勃たない話 1ココイヌ 男に勃たないココの話
イヌピー視点:
――俺の初恋は、クソみたいなものだった。
今思い出してもまだどろりとした感情が喉から迫り上がってくる。心が踏みつぶされてズタボロになってもう思い出したくなくて、なのにその思い出に縋りつきたくなる。そんな苦いを通り越した苦しいものだった。
相手は幼馴染のココこと九井一。俺と違ってとてつもなく頭が良く努力家で、切れ長の瞳が綺麗な幼馴染の男だった。
そのココが俺の姉を好きなのは知っていた。つまりは彼は異性愛者で、さらに恋敵は実の姉。告げることなく諦めるしこの気持ちは墓場まで持って行こうと、まだ幼い心にそう誓っていた。幸せに手を取り合う彼らを見ればきっと諦められる。叶わない想いに心が苦しくても、好きな二人が幸せになるなら祝福できる。そのうち両方から相談とかされるんだろうか、なんて切ないような幸せなような想像をしていた。
――だけど、現実は思ったのとは違う方へと進んでしまった。
火事で姉と家と安寧を失った俺は、10代ですっかり道を踏み外してしまった。暖かだった広い家は冷たく狭いアパートに。優しかった両親は人が変わったようにギスギスとして、あの日の過失はそちらのせいだと罪を押し付け合う日々。そんな居心地が最悪な家から、俺は自由なように見えた世界へと逃げ出していた。
辛い現実を忘れるようにバイクを眺め、家に帰らなくて済むように先輩たちに連れられて街を歩いたりバイクに乗せてもらったり。そうして俺が現実逃避している間に、ココはいつしか大きな悪事に手を染めるようになっていた。そして少し時が経ち、黒龍を復活させるために俺も悪い道を歩き始めた。
ただココとは違い、俺は頭が悪かった。ヘマをして少年院にぶちこまれ、気が付いたら大事だと思っていたものは全てなくなってしまっていた。
優しい家庭、姉、真一郎くん、黒龍、先輩、……あとはなんだっただろうか。もう何もなかった。俺の手元には穏やかで温かなものは何も残っていなかった。
なにも持っていない俺は必死だった。だから大寿の暴力に縋り黒龍を復活させて、ますます道を踏み外していった。ココを道連れにして。
ココはそんな俺についてきてくれた……いや、大寿によってついてこさせられた。俺はその頃はとてつもない馬鹿で、そのことをよく分かっていなかったんだ。ココは俺を見ていない、ココの心は俺の方を向いていないということに気が付いていなかった。
◇◇◇◇◇
きっかけは、些細な出来事だった。
ココへの想いを持て余していた俺は、ガキのくせに一丁前に体だけ成長していて、性欲を身のうちに燻らせていた。その匂い――俺がゲイで欲求不満だってことを敏感に嗅ぎつけた黒龍の仲間に、ラブホに連れて行かれそうになったのだ。
好きじゃない奴とヤることへの抵抗感はなかった。だから性欲のままに俺はほいほいついて行こうとして……その現場をココに見られたのだ。ラブホ街に向かって二人でこそこそと連れ立って歩いているところを見つけた幼馴染は、今まで見たことがないような剣幕で詰め寄ってきた。ココの頭の中でなぜか俺が無理やりラブホに連れ込まれそうになったことになっていて、普段喧嘩なんてしねぇのに鉄パイプまで持ち出してきたからあわてて違うと弁明したのだ。その弁明のついでのように俺がゲイだとバレてしまったのだ。
ブチ切れているココに慌てて逃げ出した黒龍の仲間の背中を見送り、どうするかと固まっていた俺に、ココは信じられないものを見るような視線を投げてきて。長い長い沈黙の後、まるで決心したように口を開いた。
『イヌピー男が好きなの? だったら…………俺と付き合おうよ』
彼から掛けられたのはそんな言葉だったと思う。俺はその当時荒れていて、手が付けられないほど狂暴なくせに頭が悪くてココの本当の気持ちなんて何も考えていなかった。
ココ。ココも俺を好きでいてくれたんだ。ずっと近くにいた幼馴染の俺を。
そう思って心が一気に浮ついたのを覚えている。ココが赤音のことを好きだっていうのは覚えていたし、それまで彼が俺を性的に好きだなんて兆候はみじんもなかった。ココが俺と付き合おうと言ってくれたのだと、都合よくそのことばかりを頭の中で何度も考えて浮かれまくっていた。
だけどそれは俺が見ていた儚い夢みたいなもので、夢から覚めるまでそう時間はかからなかった。
最初の1か月はいつも通りに過ごした。そのことに俺が不満を持ち始めた次の月に、二人で出かけた時に手を握られたり、二人きりのアジトで肩を抱かれたりするようになった。そして三ヶ月目にキスをして――。
その次の月、真っ青な顔をしたココは俺を呼びだすと死にそうな顔をして頭を下げた。
『ごめんイヌピー……俺、やっぱり男相手だと勃たない』
二人きりのアジトでココの喉の奥からそんな言葉が絞り出された。
男相手だと勃たない。俺を相手にしては勃たない。
その言葉を理解するまでたっぷり三十秒はかかったと思う。だって俺はココと付き合えてすっかり浮かれ切っていて、ゆっくりではあるけれど二人の関係は前に進んでいて。彼の心が俺の方を向いていると信じ切っていた俺にとっては青天の霹靂だった。そうか勃たないのか、なんて簡単に言えなかった。
ココ、ココ、なんで。俺と付き合おうって言ったじゃないか。――俺のこと、好きなんじゃないのか?
そう考えて、そう言えばココから一度も好きだなんて言われたことがないことにはたと気が付いた。俺が他の男とヤりそうになったから『付き合おう』と言ったココ。俺はずっと前からココのことが好きだったから、てっきりココも俺のことを好きになってくれたんだと思っていた。でもココは果たして本当に俺が好きだから付き合おうって言ったのか? 俺が好きな素振りなんてなかったし、……俺を好きになる要素なんてないじゃないか。
ココは赤音が好きで。女が好きで。俺は赤音に面影が似ていて。
鈍い俺はそのことにようやく気が付いて、膝から崩れ落ちるような虚無感が襲ってきた。
俺ばっかりが一人で思いが成就したのだと浮かれていたんだ。ココは俺を赤音の弟としか見ていない。俺のことなんて見ていない。見るはずがない。こんな取り柄もない乱雑なだけの男、好きになる理由はない。なんで今までそのことに気が付かなかったんだ。
泣き出したいような気分で分かったと頷いた。本当は納得していなかったし、残酷なことをするココをなじりたい気分だった。だけどそんなことをする権利が俺にはないってそれだけは分かっていた。鈍い俺が悪いんだって分かっていた。だって普通は気が付くだろう。男に興味なんてなかったココが本気で俺と付き合うなんてあり得ない話だ。それでよく馬鹿みたいに、俺のことが好きなんだと勘違いできたと思う。
俺の口から零れ落ちた息は震えていた。言わないと。分かった、じゃあ別れようって言わないと。なんでもない素振りをしないといけないと頭の中では分かっているのに、手足が冷たくなって動けない。時間の感覚も薄れてしまって、ただ間抜けにココの顔を見つめることしかできない。どれくらいそうしていたのか分からないけど、黙っている俺にココはさっきよりも更に青い顔をして呟いた。
『でもイヌピー、俺と別れないで』
『俺、練習するから』
『ごめん、俺と別れないで。イヌピーが他の誰かと付き合うのは嫌だ』
のろのろと伸びてきた掌が、弱い力で俺の服の袖を掴んだ。
今思えばあきれるほど我儘で残酷な言葉だ。だけどその時俺は死んでもいいほどココを好きで狂っていた。ココの言った言葉が耳を伝って脳にゆっくりと浸透していった。理解できないことが重なって麻痺した頭で、俺は小さく頷いた。
『分かった。大丈夫だココ。……セックスなんてなくてもいいし、別れない』
大丈夫だココ。セックスしなくてもいいし、付き合い続ける。何度もそう言って、血の気の引いた顔で震えるココの手を握った。本当は抱きしめたかったけど嫌がられるのが怖くて、手を握るだけにしたのを覚えている。
俺のことは別に好きじゃないココ。だけど別れたくないっていうのは、赤音に似た顔の俺が他の男とやるのは嫌なんだろう。鈍い俺は、全てを語らないココの言葉を必死にかみ砕いて読み解いて、そう結論付けた。
俺という存在は邪魔でしかない。そのことをつき付けられて自尊心はぽっきり折れたけど、それでもココが好きだから、地獄まで付き合おうと思って頷いた。
ココの純粋な赤音への愛が、俺の心とやらを踏みつぶしてぐちゃぐちゃにしても別に構わなかった。ココと別れなくて済むならなんだって嬉しいと思った。顔が似ていなければココは俺の傍にいることすらなかったと分かっていたから。
もし俺が赤音の弟じゃなくて妹だったら、こんなことは怒らなかったのかもしれない。だけど残念だけど俺は男で、取り柄も可愛げもなくて、似てるのは親から受け継いだ髪の毛と瞳の色だけだ。
ココのためなら俺が苦しかろうが悲しかろうが構わない。ココがセックスできないっていうならそれで構わないし、それでも別れないっていうなら付き合ったままでいい。俺にはどうせ他に好きな男なんてできないんだから、それだったらココの一番そばに置いてもらいたかった。
そう思って、恋人とは名ばかりの関係を続けていた後――関東事変が起こった。
そしてそこで決別し、その後は一度も会っていない。一緒にいた期間は長かったのに、別れはあっという間だった。依存と言えるほどココに縋りついていたのに、花垣武道に出会って、その眩しいほどの明るさに照らされて俺は彼から手を放すことができた。
そしてそれは彼のほうも同じだったのかもしれない。マイキーという闇と出会って、ココはあっという間に俺から去っていった。好きだったよとか会えなくなると寂しいとかそんなことを言う暇もないくらい、ココはあっさりといなくなった。俺の方を見ないで立ち去ったココ。迷いのない足取りがあいつの気持ちを表しているようで、そのことを考えるとじくりと胸が痛んだ。
まがい物の俺と無理して付き合って、でも結局俺のことを振り向きもせずに去っていったココ。
あいつは今何をしているんだろうな、なんて今でもたまに思ってしまう。そんな自分が死にたくなるほど嫌いだった。