5/22飛行船――皆様、本日は『ヴィンウェイエアライン』にご搭乗いただき、ありがとうございます。当機はただいまウィンウェイ王国上空を飛行中です。到着時刻は――……
「――あ、こら! イヴァン、戻りなさい!」
ほんの一瞬目を離したすきに、息子が私の手を抜けて走り出して行ってしまった。騒ぎながら走り去るイヴァンを止めようと駆け出すが、お腹に宿した命を揺らさないように気をつけていてはとても子供の体力に追いつけない。
「どなたか! すみません、どなたか私の子供を止めてください……! っ、」
「ほい、つーかまえた」
私の横を風が通り過ぎたと思ったら、目にも止まらない素早さで前を走るイヴァンの腕が捕まる。子供を止めてくれたのは、小柄だけど体格の良い男だった。振り返った顔は見慣れない造りをしていて、おそらく東洋のほうの出身じゃないかと思う。優しげに下がった目尻がよりにっこりと下がり、私へと声をかけてくれた。
「大丈夫かい? 身重で走るのは大変だったろう。気づくのが遅れてごめんな」
「いいえ、ありがとう。助かったわ……!」
その男性がイヴァンを抱えて私のもとへ戻ってきてくれたので、私は彼に抱えられ不貞腐れているイヴァンを「こら」と叱る。
「だめでしょう、急にママから離れて走ったら。危ないじゃない!」
「……」
「イヴァン・ルキーチ・クズネツォフ! 聞いているの!?」
「……ごめんなさい」
そっぽを向く息子は男性のゆったりした服を掴んでぶすくれた。はぁ、とため息をつく。最近はヒーローものにハマってしまって、どこでも突然走り出したり飛び回ったりして気が抜けない。彼は私と息子に交互に視線を移してから、抱えていたイヴァンを下ろした。そして視線を合わせてしゃがみこんでから、子供慣れした様子でイヴァンの頭を撫でる。
「やあ少年。足が早いね。おじさん、必死で追っかけちまったよ。何か向こうに取りに行こうとしてたのかい? 随分急いでたようだが」
「……」
「ほら、……言わんと伝わらんよ」
見ず知らずの男性が子供の至近距離にいるというのに、止める気が起きない。そんな不思議な雰囲気をまとう男性だった。優しい深い声で話すものだから、聞いているだけで心地良い。
息子はしばらくもじもじとしていたが、その男性と私を交互に見比べて小さくポツリとつぶやいた。
「……さっき、おねえさんにもらったジュースがおいしかったから、ママにものんでもらおうと思ったんだ。この飛行船、もうちょっとでついちゃうって言ってたから……」
「イヴァン……」
「うん、上手に言えたね。偉いなあ」
ぽん、とイヴァンの頭を撫でてその男性はイヴァンの背中を押した。私も視線を合わせるために膝で立って、戻ってくる息子を迎える。ようやく私の腕の中へ戻ってきた息子はうるうると目をうるませていた。事情も知らず叱りつけてしまった、と反省しながら私は息子を抱きしめる。
「ありがとう、イヴァン。あなたの気持ちがとても嬉しいわ。ママにおいしいジュースを持ってこようとしてくれてたのね」
「……うん」
「でも、次からはきちんと伝えてね。ママはスーパーヒーローじゃないんだから、言ってくれなくちゃわからないの。心配するでしょう?」
「うん、……ごめんなさい」
ぎゅ、と私を抱きしめ返したイヴァンと手を繋いで立ち上がろうとすると、身重の私を気遣ってか、その男性は肩を貸して支えになってくれた。言っては悪いが、彼の身長は私よりも低いから、支えとしてはちょうど良い高さに肩がある。
「改めてありがとうございます。おかげさまで本当に助かりました」
「いやいや。子供って予測がつかないもんねえ。力になれてよかったよ。それじゃあ、俺はこれで」
そう言って立ち去ろうとする男性の服の裾を、イヴァンが掴んだ。
「おじさん、行っちゃうの?」
「ん? ……ああ、そうか。まだ君のミッションは終わってなかったね」
再びイヴァンと視線を合わせてくれたその人が私へと視線で伺ったので、私は頷く。
「……本当にごめんなさい。付き合ってやってくれるかしら」
「もちろん。ひとり旅でね。むしろ賑やかでいいよ。ありがたいくらいだ」
にこりと微笑むと、柔和な顔がより柔らかくなる。しかしどことなく違和感を感じるのは、少し勘ぐり過ぎだろうか。彼が「ひとり旅だ」と言った瞬間、なぜか寒い風が吹き抜けたようで腕に鳥肌が立った。とてつもなく大きな感情が刹那的に吹き荒れたような気がする。先程私が息子に感じたのと同じ、誰かを案じる心痛のような。
「それじゃ、目的地はドリンクカウンターだね。レッツゴー!」
明るい声が私の思考を呼び戻す。ハッと気づいたら息子を引き連れ彼は歩み始めていた。時折振り返って私を気遣い、気遣うよう息子に忠告をしながら、一緒にドリンクカウンターでイチゴジュースをいただいた。どうやら東洋のどこかへ向かう飛行船で人気のクルージュースを期間限定で取り扱っているらしい。確かにおいしくて、私は誇らしげにしているイヴァンの頭を撫でながらお礼を伝えた。
一緒に付き合ってくれたお礼に男性の分もそのジュースを買って「一緒に」と誘うと、頷いて一緒に備え付けの簡易の椅子に座ってくれた。黙っているわけにもいかず、私は彼に言葉をかける。
「……失礼だけど、あなたヴィンウェイの人ではないわよね? 観光か何か?」
好奇心に勝てない。まだ少し到着までの時間があることを確認して、私は男性に声をかける。彼はグレーヘアをなでつけるようにして、「いやあ」と苦笑した。
「実は相棒と連絡がつかなくなっちまって。待ってるだけっちゅうわけにもいかんから、いっそこっちから行こうと思ってね」
「あら、そうなの……。心配ね。警察には相談したの?」
「ああ。仲間の一人に警察官がいるから、連絡がないか聞いてみたよ。残念ながら、ないってさ」
「そう。……きっと無事よ。気を強くね」
きっと落ち込んでるのではないかと思って、励ますために言葉を重ねる。何となく会話の意味合いをずらされたような気もしたけれど、きっと考え過ぎだろう。
「ありがとね。気が楽になったよ」
「それなら良かった」
きっと彼は本当に子供が好きなのだろう。私と男性の分もまとめて飲み終わったグラスを返しに行ったイヴァンの後ろ姿を見つめる彼の視線は優しい。ほんの少しでも気が紛れたのなら良かった、と思った。さっき感じた寂寥感はもうすっかり感じなくなっていて、飄々とした雰囲気に戻っている。少しだけ、ほっとした。さっきの感覚は、何だか少しだけ怖かったから。
ふいに、ポーン、とアナウンスを知らせる音が船内に響いた。
――皆様、本日は『ヴィンウェイエアライン』にご搭乗いただき、誠にありがとうございました。当機は間もなくルドンゲン国際空港に到着いたします。お席にお戻りいただき、シートベルトをお締めください。
「おっ。タイムリミットだ。ミッションクリアおめでとう! ママに美味しいジュース飲んでもらえて良かった良かった!」
戻ってきたイヴァンの頭を撫で、その男性が微笑む。やはり子供は好意に敏感なんだろうか。随分なついたイヴァンはその男性の服のすそを握って唇を引き結んだ。
「おじさん、また会える?」
「イヴァンくん……っちゅうたっけ。ヒーローは好きかい?」
「だいすき! ぼく、大きくなったらニンジャジャンみたいなヒーローになるんだ!」
最近ハマっているヒーローの名前を口に出した息子に少し驚いたようにした彼は、小さく笑った。瞳を輝かす息子に、彼は慣れた様子で笑いかける。
「じゃあきっとどこかで会えるさ。おじさんもニンジャジャンのこと大好きなんだ」
「おじさんも!?」
「ああ! でも君もヒーローになるんなら、まずはママを守ってあげよう。守りたいもののそばを離れちゃだめだよ」
「うん!」
まるで本当にヒーローショーのような光景が微笑ましい。もしかしたら、彼は本当にそのような場所で働いてるのかもしれない。そう思っていたら、後ろから遠慮がちにCAの女性が声をかけてきた。
「お客様、申し訳ございません。そろそろお席へ……」
「おっと。すまん、白熱しちまったね。おじさんの席はあっちなんだが、君とママの席はどこだい?」
「あっち!」
「じゃあ逆方向だ。ママをきちんと連れて行ってあげられるね?」
「うん!」
いい返事だ、と男性は笑って私へ会釈する。
「ジュースごちそうさま。楽しかったよ。話し相手になってくれてありがとね」
「こちらこそ。息子に良くしてもらって嬉しかったわ。縁があればまた会いましょう。……あなたとあなたの相棒さんに幸運を祈っているわ」
大きく手を振る息子に合わせてその大きな手を振り返してくれた男性に背を向けて、私は息子に守られるようにして席への道を戻る。私たちを先導する添乗員に連れられて廊下の角を曲がる最後まで、彼は私たちを見守ってくれていた。
***
喉奥まで凍てつかせる外気。昼を塗りつぶす、灰鼠の雲。故郷は故郷で閉鎖的な雰囲気もあったが、ここは空を覆う厚い雲のせいかひどく息苦しく思った。東洋系の顔立ちの、小柄だが体格の良い男性――モクマは周りを見渡す。自らの相棒と同じく金の髪をして背の高い人々が行き交うここでは、やはり自分は異物なのだと強く感じた。恐らくそれも息苦しさの要因の一つだろう。
空港から直通のバスで訪れた首都ルドンゲンの広場では、賑やかなアコーディオンの演奏でストリートパフォーマンスが行われている。大きな商業施設の壁面の大型モニターでは、リニア鉄道のCMが流れていた。人々の交流が盛んな広場を通り抜け、その雑踏に隠れるように路地へと向かう。その隙間で、市民の声が耳にいくつか入ってきた。曰く、「最近、何だか事故多くないか?」「また都合止めかよ」「少し前、何だか銃声のようなものを聞いた気がするの」――と。
「…………」
モクマはただ一目散に目的の場所へと向かった。広場から一本道を外れると、途端にひとけが消える。しばらく道なりに進み、店舗よりも住宅が増えてきた頃。入り組んだ道を進み続けていたら、建物の隙間に突然ぽかりと穴が開いたような場所に辿り着いた。看板に小さく書かれた公園とは名ばかりのその空間に、ポツンと寂しげに電話ボックスが一つ佇んでいる。
おもむろに懐からプリペイド携帯を取り出し、モクマは服の内側へ縫いつけていた小さな紙をちぎりとって、そこへ書き記した穴の空いた連絡先を正確に指先で復元してから画面上に弾いた。ワンコールで切る。するとしばらくして目の前のボックスの中の電話が鳴り響いた。中に入って受話器を取る。
「……来たよ。これで雇ってくれるね?」
電話の向こうへ問いかけると、「クク」と喉の奥の笑い声がした。電話ごしに男の声が続く。
『上出来だ。……ルドンゲン駅に来い。迎えをやる』
何かを経由しているような遠い声はそれだけ言って通話を切った。切断音の鳴る受話器を置いて、モクマは電話ボックスから出る。
ふぅ、と戯れに吐いた息が白く凍った。儚く漂い、消えていく。ふと飛行船で出会った親子のことを思い出した。「幸運を」と祈ってくれた彼女たちにこそ、幸運があればいい。相手を思う気持ちというのは本当に温かいものだ。
「『言わなきゃ伝わらん』か。どの口が言うんだか」
自嘲して、モクマは空を見上げる。相変わらず世界に蓋をしたような厚い雲は白と黒の混ざった色をしていて、モクマと世界を隔てている。その奥にある鮮烈な色を隠していることになぜか苛立つ気持ちを抑えつけた。
大切だからこそ慎重に動かなければ。出来ることは全てする。忍びの力も、俺個人の力も、持てる力を総動員して。後悔はしたくない。捕まえられるときに、この手で直に捕まえなければ。だから、
「…………守らせろ。チェズレイ」
ポツリと呟くその声も、誰にも届かず白く凍って流れていった。