「明日11時、フィッシュブルネン集合」 サッカー界で知らぬ者はいないと言われているドイツの名門サッカーチーム──バスタード・ミュンヘン。
ミュンヘンを本拠地として活動しているこのチームは、現在世界一のストライカーと名高いノエル・ノアが所属しており、フットボーラーであれば一度は所属する事を夢見るだろう実力と知名度を兼ね備えたチームだ。
そうして青い監獄プロジェクトの"申し子"として多大な存在感を示したお陰で、そんなバスタード・ミュンヘンからダイレクトオファーを受け、長年の憧れだったチームに昨年から所属している潔は、ピッチ上で見せる鋭い眼差しとは違い、青年にしては大きな瞳を困惑に染めていた。
「……いや、……なに?」
バスタード・ミュンヘンが管理している施設内。その中でも清潔さを常に保たれたトレーニングルーム。
最新の機具が揃った室内の隅にあるベンチに腰掛けながら、潔は目の前に差し出されている紙製の白い箱と、箱を持っている人物へと目線を何度か往復させる。
けれどそんな潔の質問に答える事なく、ただ黙って箱を差し出しているカイザーは、いっそ恐ろしく見えるくらいの美しい無表情を保ったままだった。
明日から欧州サッカーリーグ自体が二週間のオフシーズンに入る。常にフィールド上を走り回り続けている選手達にしてみれば、貴重な休みだ。
ずっと心待ちにしていたオフの前日にいきなり自分の前に現れ、謎の箱を差し出すカイザーの意図が全くもって読めない。
チーム全体でのフォーメーション確認練習後、軽い自主トレをしていた潔は、ジャージを着ている肩にかけたタオルで微かに滲む汗を拭きつつ、もう一度声を上げる。
「だから、なんなんだって、聞いてんじゃん」
「……キルシュトルテだ。ミュンヘンで近頃一番人気のやつ。お前はお子ちゃま舌だから、クーヘン好きだろう? 世一」
「好きだけど。……いや、そうじゃなくて……」
それを渡してくる意図は? という疑問と共に、箱の中身だと宣言された生クリームを纏った自身の好物の一つであるチョコレートケーキに向けかけた意識を再びカイザーへと戻した。
少なくとも、直近でケーキを渡されるような祝い事があるのでもない。
そもそもチームメイトになる前から、青い監獄で散々辛酸を嘗めさせられたカイザー相手だ。
この男が何の策略や他意も無く、差し入れなどしてくる筈がない。頭の中にあるカレンダーを再度確認した潔は、そう結論付ける。
同じチームに所属してから約一年。潔とカイザーの仲は良好とまではいかないが、改善されつつはある。
それでもカイザーから渡される物品に関して、潔はある程度の警戒心を失ってはいなかった。
そんな疑いの眼差しを隠しもしない潔の様子に深いため息を吐いたカイザーは、既に着替えが済んでいた私服のジャケットから二枚の紙片を取り出す。
微かなその動きだけで、ふわりと漂う薔薇の香りに潔が片眉を上げたタイミングで、取り出した紙片を見せつけるように翳したカイザーの手に自然と視線が移った。
「……映画のチケット?」
カイザーの手の中に下半分が収まっているのもあって、全体は見えないが、明日付の映画チケットである事が窺えた。
思わず脳内で浮かんだ言葉をそのまま発した潔に、長い指先を動かしてチケットを揺らめかせたカイザーは、顔に乗せていた無表情を僅かに崩して一瞬だけ柔く微笑む。
青い監獄時代ではありえなかったその笑みを最初に見た時、潔はこの後どんな地獄が待ち受けているのかと恐怖で背筋が凍ったものだ。
しかし、カイザーも一人の人間であるから、喜怒哀楽の感情が存在しているという当たり前の事実を知っただけだった。
「余ったんだよ。同席する予定の奴が急遽、来られなくなってな」
「……あぁ、……それで……」
ここで漸くカイザーがわざわざケーキを買ってきた意図を察する。だとしても、この男にしてみれば異常なくらいに謙虚過ぎると、潔は脳内で呟いていた。
先も述べたように、プロサッカー選手にとってオフは非常に貴重だ。
普段酷使している体を休める事に使う者もいれば、それぞれの自国に帰る選手もいる。
潔は今回のオフで帰国する予定は無かったものの、同じく周辺諸国でしのぎを削り合うライバルとなった青い監獄出身のメンバー数人と会う約束を何日かに分けて取り付けていた。
だが流石にオフ初日の明日は、自室の掃除をしようと考えていたのもあって、何の予定も入っていない。
────つまりはカイザーのお供をしてやる事に何の支障も無いという事だ。
「天下の"皇帝サマ"が、賄賂かよ」
「賄賂とはクソ人聞きが悪いな。立派な交換条件だろ」
いつまでも俺に持たせるんじゃないとばかりに、今度こそ箱を押し付けてきたカイザーは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
そうして見せていたチケットをジャケットのポケットへとしまい込むと、俯き気味だったせいで落ちてきていた髪を耳へとかけた。
金から青へと続くグラデーション。手の甲に刻まれた王冠のタトゥーから伸びる二本の青薔薇の蔓。
そんな些細な仕草でさえもミュージカルの演出か何かのように見えて、やはり顔だけは良いとここ数年で何度も思い知らされる事実を再認識してしまう。
「……ネスは?」
「アイツは今夜から実家に帰る」
「ゲスナー」
「なんで俺がアイツと並んで映画を見なければならない」
「ノア……は、ダメだ。俺が解釈違いで死ぬ」
「そのノア至上主義思考……いい加減、クソうざいぞ、世一ぃ」
「うっせ。俺は生まれながらのノア様ファンなんだよ。年季が違うんじゃ年季が」
とりあえずの確認としてカイザーの腹心であるネスやチームメイトであるゲスナーの名を上げるが、ことごとく選択肢をすぐさま潰されていく。
まるでそう聞かれるのを予測していたような口ぶりに、勝手に唇が弧を描くのを抑えきれない。
飛び交う言葉の応酬も慣れたもので、御影コーポレーションのイヤホンを使わずとも会話が出来るようになったのは、チームに参加してからも必要以上に話しかけてくるカイザーのお陰なのだと認めたくはないが理解はしていた。
潔はカイザーに向けていた視線を下へと落とし、小ぶりな箱へと目を向ける。
「つーかさぁ」
そのまま膝に乗せている箱の蓋を指先で開くと、白い生クリームの上に鮮やかな赤色のチェリーと細かな削りチョコが飾り付けられているのが見えた。
恐らくカイザーが直接購入したのではなく、マネージャーにでも頼んだのだろうシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。
仮に今朝方に購入を頼んだにしても、初めから自分を誘う気でなければこんな代物など用意出来ないだろう。
この数年でカイザーという男の面倒くささは骨身に染みている。そうして、意外にもその面倒くささが当初ほど嫌では無くなっていた。
箱の蓋を閉めて、ゆっくりと顔を持ち上げる。
座っている潔を上から見つめているカイザーの深みのあるサファイアブルーの瞳と、その目元に添えられた朱色が緩む。
これが無自覚なのか計算なのか分からないのが、この男の喰えない所だ。
「最初っから、『お前と一緒に行くつもりでご用意させて頂きました』……って言えよ」
意気地なしの王様、と続ける前に、広い掌が伸びてきて髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜていく。
乱雑ながらもけして痛みは感じない程度の力加減に、やっぱりこの男は面倒な奴だと首を振って抵抗を示した。
そのままそっと離れていく手と共に顔を上げると、苦虫を噛み潰したような顔をしたカイザーが立っている。
「……クッソ生意気」
「ハハ、お褒め頂きどーも。……ちなみに俺は素直に誘ってくれた方が、気持ちよーく丸一日差し出せるけどなぁ?」
どうせ、とっておきの店だって予約済みなんだろ? 最後の一押しとばかりにニヤついた潔がそう囁けば、カイザーの艶の良い唇が悔しそうに開かれ、普段よりも低く小さな声が聞こえる。
カイザーのその態度についに堪え切れないと、声を出して笑った潔に向かって肩を竦めたカイザーは、用は済んだとばかりに青い髪をたなびかせ、堂々たる態度でドアを押し開け出ていったのだった。