恋に従順、浅ましく 最初は、奇特な人もいるものだと思った。人、と括っていいのかは微妙だが、本人が凡人を自称しているのだから構わないだろう。
「公子殿」
名前を呼ばれて、顔を上げる。跳ねた髪を、耳にかけられる。その感触に、タルタリヤは気恥ずかしさに目を細めた。目尻を撫でられて、頬に手が触れる。戦闘時の荒々しさとは裏腹な仕草に、そわそわと落ち着かない。
好きだと言ったのは鍾離で、それを受け入れたのはタルタリヤである。騙しておいていけしゃあしゃあと言えたものだとも思ったが、結局言い出したら割と人の話を聞かない性分の鍾離に押されて付き合うことになったのだ。あと、これはあまり面と向かって言いたくないのだが、タルタリヤも鍾離のことは嫌いではない。単に、恋とか愛とかそういう目で見たことがなかっただけだ。
北国銀行からの帰りに鍾離と鉢合わせ、食事をした帰りである。珍しく部屋に寄っていかないかと言い出したので、タルタリヤは二つ返事を返した。その道中で、以前晩酌に誘われたことを思い出し、勝手にその類いかと思い込んでいた。
だが、今日はその限りではないらしい。
じっと、鍾離の意識が強くこちらに向いているのが分かる。これが戦闘中だったら良かったのに、なんて無粋な思考は呑み込んだ。せめて無様な真似はするまいと、立ち尽くしたままのタルタリヤに鍾離がまた一歩近付く。
衣擦れの音が、夜半の部屋で妙に響いた。ゆっくりと腰に腕が回されて、体を引き寄せられる。肩口に顔を寄せると、香の匂いが鼻腔に染みた。くらりと、布越しに伝わる人肌の熱、閉じ込められるような力の強さに胸の奥が痺れる。
緩慢に鍾離の背中へと手を回すと、抱きしめる腕が強まった。少し苦しいが、不快ではない。むしろそれを上回る充足感に、妙なことを知ってしまったと途方に暮れる。
ふいにタルタリヤの背に添えられた手が、ぴくりと跳ねた。
「先生?」
鍾離を見上げると、かちりと視線が交わる。その口が一度、開いて閉じた。何かを言いあぐねるような様子に、思わず首を横に傾ける。
「公子殿は、女だったのか」
放られた言葉に、へ、と気の抜けた声がこぼれた。
「気付いてなかったの?」
タルタリヤが瞳を瞬かせて聞き返すと、鍾離は少し気まずげに視線を逸らす。
「すまない」
つい詰るような言い方になってしまったが、確かに鍾離の気持ちも分からなくもない。タルタリヤの制服は動きやすさを重視しているものの、殆ど男性といっても遜色ない格好だ。
執行官としてスネージナヤならば着飾ることも多少はあったが、璃月ではそういう機会にはとんと恵まれていない。大抵の仕事の場で、タルタリヤの正装はこれだけで事足りる。
それに、淑女のように美貌を武器として用いる性格だったらもっと身に気を遣っていただろうが、タルタリヤの本分は闘争だ。髪が翻れば邪魔になると短く整えて、公子の称号を与る際には仕事着にスカートやドレスはちょっと、と注文を入れた。服飾係には随分と残念がっていたのも、記憶に新しい。何せ執行官に女は少ないし、淑女は自分の身に纏うものは頭から爪先までお抱えの職人しか使わないのだから。
「別にいいよ。俺も、あんまり声高い方じゃないし、大っぴらにしてないからね」
珍しくしょげた面持ちでこちらを見つめる鍾離に、念を押すように、本当だよ、と言い添えた。女だからと抱きしめる手が離れない所を見るに、鍾離はタルタリヤが男でも女でも構わなかったのだろう。その事実には、少し胸を撫で下ろす。
ふむ、と一呼吸置いて鍾離が軽く頭を撫でた。この男に何かを見定めるような目をされれば、大抵の者は落ち着かないだろう。タルタリヤも例外ではない。
「今度はどうしたの」
タルタリヤを腕に留め置くのは、腕一本でも十分らしい。一度距離を置くこともできず、手持ち無沙汰にしていると腕が解かれた。
「少し、体に触れてみても構わないか」
唐突なと問いに、タルタリヤは静止する。けれどそれは一瞬だけで、こくりと頷いて了承を返した。
確かにタルタリヤのいる部屋は、鍾離の居室である。いつもの通り誘われるままに訪れて、頭が回っていなかった。そういえば世間では恋人と二人、同じ部屋にいるということは"そういうこと"だと聞いたことがある。あまりに今まで縁がなかったから、すっかり失念していた。
「いいけど、ベッド行かない?」
そろりと部屋の隅に置かれた寝台を指差してみる。さっきから立ち通しだ。触れ合うだけならこれでいいだろうが、その先へ進むならそうはいかないだろう。
「ああ」
鍾離は首肯して、寝台に腰掛ける。上質そうなそれに腰を下ろすと、柔らかさに軽く尻が沈んだ。怯えはないものの、少々居た堪れないと視線を床へと向ける。
「公子殿、腕を貸してくれ」
言われるがままに手を差し出すと、手袋越しに掌を揉むように触れられた。少々戸惑っていると、手首の腱を撫でられ、腕を揉まれる。何だこれ、とは思いつつも、鍾離の好きなようにさせているともう一つの腕もと催促された。
「確かにしなやかだな」
「なんて?」
感心したように息をついて、指先が布越しに肌をなぞる。親指でぐっと皮膚を押し込まれ、ようやっと筋肉を触られているのかと合点がいった。
「戦闘中の公子殿には、気迫による力強さもあった。流麗な体捌きに目がいかなかったのは、俺も耄碌したかもしれんな」
どうやら寝台に誘導したのは尚早だったらしい。そういうことかと納得し、肩の力が抜ける。
「どちらにせよ、研ぎ澄まされた美しい体だ」
タルタリヤの体を検分していた手を放して、鍾離の視線がこちらを見据えた。呆気に取られたようにそれを見つめ返すと、間抜けな赤い顔が石珀越しに映る。
「先生、あのさ。俺のこと抱く?」
おずおずと尋ねてみると、鍾離は僅かに目を見開いた。その袖を掴んで、有無を言わせぬように二人の間を詰める。
「今なら何されてもいいよ。先生の好きにしていいから」
下から覗き込むように見上げた。鍾離が息を詰めるのが分かる。それと同時に、タルタリヤはこれが恋かもしれないとある種の感動すら覚えていた。先ほどの男の目が、まるで店先で骨董品か何かを眺めているかのようだった。とても、恋人に向けるような目じゃない。それでも、だからこそ。タルタリヤの鍛錬の賜物を美しいと言ったのは、世辞でも何でもない鍾離としての評価なのだろう。
「どういう感情の変遷か、聞かせてもらえるか」
こっちは誘惑しているつもりであるのに、穏やかな声で返された。それでも押し返されたりしないということは、真意を測りかねているのだろう。
「ううん、褒められて嬉しかったから?」
口に出して確認するには中々な事実だったが、羞恥心なんて今の内に捨てておいた方がいい。手慰みに鍾離の手を握ろうとすると、手の甲を撫でられて柔く握り返された。
「女らしさは売りにはできないけど、先生初心なのは好き? もしそうだったら、きっと俺可愛いと思うよ」
「愛らしく思わないことはないとは思うが」
鍾離は嬉しいことを言って言葉を切り、タルタリヤの手を持ち上げる。そして手の甲に唇で触れた。思わず指先を強張らせると、微かに吐息が甲を撫でる。
「公子殿の初めての男になれるというのは、中々に惹かれるものがあるな」
「でしょ!」
くすくす笑って、寝台に倒れ込む。握った手の体温が温くて、鍾離を引き寄せてそっと抱きついた。