何が恐ろしいってその温かさが その日、どうして恵の家にいたのかはあんまり覚えてない。稽古に引っ張っていくためだったのか、それとも津美紀不在で宿題をしている恵の留守番に付き合っていたのか、年月が経った今ではそんな記憶すら定かではなかった。ただ、その日はいい感じの秋晴れで、暑くもなく寒くもなく、丁度昼寝なんかにはいい具合だったのだろう。ちょっかいを出す僕を総スカンして黙々と宿題に取り組んでいたはずである恵の、子供らしく体に対して大きな頭がゆらりと傾き始める。そして、かくんとずり落ちた衝撃で恵は鉛筆を握り直した。だがまたこっくりこっくりと船をこぎ始める。それを何度か繰り返して、とうとう宿題のプリントにぺたりと額をくっつけてしまった。
僕は確か板チョコでもばりばりやりながら、そんな恵を眺めていたはずである。どういう風の吹き回しだったか、ふと僕は恵のプリントを引っ張り出してやろうと思ったのだ。自分で言うのもなんだが、恐らく単純な親切心とかではなかっただろう。プリントが涎か何かでぐしゃぐしゃになったら恵に当たられそうだったから、とかそんな気ままな理由に違いない。寝入ったからか重みを増した恵の頭を持ち上げて、プリントを無事に救出する。
その時、ふと恵の手に目がいった。子供特有の、肉付きのいい丸みを帯びた手。自分の手はもう随分と細長く伸びて、節が目立つ所謂大人の手になっている。柔らかさだって全然ない。好奇心に導かれるまま、柔らかい肉を軽くつまんでみる。宿題を救ってやったのだから、と手前勝手な言い訳もセットだ。むにり、という擬音がぴったりな感触が指先から伝わってくる。癖になりそうだと僕がふにふに指を揉んでいると、むにゃむにゃと恵が寝言か何かをぼやいた。それに気を取られていると、ふいに指が柔らかくて温かいものに包まれる。
驚いて反射的に手を引こうとすると、それがぎゅうっと僕の人差し指を握りしめた。むにむにと触られるのが嫌だったのか、それとも何か掴むものが欲しかったのかは分からないが、小さな握り拳で僕の指を握った恵は満足したのかまた寝息を立て始める。チョコを頬張るもう片方の手は自然と止まっていて、意識が人差し指に集中していくのが分かった。穏やかに眠る顔、あんまり見たことはないがまるで赤ん坊のように指を捕まえている仕草に、心臓の奥がきゅうっと締め付けられるような妙な違和感が襲う。
その後の僕ときたら本当におかしなもので、まるで自分が何かの病気にでもなったんじゃないかと錯覚し、硝子に慌てて電話をかけたのだ。勿論恵を起こさないように片手で器用に電話をかけ、囁きのような声しか出せなかったものだから何度も硝子に聞き返されたものである。 最初は真剣に話を聞いてくれていたし硝子も、事の次第が分かった途端にもう切ってもいいかと冷たい声で返された。今となってはその態度も然もありなんといったところだが、当時の僕にとっては自分の体に関わる大事な話のつもりだったのだ。煙草を吸い始める硝子に尚も食い下がると、本当に嫌そうな声色であいつは告げる。
「それってあれだろ、恋とか好きとかそういうやつ。私の専門外だからもう聞くんじゃないぞ」
ぶつっ。それだけ言って、無情にも電話は切られた。後には顔を歪めて呆然とする僕が残るばかり。そうしてようやく理解したのだ。僕は恐らく、自分が引き取った恵を好きになってしまったのである。あと多分、ちょっと、ショタコンかもしれない。