纏う香 昼下がりのチ虎岩はこれからが働き盛りというように、忙しなく人が行き交っている。その人の波を縫うように、タルタリヤと鍾離は連れ合って歩いていた。
「はあ、俺もうお腹いっぱい」
タルタリヤはそう言って、肩を竦める。鍾離の薦める店は、値段を気にしなければ基本的に外れはない。珍しく誘い合わせたわけでもないのに昼食前に出くわしたのは、僥倖であったといえよう。
「それは良かった」
鍾離はそっと花が綻ぶように笑う。いつもはあまり表情を変えることの少ない鍾離だが、こうして微笑み一つ取ってみても女のタルタリヤから見て端正だと言って遜色ない。璃月の伝統に精通していて、こんなに見目麗しいとくる。多少金銭感覚に疎いところはあるが、そこは甲斐性の見せ所だろう。
だからこそ、言い寄る男の一つも姿を見せないのがタルタリヤは少々不思議だった。いくら元神だとはいえ、凡人に区別はつくまい。高嶺の花、というやつだろうか。道の脇で足を止め、まじまじと女の顔を見つめる。鍾離はタルタリヤの視線に、怪訝そうに顔を歪めた。
「やっぱり、先生の顔って美人になるように作ったの?」
「……特にそういう意図はないが」
ふむ、と鍾離の頭から、爪先へと視線を滑らせる。均整の取れたプロポーションに、小作りの頭がちょこんと乗っている。
「私をそんなに見ても、面白いところは何もないと思うが」
憮然と言う鍾離に、へらりと笑って返した。
「いやあ、先生の美の秘密でも探ってみようかと思って」
タルタリヤが半ば冗談交じりに言うと、鍾離は首を横に傾けた。
「公子殿は、そういうものに興味はないのかと思っていた」
「まあ着飾るのが苦手なだけで、嫌いなわけじゃないからね」
感心したように首肯する鍾離に目を細めていると、ふとふわりと優しげな香りが鼻を掠める。
「ほら、先生いい匂いもするでしょ。そういうところ気を遣ってるところがいいなって」
鼻孔をくすぐったのは仄かな匂いだ。イメージで言うなら華やかだが、それでいて甘すぎない。香水の類いであればふっと淑女の顔が浮かぶが、立ち止まってやっと気付いたくらいである。そこまで主張があるわけではない。
「何の匂い?」
「香膏というんだ。匂いのついた軟膏、と言ったら分かりやすいか」
ふんと相槌を打つと、徐に鍾離が手首をそっと眼前に差し出した。逡巡の後、恐る恐る白い腕に顔を寄せてみる。淡く香っていただけのそれが、一層強くなった。
「こうやって肌に塗って使うんだ。興味があるなら、私の家にまだ使っていないものがある。見てみるか?」
「えっ」
唐突な申し出に、タルタリヤは思わず顔を上げる。見つめた先の鍾離からは、深い意図は読み取れない。
「でも血の臭いとかだったらともかく、俺はそういうのはあんまり似合わないから……」
そう言って頭(かぶり)を横に振ると、麗人が眉尻を僅かに下げる。
「そんなことはない」
断定するような口調で反論され、返す言葉を見失った。だがこちらの返答を気にしていないのか、更に鍾離は続けた。
「とやかく言う輩がいたら、私が勧めたと言えばいい」
「とやかくって……。そもそも執行官相手に、香膏でどうこう言ってくる相手なんて早々いないよ」
「なら、尚更気にする必要などないだろう。それに」
何気なく伸ばされた手で、風で頬に張り付いた髪をそっと耳にかけられる。急に詰められた距離に身を固くすると、鍾離の口元が笑みを象った。
「きっと似合う。私もお前が気に入るものがあれば贈りたい。駄目か?」
「そんな顔しないでよ」
はあとため息をつくと、石珀の瞳がタルタリヤを射抜く。午後から差し迫った仕事は確かなかったはずだ。少しの沈黙が流れ、そしてお手上げとばかりにタルタリヤが両手を軽く上げる。
「分かった、先生についていく。でも思ってたのと違っても、後から文句言わないでよね」
きっとタルタリヤが断ったとして、鍾離に引く気はなかっただろう。往来の中で下手に言い争いをして、人目を集めても困る。ただでさえ璃月では少々肩身の狭い思いをしているのだ、これ以上注目されるつもりはない。
そうか、と鍾離が目元を緩める。思いの外喜色ばんだ顔をするものだから、つい呆気に取られてしまった。先導して歩き出した鍾離が、動かないタルタリヤを見て首を傾げる。はっとして、それに応じるために慌てて足を踏み出した。
*
敷居を跨いだ瞬間、ふわりと鼻先を掠めたのは香だろうか。
「お邪魔しまーす……」
取り立てでもないのに人の部屋に入るなんて久しぶりである。それも、きちんと招かれてのことなら猶更だ。
「そこで少し待っていてくれ」
鍾離が指したのは、来客用だろう長椅子である。奥へ消えていく鍾離を見送って、そこに腰を下ろした。好奇心に従って、タルタリヤはきょろりと部屋を見回した。上等な調度品や、雑多に飾られている骨董やら鉱石やらは予想通り。だが、思っていたよりも散らかっているな、というのが率直な感想だ。
部屋を彩る装飾の類いは、女性的なデザインのものが多い。それでも置かれている物の多さが、部屋全体に雑然とした印象を与えている気がした。神様でも片付けは苦手なのか、と失礼な感想が浮かぶ。
一通り視線で物色して、背凭れに身を預けた。ぷらりと手持ち無沙汰に足を遊ばせると、奥から鍾離が顔を覗かせる。
「待たせたな」
鍾離はそう言って、抱えていた陶器を卓上に広げた。そして窓の方へと歩み寄り、窓を開ける。風が吹き込んで、鍾離の髪が揺れた。
清涼な風は煩わしさを覚えるほどの強さではなく、部屋の空気を浚っていく。香を焚いていたのにいいのか、と首を横に傾けると僅かに鍾離が口元を緩めた。
「あぁ、確かにそう安価なものではないが、香膏の匂いを確かめるには邪魔だろう」
「なるほどね」
タルタリヤは納得して、興味を眼下に移す。卓上に広げられた陶器は、そう大きなものではなくそのどれしもにしっかりと蓋がされていた。
「これが瑠璃百合を元にしたもの、これはセシリアの花の香りのもの……、こちらは霓裳花だな」
順々に説明をされても、元から花には興味がないからかあまりぴんと来ない。そんなタルタリヤの様子を見て取ったのか、鍾離がその一つを手に取った。
「どうやって試すの? 俺、こういうの使ったことなくって」
未知のものに沸き立つ気持ちを抑えきれず、鍾離の手元を覗き込む。
「なら、先に手順だけ教えておこう」
鍾離はそう言って、持っていたものを置き直し、香膏を脇に避ける。そしておもむろにタルタリヤの手を取った。
「一般的に付けるのは、体温の高い場所、と言われている」
タルタリヤは少し驚いたものの、教えを乞うてる身なのだからと手を振り払うことはしなかった。すると鍾離の指が掌から手首を伝い、白い肌に薄く透けた血管をそっと撫ぜる。その感触に、触れられていない手の指先がじわりと痺れるような感覚が伝う。
「主に、手首―――」
一度言葉を切った鍾離の手が、更にこちらに伸ばされた。思わず身を固くするが、鍾離は指の背で軽くタルタリヤの顔の輪郭をなぞり、首に触れる。
思わずその手を咄嗟に掴んだ。触れた皮膚は少し固いものの、それでも岩神と呼ばれる女のものとは思えない。首は人体の急所だ。例え鍾離に敵意がなかったとはいえ、そう易々と触られ続けては職業柄いい気はしない。
「他には首、うなじもか。毛先に少し付けるのも悪くない」
タルタリヤの静止に、鍾離は僅かに目を細めるだけで言葉を続ける。
「まあ、あまり格式ばったものじゃないからな。量さえ間違わなければいい。手紙に少し塗っておく、という使い方もあるからな」
なんてことのないように、鍾離は手を引いた。再び香膏をタルタリヤに選ばせるため並べ直す姿に、思わず眉尻を上げる。
「ねえ先生。説明してくれるのは嬉しいんだけど、俺のこと触る必要あった?」
身を乗り出していた鍾離が、姿勢を正して一つ笑った。
「なかったな」
「だよねえ?」
不要な羞恥を煽られたと、少し熱のこもった息を吐く。
「一つずつ試していっても構わないが」
鍾離はそう言って、先ほど手に取った香膏を一つ手に取った。
「私のおすすめはこれだな」
差し出されたそれは、他のものとはさして違いは見当たらない。恐る恐る陶器の蓋を開けてみると、ふわりと花に似た香りが鼻先を掠める。どこか覚えのある匂いだと鼻を近付けてみると、一層それが濃くなった。そして、はたと気付いて顔を上げる。
「これ、先生と同じ匂い?」
「ああ、そうだな」
ある程度タルタリヤの問いかけを予想していたのか、鍾離は鷹揚に頷いた。その様子に、思わず頬が引きつったような笑みがタルタリヤの顔に浮かぶ。
「先生も大概―――」
そこまで口にして、ふっと口を噤んだ。
「大概?」
言葉尻を拾い上げて、聞き返す。うっそりと笑う鍾離には、きっと分かっているのだろう。ならば、わざわざ口にしてやる道理はない。何度見ても、鍾離の時折見せるあえかな微笑は麗しいことこの上ないが、今は含みしか感じられなかった。
「何でもないよ。でも、最初からお揃いを付けたいって言ってくれればよかったのに」
きゅっと蓋を締めて、香膏を他のものと並ぶように卓上へと置く。タルタリヤの言葉に鍾離は微かに瞠目した。長い睫毛がしゃなりと幻聴を呼び起こす。その奥の瞳はタルタリヤの手を注視していて、やや経ってから鍾離は口を開いた。
「断られるかと思っていた」
ぽつねんと呟かれたそれに、今度はタルタリヤが瞳を瞬かせる。
「断らないよ。でも、外堀を埋めてくるようなやり方はやめて欲しいけど」
ひらひらと手を振ると、ふいと鍾離の視線がどこかに飛んでいった。
「なんのことだろうか」
嘘を付くのが下手にも見えるが、きっと隠す気がないのだろう。鍾離が真実を隠す時は、余計なことは言わないものだ。それをタルタリヤはよく知っている。
タルタリヤは自身の手首に目を落とし、鍾離の触れた場所をなぞるように、はたまた振り払うように撫でた。
「しらばっくれても駄目だよ。それに、仕事の契約相手、もしくは友人にはあんな触れ方しないもん」
「そうか」
これまた白々しく、感心したように鍾離は頷く。勉強になった、とその口が言うのか。
先ほど呑み込んだ言葉が、もぞもぞと喉の奥で蠢いている。先生も大概俺が好きだね、なんて口にしてしまえばきっと戻れない。そんな予感がしていた。
「それで、どの香膏にする?」
疑問の体を取ってはいるが、鍾離の視線の先に結ばれているのは一つだけである。選ばせる気ないな、と並ぶ香膏の中の一つを手に取った。抵抗しなかったのもタルタリヤだったが、それは気付かないふりをする。
すると、鍾離の瞳が一瞬輝いたように見え、その顔が笑みを象った。
「これにするよ。先生のいないところで付けてあげる」
意趣返しのつもりでそう言って、陶器を差し出されるままに受け取る。
「それは残念だ」
ちっとも残念だと思っていないような顔で、鍾離はくすくすと楽しそうに笑った。