「あれ……、今、何時だ」
固まりかけていた体を動かして、首を鳴らすついでに作業用デスクの上に置かれた時計へと視線を投げる。
そこに示されていた時刻が思っていたより進んでいたのもあって、驚いた。どうやら知らず知らずのうちに随分と熱中してしまっていたらしい。
昨日の【ゲーム】時にホログラム装置の調子が悪いような気がして、メンテナンスついでに、最近思いついた新たな機能を実装しようとしていたからだろう。
ホログラム装置と向き合う時、母さんと一緒に過ごした日々を思い出す。
例え、母さんと装置のメンテナンスをする日がもう来ないとしても、これらは俺にとって大切な商売道具で、愛おしい記憶のひとつだった。
「……ってか、アイツどこ行った?」
誰に聞こえるでも無い独り言が、薄暗くなり始めている部屋に響く。
作業を始めた時はまだ明るかったのもあって、カーテンを開けて電気をつけずに作業をしていたのだが、目を向けた窓の外はうっすらとした闇が広がっていた。
座っていたオフィスチェアから腰を持ち上げると、ずっと曲げていたせいなのか膝がパキリ、と小さな音を立てる。
そのまま足を動かして廊下へと出られるドアを抜け、リビングルームへと向かう。
俺の恋人……と言っていいのかも怪しいが、俺の前にふらりと現れては色々な物をねだっていくようになったクリプトは、酷く気まぐれな男だった。
来る直前に一言だけでもメッセージを飛ばしてくればまだ良い方で、【ゲーム】がオフの日に自宅に突然やってきたかと思えば、『腹が減った。飯を寄越せ』と世間的には可愛い系に見えない筈の顔と声で鳴く。
そうして、『いきなり来るな』と文句を言いつつも優しい俺が出してやる料理を腹いっぱいになるまで悠々と食べた後、俺の肩に頭を寄せながら内容もよく分からない"仕事"をするのが常だった。
クリプトの黒髪が肩をくすぐる感覚に、こちらが耐え切れずに触ろうとすれば、無言で手を叩かれるのも、よくある出来事だ。
嫌われているのではないのは分かるが、そう露骨に拒否されれば俺だって傷つく時もある。
だが、機嫌がいい日はこちらが何もしないと逆に……は、ふ……不遜な顔で笑って膝の上に乗っかってくるのだから、もう、心底ほだされているとしか言いようが無かった。
面倒くさくて分かりにくい。それでいて急に見せる姿が可愛く思えて、放っておけない変な生き物。──俺のクリプトに対する評価は、今のところはそんな感じだ。
「……クリプちゃーん……もしかして帰っちまったぁ……?」
そろそろと廊下の先にあるリビングルームへと入りこみ、確認の為に呼び掛けてみる。
今日も今日とていきなりやってきた"変な生き物"は、納期にでも追われているのか、俺が出した飯を一気に平らげてからは、悲しいくらいの塩対応だった。
お前がその気ならそれでもいいさと、俺もやりかけで放置していた家事をさくっと終わらせてから、珍しく自室へと籠る事に決めた。
だってそうだろう? 絶対に冷たくされるのが分かっているのに、クッション代わりになってやる程、俺だって優しくは無い。
でも、腹が減ったり、"仕事"が粗方落ち着いたら、きっとクリプトは俺に声をかけてくるのだと信じていたからこそ、わざとらしく拗ねた態度を取ったのに。
「クリプトー……」
───まさかアイツ、本当に帰ったのかよ!
そんな寂しい思いを抱えつつも部屋の中央に置かれたカウチソファーへと近づけば、そこには開かれたラップトップを腹に乗せたままソファーに横たわっているクリプトの姿があった。
ラップトップは開かれているものの、画面から漏れ出る光は無い。
いつもクリプトの傍らに飛んでいるハックは、ソファーの近くでただ何も言わず──コイツがいきなり話し出したら、俺はそれこそ飛び上がるだろう──その印象的なグリーンのカメラアイ部分を光らせたままだった。
とりあえずラップトップを退かして、ブランケットでもかけてやらないと腹を冷やして風邪をひいてしまうかもしれない。
そっとラップトップをクリプトの体の上から動かして、カウチソファーの向かいにあるローテーブルへと移動させる。
後はブランケットを……と動こうとした俺の耳に微かな声が聞こえてきて、思わずクリプトの方へと目を向けた。
「………小僧……、お前……それはバッテリーで……ヒートシールドじゃない……ぞ……」
起こしてしまったなら悪い事をしたと思っていたが、そうでは無いらしい。
むにゃむにゃと口の中で可笑しな事を話しているクリプトは、熟睡しているようだった。
見ている夢の内容が、俺がシールドバッテリーとヒートシールドの違いすら見分けられないアホ扱いなのが気になるものの、まぁ概ね平和な夢なのだろう。
何故なら、眠っているクリプトの口元はどことなく穏やかな笑みを浮かべていたからだ。
起きていた時の冷たい対応とは大違いだと考えながらも、眠っているクリプトの傍へとしゃがみこみ、案外柔らかな頬を指先で突く。
かつては近づいたりこうやって触れるだけで、慌てた様子で飛び起きていた男だとは思えないくらいの慣れっぷりだ。
どうせ起きたら腹を空かせているのだろうし、起きる前に夕飯を準備しておこう。
「……ん、……んぅ……」
そう考えを巡らせて、今度こそブランケットを取りに行こうとしたタイミングで、目の前のクリプトの眉が寄せられ、もぞもぞと身を捩らせ始めた。
何度も聞いた事のある吐息交じりの甘い声に、ついつい体が動きを止めてしまう。
コイツ、今は何の夢を見ている? まさか、……なぁ? 薄く開かれたクリプトの唇が荒い息を漏らし始めたのに、驚き半分期待半分で次の言葉を待った。
「っぁ……だめ、……こんな場所……で、は……ウィット……ッ……」
ひと際高い声と、軽くソファーから腰を浮かせているクセに顔を嫌々と振って両腕をピタリと体に引き寄せたまま両手を握り込んでいるクリプトを、もはや穴の開きそうなくらいに見つめてしまう。
こんなのは、不可抗力だ。『ふざけるな』と後で叱られたとしても、全部この"変な生き物"なのに、バカみたいに可愛くてエロいおっさんが悪い。
脳内で現在の冷蔵庫の中身を思い出し、クリプトが好きな料理のメニューを一通り作れるのを確認してから、未だに夢の中の俺に好き勝手されているらしいクリプトが着ている薄手のパーカーへと手を伸ばしていた。