不運だったと泣けばいい 独特の香が、鼻に纏わりつく。ここに来るのも少々久しぶりになると、息をついた。
あの日、公子から逃げ出した私は何事もなく家に帰り着いた。家族にはこっ酷く叱られ、その上服に跳ねていたらしい血を見咎められて数日家で反省するようにと謹慎を言い渡されていたのである。
流石にもう夜間に一人で外出することはしないと決めた。命の危機はもう当分御免だ。けれど、往生堂へ来ることは別である。太陽は高く、今は昼を少し過ぎた頃合いだ。
結局口実にしていた用事は、他の者が済ませてしまっている。それでもここに来たのは、件の公子のことが気にかかるのと鍾離にせめてこちらの気持ちを知って欲しかったからだ。何用と問われれば、あなたに会いたいから来た、と正面切って伝えるつもりである。どう転ぼうと、それは進展には違いない。想いを打ち明ける恐れはあるものの、部屋で反省する日々の中で覚悟ならとうに決めた。
小さく深呼吸をして、一応と持ってきた手土産の包みを持つ手に力が入る。往生堂の戸に手をかけて、一歩踏み出した。
「失礼します、鍾離様はいらっしゃいますか」
中に入ると、渡し守の女性が書面から顔を上げる。不躾にならぬよう室内を見回すが、彼女以外の姿は見当たらなかった。
「今、執務室にはおられますが……お約束でしょうか?」
ちらりと、渡し守が廊下の奥へと視線をやり、こちらに向き直る。
「すみません、約束があったわけではないのですが」
「そうですか。先客がいらっしゃいますので、お伺いだけ立てて参りますね」
私の言葉を受けて、おずおずとした様子で渡し守が立ち上がった。なんとなく妙な予感がして、それを呼び止めるように声をかける。
「もしかして、先客とはファデュイの執行官の方ですか?」
思い付きのまま口にすると、一瞬渡し守が足を止めた。困ったような表情で、ゆっくりと首を横に振られる。
「……申し訳ありませんが、私もそこまでは」
平坦な声色だったが、女の勘というべきなのか予想が当たったことを悟った。
「その方は、お仕事でいらっしゃってるわけではないのですよね」
「はい、そうですが―――」
逡巡するような態度に、くらりと眩暈に似た錯覚を起こす。
「なら、私から言っておきます。通していただいてもよろしいでしょうか?」
無作法だと分かっていながら、それでも止められなかった。少しの沈黙の後、渡し守が道を開ける。すみません、と断って、記憶にある通りに廊下を辿った。彼女は何も言っていないのに、まるで自分があの公子と鍾離の邪魔であるかのように思ってしまったのである。否、約束のない来訪からして半分真実なのだが、それでもやりきれなかった。もし鍾離が迷惑しているのならば、物申すのもいいだろう。脳裏を過るのは先日の惨状だったが、流石に昼間に事を起こさないだろうと半ば怒りに似た衝動が気を大きくしていた。
確か鍾離の執務室はここだったかと、目当ての部屋に視線を向ける。ふと、戸が僅かに開いているのが見え、微かに話し声が漏れ聞こえた。無意識に息を詰め、足音を立てぬように忍び寄る。
早く戸を叩いて、入室の許可を得ればいい。理性はそう言っているものの、好奇心が首をもたげて隙間にそっと顔を寄せてしまう。もし公子が鍾離に何か失敬なことをしているなら、離れさせる口実にしたいという打算もあった。だが自分の行為を棚に上げている自覚から、静かに戸に手をかける。
まず耳に入ったのは、軽薄そうな声だった。
「ねえ、先生」
公子の声だ。引き付けられるように気配を殺し、戸の向こうを注視する。どうやら机を挟んだ長椅子にそれぞれ腰かけているようで、外からは鍾離の背中と公子の顔が窺えた。
「どうかしたか」
机上に視線を落としていたのか、鍾離が公子の方を見る。公子は子供のような仕草で口を尖らせて、机を指先でとん、と鳴らした。
「そんなにそれ、面白かった?」
言葉だけ取ればただの問いかけだと疑わなかっただろう。だが、どこか違和感がさざ波のように心中を揺らす。
「―――確かに興味深いものだったが」
鍾離が言葉を切ると、ふうんと公子が相槌を打って目を細めた。
「公子殿を放っておくほどではなかったな」
続いて聞こえたそれに、ぐらりと頭を殴られたような衝撃を受ける。ふつふつと煮えていた衝動に、冷や水を被せられたようだ。友人の内の一人。そんな相手にかけるにしては、あまりに柔らかな声色だった。
「そう? じゃあ、もうそっちはいいからさ」
ぐっと公子が机から身を乗り出す。長椅子の軋む微かな音が、いやに耳についた。
「俺のことも構ってよ、せん」
先生、と呼びかけたのだろう公子の声が、ぷつりと途切れる。指先が震え、心臓が早鐘を打った。これ以上見ていたくはないと全身が叫んでいるのに、硬直したようにその場から動けない。
机を挟んだ二人の距離を詰めたのは、鍾離だった。腕を伸ばして、公子の肩を引き寄せて、頭部が重なる。こちらからは、鍾離の後頭部しか見えなかった。
呆然とした意識に、かすれた声が滑り込む。その瞬間、これ以上聞いていては、この場にいてはいけないと弾かれるように戸から離れた。ぱたり、とその勢いで頬から何かが落ちた。擦らぬように拭うと、指の先が濡れている。
つんとした痛みが鼻を刺した。それを自覚すると同時に、堰を切ったように涙がこぼれ落ちてきて視界を歪ませる。鼻を啜る音すら聞き咎められるのが怖くて、後退るように部屋の前から逃げ出した。
どうしてという疑問と、空回っていた羞恥と、金切り声を上げる子供のような悲しみ。あの光景が脳裏に張り付いたように離れなくて、形容し難い感情が涙を押し出していく。
ああ、きっと正しく邪魔者だったのだ。この思慕を鍾離が知ってくれれば、拾い上げてくれるかもしれないなんてどうして思ってしまったのだろう。部屋から離れて、もうあの甘い声も聞こえない。ぐずりと鼻を啜る。こんな姿、鍾離は勿論誰にも見せられない。酷い顔をしている自覚があった。
ぎりぎりと心を苛むのは、妬み、嫉妬、あの男が憎らしい。それでも好きであることを未だ投げだせない、自分も憎くて堪らなかった。
*
唇を離すと、銀糸が次いでぷつりと切れる。ふっと、タルタリヤは呼吸を落ち着けるように息を吐いた。
「先生って、酷い人だね」
開口一番、詰る言葉を投げつけると鍾離は心外そうに顔を顰めて見せる。部屋の外、戸の向こうへと視線を投げた。人の気配は、少し前から失せている。
「叶えてやれない恋心を、持たせたままにするのも悪いだろう」
申し訳ないという口振りだが、内情はどうだろうか。タルタリヤは時折、鍾離が鏡染みて見える時がある。実際に感情を発露しているのではなく、発露しているように見せて振る舞っているんじゃないか、と。
「それに、酷いというなら公子殿もだ」
呆れたように鍾離は手元の骨董を、箱に仕舞い始める。先程まで鍾離が熱心に眺めていたもの、タルタリヤが鍾離が好みそうだと持ち込んだものだ。
「覗かれていると分かった途端、声をかけてきただろう」
「うん、そうだね」
言い訳するつもりもない。すぐに肯定してやると、渋面を返された。
元々、分かりやすいタイプの少女だったのだ。何度かちょっかいをかけてやれば顕著に反発し、その癖鍾離には惚けたような目を向ける。あの日夜道で見かけたことは偶然だったが、まさか自分がいると知っても鍾離に会いに来るとは思わなかった。つい面白くなって、悪戯心が出てしまった。
「でも、恨まれちゃったかな」
タルタリヤが肩を竦めると、自業自得だろうと視線が訴えてくる。それを黙殺して、鍾離に艶然と笑って見せた。
「恋する乙女って怖いからね、うっかり刺されたら先生が責任取ってよ」
「公子殿に限って、それはないだろう」
鍾離は表情も変えず、ばっさりと切り捨てる。有り得なくはないだろう、とじとりと鍾離を見つめると、ふっとその口元が緩んだ。
「勿論、自ら刺されに行くというなら話は別だが」
確かに、自分が刺されたとなればそれなりに大事になるだろう。
けれど、きっとどんな騒動であれ―――例えタルタリヤが本当に刺されたとしても―――、この身には愉快なことの一つになるだろう。そんな渦中に放り込まれるなんて、あの少女にとっては災難でしかない。
「はは、違いないね」
恋とは、哀れなことだなあと他人事のようにタルタリヤは笑い飛ばした。