3/27モチェワンライ「罪」草木も寝静まった夜半。世界から音が消え、光も息を潜め、夜が重くのしかかってくる。閉塞的で嫌いじゃない。少し前まではむしろ息苦しいくらいが楽だった。ただ、最近は好むようなものでもなくなったのも確かだ。闇夜に焦がれるほど、朝日が目に染みても辛くなくなったからだろう。何せ夜でも光り輝く黄金を常に目にするようになったのだから。この世に2つとない珠玉の宝が俺を慕ってくれているなんて、何度噛み直しても全く飲み込めない。それこそ数年前の俺に言ったら「またまた〜」なんて茶化して馬鹿にするに決まっている。
こぽこぽと小さく音を立てていた電気ケトルのスイッチが、カチンと音を立てて湯が沸いたことを教えた。ただでさえ電灯の少ない地域に建っているこのセーフハウスは、外からの明かりがないと本当に真っ暗でよく見えない。タブレットの明かりだけを頼りにやかんを探したが見つからなかったので、文明の利器に頼らせてもらった。そのせいで散らかったキッチンの棚の中身は、チェズレイが起きてくるまでに何とか片付けなければならない。夜のつまみ食いは、証拠隠滅までがワンセットだ。
いつもなら多少手間をかけても何かを手作りするのだが、今日はわざとそれをしなかった。小さく鼻歌を歌いながら、用意をしていたカップラーメンを取りだす。ラッピングを剝がして、蓋をあけてお湯を注いだ。
「たま〜に食べたくなるんだよね〜……」
誰に聞かせようとしたわけでもなく呟きつつ、手早く準備をして箸を蓋の上においた。これだけでもいい香りがする。本来キッチリ時間を待つべきだが、雑に三十秒だけ数えてまだ芯が残ったままのラーメンをかき混ぜた。そしてふー、ふー、と息で冷まして口へ放り込む。ずず、と雑に麺を吸い込んだ。少しお湯を規定より減らしたその味は、舌の上で懐かしく染みる。
「いやぁ〜、これこれ。懐かしいなぁ〜」
「それは何よりです。ところで、そろそろ叱られる準備はよろしいですか? モクマさん」
「…………バレて怒られるとこまで、懐かしいなぁ〜……」
真後ろから聞こえた声に、俺は振り返らずに上を向いて視線をあげた。のす、と額に額が乗る。俺の脇の下を通るようにチェズレイの両腕がキッチンに置かれたので、後ろから囲われてしまって逃げれなくなった。さらりと顔の横で流れる長い髪からいいにおいがする。手の中にある全く別種のいいにおいが移ってしまいそうだったから、思わず手を伸ばして遠ざけた。
「……えへ。おはよ、チェズレイ」
「おはようございます、モクマさん。随分と早起きですねェ」
「あのね、違うからね。おじさん、いつもこんなに味を濃くして食べてるわけじゃないからねっ」
「言い訳するにも、そこに対してでよろしいので?」
相棒の声はいつもより甘くゆっくりしたスピードで、輪郭がぼやけている。どうやら本当に眠い中わざわざ出てきてくれたらしい。ラーメンをそのままキッチンの天板に置いてチェズレイの腕の中で反転すると、ぽやぽやと眠そうな瞳が俺を見返してきた。心なしかいつもより元気のないぴょこぴょこ跳ねる髪を撫でつけながら、俺は思わず声をひそめる。
「小腹減っちゃってさ。昼間、買い物に出たときに見つけたカップラーメンのことを思い出しちまったらもう我慢ならんくて」
「あァ……3回押し問答した、例の」
「そ、そ。押し問答したあげくに、お前さんが目を離したすきに陳列棚に戻すもんだからなんとか必死で守りきってここまで連れ帰った、例の」
「……そんなものにまで守り手でなくてもよろしい」
「……ハイ、大人げなかったです」
体に力がうまく入らないのか、それともわざとか、チェズレイの体がどんどん傾いて俺によりかかるようになってきた。喋ってるうちにだいぶん覚醒してしまったらしいチェズレイの、長いまつげが至近距離で揺れる。珍しくしゃんと真っ直ぐ立たずにキッチンについた両手で体重を支えるようにして立っていたチェズレイは、前傾になっているせいで俺と視線の位置が変わらない。一度強く閉じられたのち大きく開かれたきれいな色した瞳が俺を改めて見る。そしてその視線が俺を越して後ろへ飛んだ。
「良けりゃ、食べてみるかい?」
「……あなたが大人の矜持を捨て去ってまで、駄々を通して持ち帰った戦利品です。きっと勝利の美酒にも勝るとも劣らない味がするのでしょうねェ……」
「うう……いじめんといて〜」
チェズレイが少し身を起こしたから、ほとんどキッチンに押し付けられるようにされていた俺とチェズレイの体の間に隙間ができる。俺は体をねじって後ろにあるラーメンを引き寄せて、そのまま「はい」とチェズレイへ差し出した。ふわんと俺達の間に漂う湯気からいいにおいがする。案の定というか、目の前のきれいな顔がしかめられた。
さて。この雑な渡し方が気に入らなかったのか、それともブスブスと二本刺さりっぱなしの箸が気に障ったのか、それともやはりこんな時間にこんなジャンクフードを口にすることが嫌になったのか、どれだろうか。しばらくしてチェズレイが口を開く。
「食べさせてくれないので?」
「…………。そっちかぁ〜……」
「そっちとは?」
「いやそっちっちゅうか、こっちの話」
そっちとかこっちとか曖昧に濁して、俺は刺さりっぱなしだった箸を抜く。新しいものと替えようとしたら、未だ俺を囲ったままの長い腕に行く手を阻まれた。そしてじい、と俺の手に残る箸を見つめたまま、ぱくりと口が開かれる。そして俺を見つめたまま、「あ」と喉の奥から言葉にならないおねだりが飛び出してきた。
「え」
「……」
「い、いいの? これ、おじさんがしっかり口つけたやつだけども……」
「あれだけ直接触れ合っているのだから、今更でしょう。構いません」
「じゃあまだ熱々だからさ、直接はちょいとお前さんのベロが心配だし、自分で――」
「おや。先程ご自分でなさっていたみたいに、冷ましていただければいいだけでは?」
「俺にふーふーしろっちゅうこと? それは構わんが、本当に大丈夫かい? 一応、唾とか飛ぶんじゃ」
「またこんなもののために押し問答をさせる気で? さァ、吹き冷ましてください。私の大事な舌のために」
再び「あ」とねだられたもんだから、俺は何故か湧き上がる罪悪感を押し殺して、抜いた箸をまたラーメンの入ったカップに差し込んだ。自分の一口分よりだいぶん少ない量を持ち上げる。それから自分でやるみたいに息を吹きかけて冷ましてから、改めてチェズレイの口元へとそれを持っていった。
「はい、どうぞ。念のために自分でもふーふーしてね」
「……」
ふぅ、と細く息を吹きかけてから、ぱくん、とチェズレイの口の中に麺が収まる。当たり前だが長い麺は一口じゃ収まらず、唇で麺を挟んだままでチェズレイの視線がおずおずと俺を伺った。ここからどうすれば、という戸惑いが伝わってきて、思わず緩みそうになる頬を御す。食べ慣れないものを食すチェズレイに、俺は出来るだけ明るく声を上げた。
「こういうのは、ズズッとやっちまうのがいっそ乙なんだけどね。お前さんにはちと似合わんか。残りは自分で食べるかい? 俺がしようか?」
問いかけてみると、無言で俺の手からインスタントの安い素材のカップ麺と箸を受け取ったチェズレイは、啜ったりはせずに二口目で麺の残りを口に入れた。そしてそのまま俺へとそれらを突き返してくる。口元を押さえてもぐもぐ咀嚼するその口の中に、まさかインスタント麺が入ってるだけだなんて思えない神妙な面持ちをするものだから、やはり少し愉快になってきた。
「……どうだい? 深夜のカップ麺の味は」
「健康に悪い」
「はは。そらそうだ」
味はもはや言うまでもなく、口に合わないんだろう。シンプルな評価に、俺は小さく笑った。もぐもぐとまだ噛み続けているチェズレイはそのまま黙り込んでしまったから、俺は手の中に戻ってきたそれをまたズズッと啜る。麺はすっかりほぐれて、濃い味が染みたそれをろくに噛まずに飲み込んだ。そこでふと、その自分の食べ方に違和感を覚えて手が止まった。そしてインスタント麺を喉に飲む食べ方をし始めた起こりを思い出し、自嘲する。その機微に気づかれたらしく、チェズレイが俺の顔を覗き込んできた。その視線が俺へと話を促していたから、記憶の整理に付き合ってもらうことにした。
「昔、気のいいおやっさんに住み込みで働かせてもらってたことがあってね。若いやつは食えっちゅうて、眠らず呆けてた俺を引きずってよく真夜中にカップ麺を作ってくれてたんだ。お湯は大抵足りてなくて味は濃かったし、大して時間も置いちゃいなかったから麺がお菓子みたいにカリカリなままでさ。マイカにはそんなに味の濃いもんはなかったし、味噌や醤油の塩っ辛さとはまた違う濃さが食べ慣れんかったもんで、ろくに味あわずに飲み込んでたことを思い出しちまって」
「……」
在りし日の記憶。まだ髪の色が抜ける前の話だ。素性もわからない俺を拾って、離れに置いてくれたあの人はまだ存命だろうか。
「俺の事情なんて知る由もないから仕方ないが、おやっさんに笑顔で『カミさんにはナイショだぞ。深夜のインスタント麺は罪深いからこそ美味いんだ』なんて言われたことがあってね。……その日は隠れて吐いちまった。全く関係ないのに、その味が俺の罪を体に染み込ませる毒のような気がしてね。それ以来、こういうもんを普通に食べれるようになるまで結構時間が、……っと、すまん。お前さんがまだ食ってるっちゅうのに汚い話をしたね」
口元を押さえていたチェズレイが、その指先をぱっと離した。その口元はもう動いていない。
「いえ。もう飲み込みましたので」
「水いるかい? 口の中がその味でいっぱいだろう」
「ええ、ありがとうございます。……モクマさん、蛇口からミネラルウォーターは出ませんよ」
「おっと。すまん、そうだね。お前さんが腹下しちゃ大変だ」
「それはあなたの専売特許ですものねェ」
「……おじさんの腹下すのも、お前さんの専売特許だもんねえ」
「フフ」
楽しげな笑い声をあげるチェズレイから少し離れて、冷蔵庫を開ける。中からミネラルウォーターを取り出して、棚の中のコップへと注いだ。そのまま手渡したらお礼とともに受け取ってもらえたから、俺は半端な量残ったペットボトルから直に水を飲み込む。胃の中で存在感を放っていた味が中和された気がした。こくり、と上品に水を飲んだチェズレイは、何か言いたげな空気だけを投げて黙りこくる。これはおねだりだ。聞いてくれ、ということだろう。ふ、と笑って俺はねだられるままに口を開いた。
「なんだい?」
「……なぜ、わざわざ自分の傷をえぐるような真似をされていたのですか」
じぃ、とほの暗い部屋の中でも美しく色づく瞳が俺を貫く。ふ、と破顔して、俺は呟いた。
「慰めてやりたいんだと思うよ。過去の自分を」
「……」
「過ぎたことは取り返しがつかなくて、物に頼って懐かしんでやるくらいしかできないからね。その時感じた感傷や関わった人たちを思い出して、辿った道を振り返るのは悪いことじゃないだろう。特に今回はお前さんにも付き合ってもらったから、悪いことばかりの思い出でもなくなったしね。過去の俺を一緒に慰めてくれてありがとね。罪深い味も、だいぶん腹の中で溶けたよ」
「……」
なるほど、と落ちた声は微かだ。きっと聞かせるつもりのない小さな声が呟かれた。
「……これがあなたの『罪の味』か」
じ、ときれいな瞳が俺を見る。水の入ったコップを持つ指先が白い。水面が小刻みに揺れている。緊張しているその指先を包んで、俺はチェズレイの背を撫でた。とんとん、と軽く叩くようにして呟く。
「『罪と思い出の味』、かな」
「……」
コトン、とコップを置いたチェズレイがまた俺をじっと見る。もう一度おねだりに応えたら、チェズレイはほんの少しだけ泣きそうにも見える顔で、柔らかく微笑んだ。
「モクマさん、今夜のメニューのリクエストをしても?」
「もちろんいいよ。おじさんで作れるもんなら、何でもどうぞ」
首を傾げると、チェズレイは目を閉じる。そして過去を懐かしむ声が、柔らかく響いた。
「スープを作ってください。ルタバガ、フェンネル、ムール貝。……仕上げのディルを、お忘れなく」
「……いいよ。得意料理だ」