新世界にも朝は来る ぽん、と小気味よい音が鳴る。スマートフォンに視線を向けると、視界の端で通知が来ているのが映った。洗面台の蛇口に手を伸ばして、歯ブラシの泡を洗い流す。手早く口を濯いで、それからスマートフォンを手に取った。時刻は二十二時過ぎくらいで、連絡が来るにしてもそう遅い時間ではない。クラスメイトの誰かだろうとあたりをつけて、ロックを外すと百々人は少し目を見開いた。
「……マユミくんだ」
意外な相手に、思わず声が漏れる。それにユニットのグループトークではなく、わざわざ個人の方にメッセージというのも珍しい。百々人の記憶が正しければ眉見とのトーク欄には、最初に連絡先を交換した時くらいしかやり取りをした覚えがなかった。連絡事項は大概プロデューサーもいる、C.FIRSTのグループに報告している。何か用事なんてあっただろうか、と自室に向かいつつトーク画面を開いた。
『夜遅くにすまない。百々人から見て、今日のイベントはどうだった?』
廊下の半ばで、つい足を止める。晒したままの足の裏から、フローリングのいやに冷えた感触が伝わった。真っ先に百々人の頭に浮かんだことは、何か失敗があっただろうかという懸念である。
『ごめん、何か僕変なことしちゃったかな。』
急いで打ち込んだ文章を送ると、心臓がばくばくと脈を打ち始めた。廊下に立ち尽くしたままトーク画面をじっと見つめていると、程なくして百々人のメッセージに既読の文字が浮かぶ。
『違うんだ。ただ純粋にお前の感想を聞きたかったんだが、誤解させたならすまん。』
『百々人は子供たちによく懐かれていたようだし、お前の描いた絵は特に好評だった。』
続くメッセージに、肩の力がすとんと抜ける。はあ、と大きくため息をついて、安堵した。てっきり皆の前では言えないからと、個人的に送られてきたのかと緊張してしまった。
『ごめん、僕も早とちりしちゃった。そう言ってくれてありがとう。』
こちらの動揺を誤魔化すように、よく使うひよこのスタンプを添える。そして足早に自室の扉を開いた。電気を点けて、ベッドに腰を下ろす。再びスマホの画面を開いて、イベントの感想か、と今日の記憶を思い出した。
『昼間も言ったけど、お仕事なのにすごい楽しかったよ。こういう企画をするのも、生徒会行事とはまた違った感じがして面白かったし。』
思ったままを送信すると、またすぐに既読がつく。そつない感想だが、勿論取り繕ったわけではなかった。
『そうか。それなら良かった。俺も良い経験になった。』
単純にそれを言いたかっただけなのだろうか、と指先で文字を手繰る。百々人の思っていたよりも筆まめなのかもしれない、とまた一つ眉見への認識を改めた。
明日のことを考えるなら、互いにもう寝たほうがいいだろう。会話も丁度区切りがいい。就寝の挨拶を送ろうと画面をなぞると、また吹き出しが跳ねた。
『百々人の高校の生徒会では、どんな風にいつも話し合っているんだ?』
投げ寄越された話題に、慌てておやすみの文字を消す。ううん、と思考を回して返信を打ち込んで、また少しして返信がくる。レッスンの内容とか、学校について、とか。眉見から振られる話題に百々人が返し、一頻り話が盛り上がって区切りがつくと、また眉見に話題を投げ掛けられた。
最初は暇を持て余しているのかとも思ったが、それが何度も続けば流石に付き合いの短い百々人でも眉見が何を考えているのかくらい分かる。明日も学校があるのは変わらないし、放課後も生徒会の仕事やレッスンがある。正直百々人は、あとは寝るだけだ。会話の途切れたタイミングに差し込むようにして、『あのさ。』と短くメッセージを送る。
『何か言いたいことがあるなら、通話する?』
打ち込んだ言葉を逡巡してしまう前に、素早く送信した。秒針の音が、いやに響く。一分、二分と液晶の中の数字が進むたび、トーク一覧の通知から目が離せない。
「もう寝たかなぁ」
差し込んだ短いメッセージに既読が付いてたかどうかすら、確認する気が起きなかった。一つため息をついて、スマートフォンを枕の上に放り投げる。ベッドに乗り上げて、電気を消そうとリモコンに手を伸ばした。
その瞬間、バイブレーションがけたたましい音が背後から叫ぶ。リモコンを取り落としかけ、慌てて床に落ちる前に捕まえた。ほっと息をついたが、すぐに止まないバイブレーションの方を振り返る。
眉見鋭心、と表示された画面に息を呑んだ。イヤホンを引っ張り出して、少々乱暴に端子に押し込んで通話を取る。
「も、もしもし」
ばくばくと妙に鼓動の速い心臓を抑え込んで、恐る恐る声をかけた。
「ああ、突然すまん」
当然のように返されたそれに、何故か本当に眉見の声だと妙な感心をしてしまう。
「タイミング悪かったか」
慮るような声色に、ううん大丈夫と首を横に振る。だが向こうからは見えていないのだと気付き、少し気恥ずかしくなった。変に緊張していて、そういえば友達とはこんな風に話すことは早々なかったと思い立つ。わざわざ夜に電話をかけなくったって、次の日に話せばいいのだから当然だ。
「そうか。少し聞きたいことがあったんだが、どう切り出したものかと迷っていたんだ」
それで矢継ぎ早に話題を振ってきたのか、と少し納得する。
「そうだったんだ。マユミくんでもそういうことってあるんだね。そんなに聞きにくいことだった?」
ああ、と百々人の言葉を肯定する声は、歯切れが悪い。百々人の思考が嫌な方向へと傾きかける前に、浅いため息とともに眉見が口を開いた。
「結局、あのトロフィーは捨てたのか。それが気になっていた」
息が詰まるような心地だった。それを何とか飲み下して、静かに呼吸を繰り返す。違和感のないように、間を開けずに言葉を返す。
「ううん、捨ててないよ」
わざわざ棚に並べるほどの手間はかけていないが、あの時の百々人はトロフィーのことなどすっかり忘れてしまっていた。そのまま持ち帰ってしまい、捨てる機会を無くしたままリビングの片隅に鎮座していたはずである。
「なら、いいんだ」
どこか安堵したような、満足げにも聞こえる眉見の声。何がいいの、と口にしかけて止めた。いいことなんて何もないことを、百々人は知っている。見て欲しい相手はもういないから、賞にはもう出るつもりはない。それでも家に並ぶ鈍色のトロフィーたちは、百々人が無価値であることの証左であった。
「いつか、なんて不確かな言葉は使いたくはないが」
眉見の言葉は百々人の痛いところを抉り出していくのとは裏腹に、錯覚かもしれないが声色だけは妙に柔らかい。
「お前が捨てたくないと思うような、そんなトロフィーに出会う」
イヤホン越しに響く、まるで予言みたいな言い方に思わず目を瞠る。
「僕が? そんなわけないよ」
殆ど無意識にこぼれ落ちた否定に、いや、と眉見が返した。
「絶対だ。俺たちがC.FIRSTとして活動していくなら、必ず」
ぱちっ、と星が弾ける。瞬きの間にそれは消え、錯覚だったのかも分からない。荒唐無稽な言葉だと思った。確かに天峰と眉見の才能は、輝かんばかりである。でも、自分は違う。プロデューサーは信じてくれているものの、自分と二人の才能が同等であるはずがない。
たまらずスマートフォンを取り落とし、それが枕に落ちる。ベッドに座り込んでいた百々人の前に、だらりとイヤホンのコードが垂れ下がっていた。
「どうしてそんなこと言えるの」
僕の、何を知ってるの。震えた言葉は、電波で繋がる先まで届いてしまっただろうか。
「俺たちが同じユニットの、仲間だからだ」
確固たる声が、心を揺らす。思わず、顔を上げて百々人の髪が跳ねた。
「百々人。お前とはまだ知り合ったばかりだ、お前のことは殆ど知らない。だがお前にも、何か事情があることくらいは分かる」
淡々と紡がれる眉見の言葉は、いつも通りだ。でも、自分だってまだ何も知らない相手なのに、その声色にわずかの熱量を感じてしまう。そんな錯覚をしてもいいのだろうか。
「何も聞かないし、話したくなければ話さなくていい。勿論、話してくれるならいくらでも聞く」
「だが、これだけは言っておく。もしお前が大事にできるトロフィーを得た時、あの日トロフィーを捨てていればきっとお前は後でそれを後悔することになる」
百々人は目を閉じて、まだ見もしないトロフィーのことを考えてみる。それを手にした時、自分は何を思うのだろう。今までのトロフィーをもらった時の感情が、流れ星みたいに心中へと重く振り落ちた。
「大事にしろとは言わない。それでも捨てるようなことはするな」
心臓の、奥。体のどこの部位かも分からないところが、むずむずと妙に疼く。次第に大きくなるその衝動が、形を伴って喉からせり上がってくる。それに耐え切れず、逃れるように浅く息を吸った。
「ねえ、マユミくん」
幻滅されるかもしれない。口を開いた時に、真っ先に脳裏を過った。それでも何故か眉見に聞いてほしいと、そう思ってしまったのだ。握りしめた拳が、シーツに皺を作る。なんだか呼吸が上手くいかないが、それでもと声を絞り出した。
「僕、トロフィーを捨てたの、初めてじゃないよ」
百々人は誰に向けたわけでもなく、自嘲気味に笑う。そして眉見の言う未来を想像してみた。アイドルとして自分が、C.FIRSTが、どうなるのか。今は全く想像ができないが、それでも今日は初めての仕事を終えた日だったのだ。
「マユミくんが言うように、もし僕がそんなに大切なトロフィーをもらったら、今までのことも後悔するのかな」
後悔は恐ろしい。どうして一番になれなかったんだろう、とトロフィーを見るたびに思った。両親の失望した顔を見るたびに、またこれも駄目だったとトロフィーを何度握りしめたことだろう。そのたび、後悔は心に重く圧し掛かっていく。シーツに力なく落ちていた腕をのろのろと上げて、掌を見下ろした。
「……それは」
眉見が言葉を詰まらせる。ぎくりと不随意に肩が強張るが、イヤホンから漏れる音を聞き逃さぬようにと耳をそばだてた。
「その時は―――俺でもいい、誰かに話すといい」
だが、返されたのは突き放すような声ではなく、手を差し伸べるようなそれだった。
「一人で抱えているよりかは、楽になる。秀も嫌がったりはしないだろうし、プロデューサーでもいい」
並べられた名前の順に、頭の中に顔が浮かんでいく。天峰、プロデューサー。一抹の不安が浮かんで、百々人はそれを一つ吐き出した。
「ぴいちゃんは、ちょっと怖いな。嫌われたくないから」
そんな人ではないとは分かっているものの、反射的に思ってしまう。プロデューサーの笑ってくれる顔、こちらを心配してくれる顔、それが別の何かに重なってしまいそうで、振り払うように首を横に振った。
「そんなことはないと思うが、まあお前の話したい相手にするといい」
そっとスマートフォンに手を伸ばして、衣擦れの音一つ立てないようにそっと拾い上げる。長く話し込んでいたからか、スマホは少しだけ熱を孕んでいた。
「うん、うん。じゃあ、その時はマユミくんとアマミネくんにお願いするね」
ああ、と眉見が応じる。その声にまた、ほっと息を吐いた。
「言いたかったのはこれだけだ。遅くまですまない」
ううん、と律儀な謝罪に返して、液晶の数字に再び目を落とす。すっかり一時間以上も話し込んでいたのだと気付いたが、実感はあまり沸かなかった。
「いいよ、もう寝るだけだったし」
次の日は平日であるし、いつもはもう眠っている時間だったが、少しくらいずれたところで大差はないだろう。
「そうだったか。じゃあ、おやすみ百々人」
「うん、おやすみ」
通話の切れる寸前、ありがとう、とスマートフォンに吹き込む。そのまま赤いボタンを叩いた。糸の切れたようにベッドに体を横たえて、天井を仰ぐ。なんとなく、今日はよく眠れそうな、そんな予感がしていた。