凄惨なエトランゼ3「ん、今気が付いたの?」
へらりと相貌を崩した様子は、確かに往生堂で時折見かける鍾離が「公子殿」と呼ぶその人だった。璃月に滞在している執行官、そして鍾離が呼びかけた公子という呼称。背筋をたらりと汗が伝う。自身の不運を嘆くことより、気付かなかった己に嫌気が刺す。男の気安さと年若さからすっかり失念していたのだ、よもや執行官を目の敵にしていたとは本当に笑えない。
「先生も公子って呼んでるし、とっくに気が付いてたと思ったよ。もしかして俺ってそんなに有名じゃなかったかな」
ううん、と首を捻った様子は年の若さも相まって、益々公子とのイメージを乖離させる。だが、瞼には先程の凄惨な光景が焼き付いていた。機嫌を損ねてはいけない。先の光景で倒れていたのは、一歩間違えば自分かもしれなかった。今も、神の目を持つ彼の前では掌の上のようなものである。冷静になろうと小さく息を吐いた。
「……鍾離様が、そんな方とお知り合いだなんて予想もしておりませんでしたので」
だが、意思に反して吐き出されたのは皮肉である。ぴくりと公子の眉が動く―――、がその目はこちらを睨むことはなく、ただ興味深そうに細められた。
「言うねえ。でも覚えておくといいよ。善人の友達は善人、って世の中そんなに上手く出来ていないんだ」
公子は小さく笑って、倒れている男を一瞬見やる。
「君も、あっち側に回りたくはないだろ?」
ぞわり、と全身に鳥肌が立った。思わず視線を足元に落とす。早く、早くここを離れろ、と本能が警鐘をかき鳴らした。無意識に後退る足が、小石に転がす音さえ妙に耳に響く。
からからと渇いた喉を潤そうと、なけなしの唾を呑み込んだ。
「助けてくれたのは、ありがとうございます。でも」
これ以上目の前の相手の反感を買うことは得策ではない。それは分かっているのだが、これだけは言わずにはいられなかった。震える足を抑え込んで、肺から声を絞り出す。
「あの方に、もう近付かないで下さい!」
それだけを叫んで、くるりと公子に背を向けて走り出した。
残されたのは、きょとんと女の後ろ姿を見送る公子ばかりだ。
「えぇ……。俺からしたらあの人の方が、俺よりよっぽど性質が悪いと思うけどなあ」
公子は困り果てたように、ため息混じりに頭をかく。そういえば元顧客を放置していたんだったと、雑に男たちを担ぎ上げた。その場に撒き散らされた血は、水で洗い流しておく。
「まあ恋は盲目って言うしね」
確かに往生堂所属、ということを除けば市井の目から見ても、鍾離は中々良物件なのかもしれない。そんなことをぼやぼやと考えていると、血の薄く混じった水が、石畳の隙間に流れていく。
「それに、俺も恋敵にわざわざ情報を教えるつもりもないし」
言外に女よりは鍾離のことを知っているのだ、と言い捨てる。にまりと笑って夜道を歩き出した。機嫌は悪くない。後は起きた男たちから命と引き換えに金を回収すれば、仕事も終了だ。
「今度先生に会ったら、自分に祈られるのどう思うのか聞いてみよっと」
足取り軽く、公子が建物の陰に消える。その独り言を知るのは、月くらいしかいなかった。