恋とはどんなものかしら「邪魔するぞ」
軽く扉を叩いた後に、部屋に声をかけた。既に彼の部下から在室していることは聞いていたから、応答を待たずに扉を開ける。返事はしなかった。だが執務机にもたれ掛かるタルタリヤは、行儀悪く頬杖をついている。虫の居所でも悪いのか、ちらりと鍾離に視線を向けて大きなため息を吐き出した。どうやら何か手紙のような紙面を見ていたらしく、不機嫌の原因はそれかとあたりをつける。
「どうかしたのか、随分と機嫌が悪いようだが」
あまり長引くようならタイミングが悪いのだが、少々様子を見ることにして原因を尋ねた。
「どうもこうもないよ!」
些か覇気のない声を上げ、べたりとタルタリヤは机へと突っ伏してしまう。うーうーと唸る様子は、彼らしからぬ仕草だ。まるで子供のようだと珍しい姿をまじまじと観察していると、じとりとした目が髪の隙間から鍾離を見咎める。
「家族から手紙が届いたんだけどさ、妹が気になる相手がいるって言うんだ!」
タルタリヤがふくれっ面で、紙面を机の上に置いた。その弾みに、視界の端に几帳面そうな文字が映る。聞いてみれば、随分と可愛らしい内容だ。タルタリヤの口から家族の話は時折聞いているが、確か妹―――トーニャといったか―――はその中でも弟と同じように可愛がっていると話していた。
「年頃なのだから、恋の一つや二つくらいよくあることだろう」
一般論として口にすると、更にタルタリヤが眉を吊り上げる。
「大事な妹なんだよ!? そんなどこの馬の骨かも分からないやつなんて、許せるわけないでしょ!」
「じゃあ、そう返してやったらどうだ」
見かねた鍾離がため息混じりに言うと、うっとタルタリヤから喉を詰まらせたような声がした。
「……でも、トーニャは俺に恋のアドバイスをしてくれって」
それは確かに気の毒だ、と端的に思う。だが良い兄としての対面を保つのであれば、妹の恋路を見守る側に回るべきだろう。実際のタルタリヤの感情がどうであれ。
鍾離は机の側に歩み寄って、とんとんとその端を指で叩いた。ゆるゆるとタルタリヤが顔を上げる。心底困り果てている、と聞かずとも顔に書いてあった。
「可愛い妹だからこそ、応援してやりたいとは思わないのか」
「うう……、お、思いたいけどさあ!!!」
タルタリヤは完全にむくれてしまったようで、突っ伏した状態でそっぽを向いてしまう。鍾離としてはどうにか機嫌を直して、こちらの用件を済ませてしまいたかったのだがこれは時間がかかりそうだ。
「公子殿」
つい幼子にするように、片手でタルタリヤの髪を軽く撫でつける。すると、タルタリヤがまたおずおずと鍾離を見上げた。
「ねえ、先生。どうしたらいいと思う? 俺、好きとか恋とか……そういうの分からないよ」
鍾離が子供のような扱いをしたせいか、タルタリヤが吐き出した声は迷い子のように響く。毛先に指を絡めて、髪から手を離すがタルタリヤは何も言わなかった。
「恋のアドバイスって何を言えばいいの?」
常は感情の読み取りにくい深海に似た瞳が、ゆらゆらと水面を波立たせている。鍾離は無意識の内に、こくりと息を呑んでいた。
「好きな相手の気の惹き方、か?」
「ううん、そんな感じ?」
疑問を疑問で返されたが、きっとそれもタルタリヤの中では定かではないのだろう。頼られたのならば思索するのは己の役割かと、腕を組む。ふいに、懐にしまい込んでいた物品の存在を思い出した。
「そうだな、俺なら―――」
そう言って、鍾離は机の上に投げ出されていたタルタリヤの手を掬い上げる。ぱちりと瞳を瞬かせたタルタリヤをそのままに、手の甲に唇を押し付けた。
「えっ、なになになに」
「こうして触れてみるとか」
手を取ったまま、懐から取り出した指輪をそっとタルタリヤの指にはめる。寸分違わず指に収まった瑠璃は、見立て通りタルタリヤの目とよく似ていた。
「待って、先生何それ!」
「指輪だ。贈り物をすることも、恋の駆け引きにはよく聞く話だろう」
少々強引だったろうが、タルタリヤは動揺でそれどころではないらしい。自ずと笑みが浮かび、タルタリヤを一心に見つめる。
「今日は公子殿が生まれた日と聞いた。ささやかだが受け取ってくれ」
指輪に触れるように、タルタリヤの手をそっと撫でた。それにぴくりと指先が震え、タルタリヤは焦ったように口を開く。
「な、なんで先生が知ってるの?」
「旅人から聞いたんだ。まあ、先は越されてしまったようだが」
そう肩を竦める鍾離の視線の先には、執行官の机の上に置かれるには少々華やかな包みがいくつか置かれていた。きっと先の手紙についていた、家族からの贈り物だろう。
「あとは口説き文句か」
タルタリヤが、えっ、と手を振り払おうとするのを、痛まないように押さえ付ける。
「好きだ、公子殿。お前の生―――魂は、俺を惹きつけてやまないんだ」
言葉と共に深海を見つめると、ようやっと状況に追いついたのかタルタリヤの頬が上気した。
「恋なら、お前にそれを与える形で教えてやることができる。それでお前も知るといい。恋とは何か、をな」
呆気に取られていたタルタリヤが、ようやく絞り出したような声を出す。
「……でも指輪って、困るよ。そもそも俺たち付き合ってないよね?」
それは確かにそうだ。ふむ、と鍾離は思案して、一つタルタリヤに提案を投げかける。
「それなら、もし公子殿が恋人になってくれるなら、ひとまずは手合わせに付き合おう」
「えっ」
戸惑っていたタルタリヤの瞳が、一瞬で爛爛と光を帯びた。鍾離はそれを見とめて、静かに息をつく。
「手合わせしてくれるの! なら、なるよ。先生の恋人に!」
意気揚々と宣言したタルタリヤの頭には、きっと鍾離を打ち倒すための方法を考えているのだろう。
「公子殿は本当に、戦いが関わると相変わらずだな」
気が逸ってか、タルタリヤは既に手中に水元素の刃を顕現させている。その指には仄かに瑠璃が輝いているのだが、それを再びタルタリヤが思い出すのは少々先になりそうだ。