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    凛(→←)潔/ファーストキスする凛潔

    ティッピングポイント 水平に伸ばしていた両手をそのまま頭上へと掲げる。
     それと同時に正面にある鏡に映る自分が同じ行動を取り、少し離れた場所に居る男も見様見真似で慌てて両腕を上げていた。
     ついで右足裏を左膝横に当て、片足立ちへと移行しつつ、その格好で静止しながら息を吐く。
     一切の空気の揺らぎすら起こさぬように。ゆっくりと肺を膨らませ、血中に新鮮な空気を循環させる感覚を享受きょうじゅする。
     相変わらず鏡に映る潔が俺の真似をして足を上げているが、ピタリと止まっている俺とは違い、ヨガマットについている軸足がかすかに震えていた。
     体幹の鍛え方が甘いのが一目見て分かるその姿から視線を反らし、さらに難易度を上げる為に軽く目を伏せる。
     互いに黙っているのに気配だけが伝わってくるという異質さに慣れ始めている己が居て、脳内で思わず舌を打った。

     『お前の強さの秘密を知りたい』──そんなくだらない言葉を吐いた潔にストーカー並に追いかけ回されるようになってから、もう数日が経過している。
     ただの冗談か、それこそ妄言のたぐいだろうと考えていた俺の予想を超える形で、潔は常にこちらの背後にべったりと張り付いて離れない。
     どれだけ罵声を浴びせようが、無視しようが、特に気に留めた様子も無くくっついてくるものだから、結局俺も放置するしか出来ないのだ。
     しかも本人は至って真面目らしく、俺の行動を制限するでもなく、声をかけてくるのでも無い。ただただそこに居るだけ。
     おかっぱ頭のようにウザったく絡んでくるのならまだしも、同じ空間にそれこそ空気のように存在するだけならば、拒否のしようが無かった。
     しかも普段は他人に無駄な愛嬌を振り撒くこの男は、俺と二人きりになると途端に黙り込んで声を発さなくなる。
     会話すら無駄だと切り捨てたのはこちらからだったが、恐らくそれだけでは無いのだろう。
     薄く瞼を開く。必死でバランスを取っているらしい潔の身体がふらりと揺れているのを確認してから、そっと膝横につけていた足を下ろした。

     流れのまま、今度は反対側の足で片足立ちになった俺の動きを目で追っている潔と鏡越しに視線が絡む。
     丸く青い両目が薄暗い部屋の中でジッと俺だけを見つめている。
     さして高くも無い鼻の下にある唇は何かを言おうとしたのか開かれかけたが、結局、音を発する事は無い。
     それを聞こうと一瞬だけでも耳を澄ませてしまった自分の軸がぶれかけたのを理解して、足裏全体に力を込め直し体勢を整える。
     俺はほだされてもいなければ、乱されてもいない。
     "潔世一"という人間を多少なりとも認めはしたが、受け入れようなんざ少しも考えていないのだ。それは当然の事実であり、いちいち確認するのですら生ぬるい。
     なのに、『本当はもう分かってるんだろ?』と脳内で囁く声がした。
     同時にざわりと胸の奥深くが嫌な音を立てるのに蓋をするように、俺はまた目を伏せ、全てをシャットダウンするのに注力する。

     潔の視線は真夏の日差しに似ている。
     こちらの全てを見通したいと願っているからか、それとも潔自身の性質なのかは知らない。
     けれど、何の迷いも無く俺を真っすぐに見つめるこの男の異常なまでの勝気さと、無邪気さはこちらを惑わせる。
     これまで俺の強さの前に視線を反らす人間や、"糸師冴"の弟だからと斜に構えて眺めてくる凡人などいくらでも見てきた。
     だが、コイツの視線はそんな奴らとはまるで違うのだ。
     俺の全てを芯から知りたいという願いが込められている。そんな激しさを伴った視線。
     潔が意図しているのかどうかなど興味はないが、話をしなくともコイツの思考はある程度透けて見える。
     それが余計に厄介で、許容範囲をギリギリ踏み込んでこないのにも腹が立った。
     まるで、視線だけで体中をまさぐられている感覚に陥る時がある。
     俺をそんな瞳で見るのなら、向こうにも同等の不快さを味わわせなければフェアではないだろう。
     再びうっすらと瞼を開けると、今度は先に目を開けていたらしい潔がやはり俺を見つめていた。

     その表情を見た瞬間、何もかもが面倒になってヨガマットを蹴るようにして潔の方へと向かう。
     二メートル程度しかない距離など一気に詰められる。
     さらには、目を白黒とさせている潔の手首を掴んで逃げられないように拘束するなど、数秒もあれば余裕だった。
     全員に支給されているロゴの入ったスウェットの隙間に忍ばせた指先で握った潔の手首は、まぎれも無く男の腕だ。
     それでも完全に握り込める太さの手首からドクドクと激しく伝わる脈拍と、ヨガのせいだけでは無いだろう体温の高さを感じ取り、自然と止めていた息を吐き出した。
     このまま進んだら、もうけして戻れないという恐怖と謎の期待が背筋を撫でていく。
     自分にとって毒にしかならないであろうこの男に、それでも"触れたい"と俺が刷り込まれたように、きっとコイツもそう思っているのだろう。
     例え監視カメラにこの光景が映っていようがいまいが関係が無い。
     どうせあのクソ眼鏡はサッカーに支障が出なければ、何も見なかった事にするのだろう。
     この狭い箱庭は何もかもが異常で、外の世界とはまるで常識が異なっている。
     ならばこの世界に居る間だけは、脳を這い回る不快さを解消する為の相手にコイツを選んだって、何ら問題は無い筈だ。

     触れあっている肌が熱い。潔の体温が高いだけでは無く、自分の身体が少しずつ熱を帯びていくのを自覚していた。
     本当に嫌ならば、振り払えるだけの余地は残している。
     部屋の中でただ黙って俺を見上げてくる潔の頭上に降るライトの光が、黒く艶めいた前髪で出来た影をより濃くしていた。
     それなのにこちらを見てくる潔の瞳はその影の影響などまるで受けずに、吸い込まれるような輝きを帯びたままだ。
     そうしてただ一度の瞬きの後、覚悟したように柔らかく伏せられていく。
     瞳が見えなくなるのが勿体ないと思いながらも、これが礼儀なのかもしれないと俺も緩やかに瞼を伏せつつ、手首を引き寄せながら背伸びをしているらしい潔に向かってわずかに腰を屈めていた。
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