月よりも遠く 今夜はブラッドムーンになるのだと、朝からそんな話が世間では飛び交っていた。
だからと言って特別何かしようと考えていたワケではない。
普段通り【ゲーム】に参加して、いつもと変わらずのルーティンを行う。そんな予定だったのだ。
しかし、ミラージュという特別な事象を専ら好む男のせいでヒンヤリとした空気の中、俺は特にこれといった感慨も無いまま、空に浮かぶ月を眺めていた。
パラダイスラウンジにある砂で薄汚れたベランダの柵に身体を凭れさせていると、雑多な路地の喧騒が耳を撫でる。
俺達だけではなく、何百人もの人間がブラッドムーン見たさに表に出ているのだろう。
元々静かとは言い難いソラスの繁華街は、いつもよりも活気に満ちていた。
念のために私服の冬用コートは着込んだままだったが、下は薄手のニットだからか肌寒い。
やはり外で直接見るよりも、温かな室内でライブ配信鑑賞にしないかと提案しようと考える。
だが、こちらが動き出す前に立て付けの少し悪くなっているらしい窓が背後で開かれる音がして、頭だけで振り向けば、両手にマグカップを持ったこの店のオーナーが立っていた。
どうやって開けたんだ? という内心浮かんだ疑問に答えるように、器用に足先で窓を閉めたミラージュは、持っていたマグの片方を差し出してくる。
迷う間も無く受け取れば、マグの中で揺れる赤い液体が微かな湯気をのぼらせていた。
「ちょっとは変わってきたか?」
「まだ肉眼で分かる程ではないが、これからだろう」
「へぇ。まぁそんなもんだよな。いきなり真っ赤になったら怖いし」
自分から見たいと言い出した割にはあっさりとそう言ったミラージュは、当然のように俺の隣に凭れ掛かった。
途端にギィ、と軋む音をあげた柵に眉をしかめる。流石に二人揃って転げ落ちはしないだろうと思いながらも、僅かに掛ける力を緩めた。
受け取ったマグカップからはシナモンと林檎、それからほんの少量だけ加えられているらしいブラックペッパーの匂いがする。
寒い夜にコイツが作るホットワインのレシピは幾つかあったが、その中でもこのレシピの登場回数はそこそこ多かった。
「飲まねぇの」
「……飲むだろ、いつも」
「……うん。そうだよな」
先にマグカップに口をつけたミラージュがわざとらしくそう問い掛けてくる。
俺が基本的に他人から出された物を簡単には口にしないのを知っているクセに、そうやって聞いてくるこの男の考えは読みにくい。
単純に疑問なのか、はたまた、からかっているのか。それとも、どちらにも該当しないのか。
いちいち聞く必要があるようにも思えないのに、コイツはわざとこちらの意図を確認するような問いを投げ掛けてくるから、時々どうしたら良いのか分からなくなる。
極力【ゲーム】以外で他レジェンドと交流をしないように努めている俺が、こうしてコイツの根城であるパラダイスラウンジにまで出向いて、ただの皆既月食をこんな寒空の下で並んで見ているという事実だけで伝わる事の方が多いと思うのだが。
全て伝える事が美徳であるとか、素直に言葉を受け渡す事が証明になるだとか、そういったものに憧れはあっても、恐らく永遠に得意にはなれそうにない。
データとして残るなら未だしも、言葉なんて幾らでも改竄出来る。
だったら行動で示す方が余程、合理的で最も正しいように感じられた。
唇に触れたマグの滑らかな飲み口から、熱されたアルコールが口腔内へと落ちていく。
甘くなりすぎず、渋くもなりすぎていない丁度良い塩梅のそれは、冷えた身体を巡って穏やかに温めてくれる。
そうしてボンヤリと見上げた先の月が少しずつ変貌していくのを、興味深い気持ちで眺めていた。
こういう時、意外にも隣の男は喋らなくなる。
常に緊迫した状況である戦場では耳を塞ぎたくなる程に良く喋るし、何が無くともデコイに向かって一人話している姿を見る時もあった。
無理して話題を探さなくても良いと、俺が以前に伝えたのもあるかもしれない。
代わりに近寄ってきたこちらよりも高い体温をした肩が肩先と触れ合う。
【ゲーム】で蘇生用のシリンジを打たれる時以上の距離の近さだったが、拒否する事もせず、ただ持っていたマグをまた口元へと運んだ。
俺達は好きだと互いに伝えた事はない。
でも恐らく、そうなんだろうと俺は思っている。
そうして、一線を越えたいかと聞かれれば、きっとそこまで悪くはないのだろうと想像は出来た。
じゃあその想像を現実にしたいかと問われたら、それは難しいだろうという結論に自分の中では到達していた。
俺は【ゲーム】を壊したくてこの場に立っていて、ミラージュという男は【ゲーム】を利用して自分の目的を達成しようとしている。
勝利者インタビューで隣の男が自身の母親について言及する度、俺は自分の義母の笑顔を思い出す。
元気でやっているのかもわからない。
あの殺人植物の毒に冒されて、何か後遺症は無いだろうかと不安になる時もある。
ただ、ガイアに秘密裏に送り込んだカメラドローンから時々届く乱れ気味の通信映像だけが、彼女が施設で変わらずに暮らしているのだというのを伝えてくれた。
「お! 赤くなってきたかも」
嬉しそうな声に手元の赤い円から目を離して、空へと顔を向ける。
確かに言われた通り、月の色が変わってきていた。
いつもならば青白い色を湛えた月が赤褐色へと変化していく様は恐ろしくもあり、神秘的でもある。
そんな宇宙の不思議を目の当たりにしながら黙っていると、間延びしたような口調でミラージュが呟く声がした。
「赤いお月様ってレアだから、何か願い事でもしたら叶いそうじゃねぇ?」
「……月に願いを叶える力なんて無いぞ」
月から顔を動かし、ミラージュへと目を向ける。
同じくこちらを見つめ返してきたミラージュは、厚い唇を尖らせてから子供らしく舌を一度突き出した。
本当に小憎たらしいガキのような仕草に思わず苦笑してしまう。
「あーあー、ヤダヤダ。お前って本当にロマンチックさの欠片も無いんだから。そのうち、夢すら見れなくなっちまうぞ」
「バカ言え。お前が夢見がち過ぎるだけだろ、小僧」
「たまには夢くらい見ないと、この星ではやっていけねぇんだよ」
プイと見つめあっていた顔を背け、またもや上へと視線を向けたミラージュから俺も視線を動かして空を眺める。
夜空に浮かぶ赤い月。
もしも月に願いを叶える力があると仮定したならば、俺が望むモノなんてただ一つだ。
だが、もしも叶えてくれる願い事が一つだけで無いのなら。
俺はきっと、隣の男と共に歩める未来を願ってしまうのだろう。
何のしがらみもない、制約もない、自分の気持ちに素直なままでいられる。
そんな未来があれば良いのにと、得難い先を望んでしまう。
「随分と真剣な顔してるじゃねぇか。……そんなに頑張ってお祈りしてるクリプちゃんの願い事は一体なんなんだ?」
不意に間近で囁かれた言葉に、驚く。そのタイミングで触れ合っていた肩先が離れて、それを名残惜しく思った。
隣を見遣れば、うっすらと笑っているミラージュが立っている。
けれど赤い光の中で微笑むミラージュの顔は、いつもと違うように見えた。
まるで【ゲーム】の途中で中継カメラに撮られている時のような、作り込んだ笑顔。
「……お前こそ、何を願った?」
「質問を質問で返すなって教わらなかったか? いっつもパソコンカタカタやってるクセに、欲しい返事がちゃんと出てこないんだから困っちまうぜ」
「俺は機械じゃないからな」
「勿論! 知ってるさ。少なくともパスよりは古びたAIを搭載してるんだろ?」
無駄なやり取りだと思うのに、コイツのペースに乗せられる。
ミラージュの演技じみた笑顔は嫌いでは無かったが、敢えてそれを見たいとも思わない。
でも、踏み込むのが正解だという確証を得られる程の自信も勇気も無かった。
仕方なしにマグの中身に口をつける。
「……今度のブラッドムーンも見られるかな?」
俺がすぐに答えられないのを知っていて、ミラージュがそう問い掛けてくる。
既に温くなり始めているホットワインが喉を下っていく。
来年か、再来年か、それとももっと先の未来なのか。
その前に俺は死んでいるかもしれないし、ここに居ないかもしれない。
だから、出来ない約束はしたくなかった。
「……さぁな……。その時にならなきゃ、分からないだろ……」
俺の言葉に笑っていたミラージュの顔が一瞬だけ泣き出しそうな表情へと変わったように思えたが、それは赤い光に遮られ、すぐに溶けて見えなくなった。