この感情の名は 【問五 以下の英文を読んでそれぞれ和訳せよ】
ずらりと並んだ文字列を目線と、持っているシャーペンの先端でなぞる。
僅かに印字の掠れた英文を脳内で頭から順当に読んでいくと、途中で分からない文法が出てきて首を傾げた。
三つの英文の形はどれも似通っている。恐らく似ているからこそ、使い方を試すような問題が出題されているのだろう。
全く見た覚えがないワケでも無いのが悔しい。なんだったっけなぁ、ともう一度反対側に首を傾げた。
こういう時、自分のスマホが手元にないのが面倒だとつくづく思う。
かと言って、スマホ所持の権利はまだ認められていないから、考えた所で仕方が無いのだが。
突如として自宅に郵送されてきた青い監獄への招待状によって、俺含む三百人のストライカー達は一斉に寝ても覚めてもサッカー漬けの、ある意味"地獄"のような環境に身を置くことになった。
しかし、青い監獄で行われる過酷なトレーニングや、これまで出会う機会すらなかった大勢の実力者を相手に行われる最高に熱い試合は、確かに俺自身の能力を飛躍的に向上させてくれる。
これまでの『ワンフォーオール・オールフォーワン』という教えに従ってやってきたサッカーではない。
それぞれが自分自身のゴールの為に、例え仲間であっても喰い合い、高め合い、時には出し抜く敵にすら成り得る。
そんなサッカーの楽しさを知ってしまった。自分で掴み獲るゴールの快感を、俺は知ってしまった。
――――無意識に唇に当てていたシャーペンのノック部分を押し込む。
カチ、カチ、と大して削れてもいないのに芯だけが先送りされていく。
微かなその音が聞こえるくらいに、いつもは騒がしいこの部屋は静かだった。
それもその筈だと、背の低いテーブルの向こう側でベッドを背もたれにしながら、つまらなさそうにイヤホンを耳に装着したまま目を瞑っている凛へと視線を向ける。
俺と凛、そして蜂楽と蟻生と時光。この五人一組の部屋には、現在、俺達二人しかいない。
蜂楽は『トイレに行く』と言って出ていってしまってから行方知れず。蟻生と時光は二人で連れだって『早めの風呂に行く』と言っていなくなってしまった。
恐らく連日の英語学習が退屈で仕方ないのだろう。俺だって出来る事なら逃げ出したいが、どれだけ逃げたくとも英語の問題は勝手に解けてはくれない。
だからこそ、こうやって頭を抱えながらも立ち向かっているのだ。
しかし、そうやって俺や蜂楽達が分からなくて四苦八苦している英語の問題集なんて、凛にしてみれば何の苦もなく解けて当然なのだろう。
とっくに全て解き終わっているらしい凛の分の参考書など含めた問題集一式は、乱雑に各自に割り振られたベッド横の棚に放っておかれていた。その適当さ加減は、『一刻も早くサッカーがしたい』という態度を微塵も隠していない。
それもそうだろうと、シャーペンの芯を繰り出すという無意味な行動を止め、代わりに気がつかれない程度に凛の姿を目でなぞる。
世界選抜戦にて、世界で活躍しているプロのストライカー相手にまで喧嘩を売っていた凛の姿は、流石に忘れようにも忘れらないくらいに直近の出来事だ。
流暢に英語を話していた姿が妙に様になっていて、神様はそういう所にまでコイツに才能を授けているのだと笑ってしまう程だった。
それに加えて、日課らしいクールダウンヨガをしている最中に乱入して見た凛の肉体は、驚くほどに無駄が無かった。
実際に触ったりなどしていないから分からないが、必要な部分に必要なだけ、しっかりと筋肉がついており、一種の彫刻めいた姿をしている。
そして、今は目を伏せているからか、人よりも長いだろう睫毛がコンクリートで囲まれた部屋の頭上から降り注ぐライトによって頬に影を作っていた。
黙っていれば、モテるのだろうなと思う。……黙っていなくても、モテるのかもしれないが、生憎と俺にかけられる言葉の殆どは暴言に近い物の為、判別は不能だ。
ただ純粋に、綺麗な人間だと思う。
男相手にそんな事を思うのもおかしな話なのだろう。だが、確かに凛という人間はどこまでもサッカーに対しては熱くて誠実だった。
顔も、もはやカッコいいを通り越して、美人の部類にまで入るのだろう。
あまり他人の見た目を気にした事が無かったが、千切と初めて会った時に抱いた『綺麗だな』という感想に似ている。
そこに性別の差というのは無くて、綺麗なモノを綺麗だと感じてしまうのは止めようがない本能だった。
未だにコイツに負けた事は悔しくて苦しくてどうしようも無いが、それでもその敗北を受け入れなければ先には進めない。
そうして、凛が俺を選んだという事実もまた、変わる事は無い。
少なくともこうやって糸師凛という人間と真っ向から相対する機会なんて、そうそう訪れないだろうし。
「……おい」
「ッ……ぇ……」
いつまでも動かないから、実は眠っているのではと考えていた凛の唇が不意に動く。
それと同時に閉じられていた睫毛が緩やかに開かれて、奥から現れたターコイズブルーの瞳がこちらを射抜いた。
真っすぐな視線は、寝惚け眼ではない。ハッキリと意識を保っていたのがありありと分かる強い瞳をしていた。
小さな机一個分だけを隔てて、凛が俺を見ているという事実を受け止める。
その目の上にある眉毛が顰められて、めんどくさそうにこちらの手元へと視線を移した動きまでも、知らず知らず目で追ってしまう。
「視線がうぜぇんだよ。人の事見てる暇があるなら、さっさと解け」
「なに、お前……寝てるのかと思ってたのに」
「寝てねぇ」
フン、と鼻を鳴らした凛は、存外に『そんな事も見抜けねぇのか』とでも言いたげな顔をしている。
かと言って、それ以上の言葉を発してくるのでも無いから、再び部屋は沈黙に包まれてしまった。
寝ているだろうと思って凛の顔をマジマジ観察していたのがバレていたのだとしたら、何となく気まずい。
別に悪い事をしようとしたワケではないのだから、堂々としていればいいのだろうが、それでも凛の青い瞳に全て見透かされているような気がして口を噤んだ。
「……No more thanで"たった~"、No less thanで"~も"、Not more thanで"せいぜい~"だろ。それくらい覚えとけよ、バカが。つーか辞書引け」
「は、え……、……あぁ……」
ベッドに凭れ掛かっていた凛がその背を離したかと思うと、俺の開いていた問題集を反対側から覗き込んでくる。
そこまで近づいていない筈なのに、サラリとした凛の髪が白い用紙の上に影を作って、伸ばされた人差し指が、分からなくて悩んでいた英文の上を撫でる。
武骨な手の甲に浮かんだ筋と、形の良い爪が視界に入り込んで、言われた言葉の半分だって上手く耳に入ってきやしない。
そのまま流れるように青い監獄の印が入ったドリンクボトルを掴んだ凛は、再びベッドへとその背を預け、ドリンクを飲んでいるのだろう。
そこまでは目で追えなかった。というよりも、顔を上げられなかったというのが正しい。
自分でも今の自分の表情が誤魔化せないくらい可笑しいだろう事は、流石に分かっていたからだった。
あの凛が他人に聞かれてもいないのに、勉強を教えるだなんて。──どうせ、ただの気まぐれだろう。
それ以上の期待などするつもりも、そもそも期待すらしていなかった。
それでもこの対応は考えてもいなかったのだ。
例えるならば、コーナーからゴールに向かって撃たれた縦直下回転直接弾を間近で見せつけられた、あの時のような衝撃。
"糸師凛"という人間が"潔世一"という人間を、本当に認識しているんだという感動めいた思いが脳を満たす。
数日前まで、凛の中で俺は存在すらも認識されていないモブキャラだっただろうに。
人から見られていると察するには、自分も相手へ意識を向けなければ気がつけない。
そうして、こちらの文字を書いている手が止まったのだと気が付くのだって、イヤホンで流れるリスニング音声越しでは、簡単には分からないだろう。
たまたまだったと言われれば、何も否定する材料など無い。しかし、俺にとっては、やっぱり驚くくらいによく響いた。
俯きながらも握っていたシャーペンの芯を紙へと押し当てる。
そうして、いつもより強めの筆圧で書かれた文字は、空欄だった解答欄をあっという間に埋め尽くしていった。