袂を分かつ音は 夜の帳もすっかり落ちきって、人気のない璃月港には耳を澄ませば波の音があわく鳴る音だけがしていた。そこに人目を忍ぶように、タルタリヤは足早に歩を進める。璃月港の入り口から湾岸を横手に、足は一心にファデュイが借り上げている宿へと向けられていた。
今日は些か手間のかかる案件だった。常ならば借金の取り立てなど、優秀な部下たちで事足りるものである。だが、今回は四方八方に逃げ回り、とうとう上司のタルタリヤも駆り出されることになったのだ。結局顧客をひっ捕まえて"納得"してもらったのは、夕陽が沈んだ頃だった。そこから璃月港に舞い戻ったはいいものの、今からまた銀行に戻る気には流石になれなかった。
ふう、とタルタリヤはため息をつく。せめて戦闘のせの字でもあれば良かったのだが、相手はこちらの姿を見た途端、早々に降参してしまった。囮や情報を錯綜させるのに人手を割いたのか、護衛も一緒に降参するような輩である。大人しく捕まったのに不満そうなタルタリヤの顔は、顧客に無駄な恐怖を与えたことだろう。
消化不良な闘争心をあやしながら、石段に足をかけると階段の先から長い影が下りた。こんな時間に誰だろうと顔を上げると、見知った顔に思わず目を丸くする。
「先生? 久しぶり、こんな夜に珍しいね」
月を覆っていた雲が流れ、煌々と浮かび上がるように鍾離が照らされた。皮肉なくらいに絵になるなあ、とタルタリヤは内心毒づく。本当に、璃月に愛された男である。
「ああ、少々用があってな。宿の方に訪ねたら不在と聞いて、そろそろ帰るかと思っていた」
鍾離の言を聞いて、大袈裟にタルタリヤは柳眉を逆立てた。
「もう、宿まで来るのやめてってこの前言わなかったっけ? 俺嫌だからね、璃月の人に先生のこと連れ回してるだのなんだの言われるの」
ただでさえ、璃月でのファデュイ及びタルタリヤの評判は悪い。勿論それも踏まえての行動だったのだが、余計な尾ひれまで付け加えるつもりは毛頭ないのだ。
「面と向かって言われたのか」
考えたような仕草の後、静かに鍾離が問うてくる。それに首を横に振って、タルタリヤは肩を竦めた。
「そういう訳じゃないよ。でもほら、うちに金を借りに来る人は大体性格も豪胆な人が多いから」
納得したように頷いた鍾離は、想像がついたのか僅かに目尻を緩ませる。そういえば今日も、よりにもよって北国銀行からの借金を踏み倒そうとする手合いだったと思い出した。
「そういえば俺に用だって? また買い物の相談かな」
疲れた記憶は捨て置こうと、鍾離の用事に話を向ける。あまり頓着しない性質なこともあって、北国銀行に預けたままの資金の多くをタルタリヤは持て余していた。最近は仕事が忙しくてめっきり減ったが、丁度送仙儀式の少し後なんて旅人に鍾離の財布呼ばわりされたものである。
それでも書類仕事や戦い甲斐のない取り立てに振り回されるよりは、鍾離の買い物に付き合うことなど可愛いものだ。今度は一体何に興味を惹かれたのだろうと、鍾離の答えを待つ。
一瞬、鍾離は逡巡するように視線を彷徨わせた。物珍しさについ見入ってしまうと、タルタリヤを見つめる鍾離とかちりと視線が交わる。言い出すのを躊躇するほどの物品なのかと少々身構えていると、鍾離はようやっと口を開いた。
「スネージナヤに帰ると聞いたが、本当か?」
ひたと見据える瞳に、こくりと小さく息を呑む。
「……どこで聞いたの」
何から突っ込めばいいものやら、困り果てるしかない。眩暈に眉間を押さえて、鍾離に尋ねてみる。
「何、小耳に挟んだだけだ」
「機密事項がそんな簡単に漏れる訳ないだろ!」
飄々と宣う鍾離に、つい声を大きくしてしまう。鍾離が規格外なのは今更だが、天権のように手広く情報網を広げているという訳でもない。知られてしまったのは仕方のないことだが、今後情報管理の面も見直させなければと、明日やるべきことを一つ脳内のリストに書き加えておいた。
「ということは、本当なんだな。いつ離れる予定だ?」
現実逃避に思考を巡らせていると、鍾離は石珀の瞳を伏せる。
「……あと一月もいないかな」
苦々しげに顔を歪めてタルタリヤが呟くと、浅く息を吐く音がした。
「そうか」
ぽつりと言ったきり、何かに思案するように鍾離が腕を組む。鍾離を形容するには相応しくないかもしれないが、その表情はどこか迷い子を想起させた。
いつまでそうしていたかは分からない。夜は一層深まって、そろそろタルタリヤも休まなければ明日に響く。それでも今の鍾離を置いて帰る気にはなれなかった。
「人が何をしようとも、必ず日は昇る」
不意に転がり落ちたのは、そんな言葉だった。突然どうしたのだと首を傾げると、鍾離の瞳が情に揺れる。
「公子殿は、璃月の人間ではない。日がいずれ昇るように、ここを離れていくのだろうとは思っていたが」
諦観だ。それを感じ取った瞬間、かっと頭の端が熱くなる。
「公子殿、俺はお前のことを」
「先生」
咄嗟に伸ばした手が、鍾離の腕を掴んだ。その顔が驚愕に歪んで、引かれるままに石段を踏むざらついた音が続く。
「それ以上は言わないでよ」
タルタリヤの口から滑り落ちたそれは、どこか懇願に似ていた。前屈みにこちらを見下ろす鍾離に、首を横に振って見せる。
「ねえ。きっと先生のためにも、俺のためにもならないよ。口は災いの元って、どこの言葉だったか知らないけど言うんでしょ?」
見上げた先の瞳には、ありありと煩悶が浮かんでいた。
「お願いだよ、先生」
そろりと掴んでいた手を離す。とうとう顔も見ていられなくて、後退るように顔を伏せた。
あの言葉の先を聞いたら、きっと己の中の何かが揺らいでしまう。そんな恐ろしい予感がタルタリヤの胸中を渦巻いていた。触れ合ったのはほんの一瞬、それも布越しである。それでも指の先がじりじりと痺れるような心地がした。熱とも痛みともつかない妙な感覚は、タルタリヤが掌に爪を立てるほど拳を握りしめても消えてくれない。
「―――分かった」
沈黙の後、鍾離がどんな顔をしていたのかは知らない。目を背けたからだ。次いで降ってきた了承を告げる声に、おずおずとタルタリヤは顔を上げる。その顔には既に迷いは見受けられなかった。
「その代わり、忘れようとはしないでくれ。今日のことも、俺が伝えたかったことも」
言い含められた言葉の傲慢さに、空笑いがこぼれ落ちる。あくまで抱えていけと、そう男は言いたいらしい。
「いいよ、分かった。でも、先生は思ってたより寂しがりだね」
揶揄うように言うと、引き結ばれていた鍾離の口元が綻んだ。その様子に肩の力が抜けて、己もどうしようもないと胸中で呆れる。
「手塩にかけた子を、最近送り出したばかりだからな」
あからさまな比喩に、タルタリヤはやっと心からの笑みを浮かべた。神の感覚では、人との離別も子離れのようなものらしい。
「ええ? 送仙儀式って、先生にとっては娘の結婚式くらいの感覚なの?」
「さあ、どうだかな」
肝心なことは濁されたが、大方タルタリヤの言う通りなのだろう。全く、分かりやすいのか分かりにくいのか読めない人物である。
「でも一人娘……、いや一人息子? だもんね。そりゃ可愛いか」
タルタリヤが言葉を切ると、静けさが場に落ちた。ふと振り返ると、太陽自体は顔を出していないものの水平線が 薄紫がかっている。
「先生のそれは聞いてあげられないけどさ」
意を決して、鍾離の方へと向き直った。どこか熱のこもった視線も、それに手を伸ばさぬように堪えることができる。
「その代わりに、絶対会いに来てあげるから」
タルタリヤが破顔すると、太陽もまだ昇っていないのに鍾離が眩しそうに目を細めた。
「また会おうね」
「ああ、必ず」
その返事に満足し、ゆっくりと頷く。そろそろ璃月港の漁師たちや商人たちも、働きに出る頃合いだ。誰かに見咎められる前に、退散してしまった方がいいだろう。
「じゃあ、お休み。先生」
ひらりと手を振って、鍾離の横をすり抜ける。声に出したのは、挨拶だけだ。その後に続いた、大好きだよという言葉を声に出すことはしなかった。きっと、これから先も、伝えることはないだろう。