ以外にもいくつもあるミラージュのギャップに相当脳をやられているのは、かなり前から自覚していた。
「……いいだろう」
ようやく言えた素っ気ない返事に、ミラージュの目がキラリと輝きを帯びる。
従順な犬だと錯覚してしまいそうなその姿に、ご褒美がてら、さらに言葉を続けた。
「俺も、そのつもりだった」
発した言葉のせいで顔に熱が灯る。
この程度で何を急に照れているんだと自分でも思っていると、道端にも関わらずミラージュの手がこちらに伸びてきたのを認識する前に、その手が顎先を撫でてから頬に厚い唇が一度押し付けられ、すぐに離れていく。
前に外で口付けてきたミラージュを叱ったからか、挨拶だと誤魔化せる程度のキスに留めたらしい男に何も言えなくなる。
「へへ、……じゃあ早く帰ろうぜ」
そうして視線を向ければ、はにかむように微笑むミラージュが立っていて、勝手に脈が速まった。
あんなに乱れた姿を互いにさらしあっているクセに、結局俺が一番トキメキを感じてしまうのは、こういう無垢な笑顔なのだから質が悪い。
チクショウ、ここまできたら風呂場で今度こそお前が泣いて許しを乞うまで搾り取ってやるからな。
脳内でそう囁く自分の声が聞こえたが、流石にそれは言えない。
かわりに、喚く本能に追いたてられるようにして地面に置いていた荷物を持ち上げると、荷物を持ち上げたばかりのミラージュを置き去りにしそうな速度で軒下から僅かに薄くなり始めた雨のベールの中へと飛び出していた。