ワカイヌ◇◇◇◇◇
――俺はよく悪夢を見る。
それは決まって、ココが俺を火事から救い出したあの夜だ。まだガキだったっていうのに、燃え盛る炎の中に飛び込んだココ。どれだけ恐ろしかっただろうか。賢いココは、自分が死んでしまうかもしれないと分かっていたんだろう。それでも赤音を救いたくて、きっと必死に自分を鼓舞して脚を踏み出したんだろう。
そしてその決死の思いで救い出したのが……赤音の弟の、顔だけは赤音にそっくりな俺だった。
赤音じゃない、青宗なんだと言った時のココの顔が忘れられない。
『間違えた』
『間違えた』
『間違えた』
言葉に出さなくても彼の顔がはっきりと物語っていた。
ああ、そうだ俺は間違えられた。俺は望まれていない。
ココ。ココ、ごめん。俺でごめん。俺は違うのに。愛されるべき相手じゃないのに。気に掛ける価値なんてない、なんの取り柄もない俺を間違えて選ばせてごめん。
ごめんと心の中で何度も呟くけれど、同時に胸にこみ上げてくる黒く濁った感情もある。
――俺ってそんなに、価値がないんだろうか。俺は一生選ばれることはないんだろうか。ココ、もしお前が間違えずに赤音を救い出していたら、俺のことはそのまま捨てて行ったのか? 思い出しもせずに?
ココ。ココ。ごめん。俺を選ばせてごめん。
俺なんか絶対に誰にも選ばれないのに。
◇◇◇◇◇
浅い眠りから物音で現実へと引き戻されて、ゆっくりと瞼を開いた。
狭い八畳のワンルームに、少し湿ったような、動物の匂いのような籠った空気が部屋に充満している。つけっぱなしのエアコンが生暖かい空気を吐き出しているけれど、安普請のアパートは断熱性が悪すぎてそれでも暖かくなりきらない。ベッドの上に怠惰に寝そべった気怠い体が、誤魔化しきれない冷気にぶるりと震えた。
シャワーの音がバスルームから聞こえる。
ああ、そうか。今日はワカくんが来ていたんだ。一瞬深く寝てしまってぼやけていた脳みそが、そのシャワーの水音に一気に覚醒するのを感じた。
いまだに慣れないセックスをした体がぎしぎしと鳴るけれど、いつまでもだらしなく寝ていられないと体を起こす。部屋着のスウェットを身に着けたところで水音が止まり、バスルームの中からきっちりと服に身を包んだワカくんが出てきた。
金色と紫の特徴的な髪形に、どこか色気を感じさせる垂れ目。細身に見える体が、じつは信じられないほどの筋肉に覆われているのを俺は知っている。伝説の初代黒龍のメンバーの彼は、いつも通りの飄々とした表情で俺を見ると、ほんの少しだけ眉を上げた。
「……起きたのか」
トントン、と軽い足音と共に彼は俺の寝ているベッドの方へと近づいてくる。近づいた距離に心臓が跳ねるが、彼はベッドに腰掛けた俺には目線を寄越さずに、ハンガーにかけてあったコートを取った。
そのことに心がずきりと痛んだけれど、いつものことじゃないかと言い聞かせて痛みに気が付かないふりをする。
「うん。もう帰る?」
「ああ、起こして悪かったな。寒いし寝とけ」
「俺もシャワー浴びるよ」
俺がのっそりとベッドから立ち上がると、それよりも早いペースでワカくんは玄関へと向かって歩いていってしまう。さっさと帰りたいと言わんばかりの態度にため息を飲み込みながら、俺は彼が靴を履くのをただ見つめていた。
「じゃあな。また連絡する」
「うん。じゃあまた」
手を挙げて彼を見送ると、なんの戸惑いもなく閉められる扉。ぴしゃりと閉じられたそれが、まるで彼の心を表しているかのようで。一人きりになった部屋で、先ほどまで必死に堪えていたため息を吐いた。
俺はワカくんと付き合っている。男同士だから誰にも言えないけれど、俺たちは恋人同士だ。
だけど……きっと俺はワカくんには愛されていない。
◇◇◇◇◇
ワカくんは初代黒龍のメンバーで、俺にとっては神様みたいなものだ。そんな彼と俺が付き合えるようになったのは、あまりロマンチックなものではなくて――どちらかと言うと事故みたいなものだった。
真一郎くんが亡くなってしまってから、俺はワカくんとの交流が長く途絶えていた。それはそうだろう。俺なんかはただのガキで、しかも相当頭が悪かった。彼が相手にするような人間じゃない。だがD&D Motorsを開いてから顔の広いドラケンの伝手や、真一郎くんの店の跡を継ぐということもあって彼も俺たちの店へと通いだしてくれるようになった。
イザナに従って黒龍の面汚しをしてしまっていた俺だったけれど、ワカくんはそのことには触れずに俺のことも可愛がってくれるようになった。もとから憧れの人だ。俺は誰よりも彼に懐いた。まさに犬だったと思う。
あんまり俺が彼に尻尾を振るから、彼はあれこれと構ってくれるようになって。そして俺の誕生日には焼き鳥を持って店に来てくれた。誕生日だけど特に予定がないっていうことをぽろりと言ったら、じゃあ夕飯奢ってやるよ、と軽い調子で言われて。
そして気が付いたら、俺は彼に食べられてしまっていたのだ。
酒は飲んだことがあった。だけど憧れのワカくんに連れられて飲んでいるということに、俺は舞い上がってしまっていたんだろう。いつの間にかキャパをオーバーして彼に縋りついてしまっていたらしい。それを、女はもちろん男とも経験のあったワカくんは断らずに手を出してしまったようだった。
柔らかくて広いワカくんのベッドの上で、痛む頭と腰をさすりながら呆然としたことを覚えている。俺はワカくんには淡い気持ちを抱いていた。でも憧れの人で、しかも男同士で、こんなことになるなんてカケラも思っていなかった。
そして黙りこくる俺に、ワカくんはとてもとても困った顔をしながら口を開いた。
『イヌピー、……お前、もしかして処女だった?』
『へ、あ、……え?』
『ケツでヤったこと、なかったかってこと』
当たり前だ。いくら年少あがりと言えども、誰にもヤらせたことはない。
首をがくがくと縦に振る俺に、ワカくんは苦い顔をして皺の寄った眉間をぐりぐりと揉んだ。それから沈み込みそうなほど深いため息。
『マジか』
『え……? ごめ、俺、なんか、』
『いや、悪いのは俺だし…………じゃあ、付き合うか。お前さえ嫌じゃなければ』
なんかよく覚えていなくて。そう言おうとした俺の言葉を遮って、ワカくんはそう呟いた。そしてその言葉に俺が頷いて、俺たちは付き合うことになったんだ。
つまりは酒の過ち。
そして俺のはじめてを意図せずに貰ってしまったワカくんが、責任を取ってくれたようだった。
後から酒に酔ったワカくんに聞いたら、俺がココと付き合っていてとっくにセックスの経験があるんだと勘違いしていたらしい。
そのことを知った時に感じたのは、グサリと胸に刺さる衝撃と、それから妙な納得感だった。
なるほど、だからか。だから俺にも軽い気持ちで手を出したのか。……好きでもないのに。
滴るような色気があって、女に困らないワカくんが、なんで俺と付き合ってくれたんだろうと不思議に思っていた。そもそもなんで俺を抱いたんだろう、とも。彼は遊びのつもりで俺を抱いて、うっかりはじめてを奪ってしまったんだ。
慣れていると思って手を出したら処女だったとか、とんだ地雷だよな。
彼の言葉でそれを理解したけど、俺から別れようとは言えなかった。責任なんて取らなくていいって言えなかった。……だって、俺はワカくんが好きだから。もうその時には好きで好きで、たとえ彼が俺に本気でなくてもそばに居たいって思ってしまっていたから。
そうやって仄かな胸の痛みを抱えながら、俺はワカくんの恋人という座にしがみついている。
◇◇◇◇◇
ワカくんが帰った部屋の中で立ち尽くしていたら、いつの間にか体が冷え切ってしまった。いくら待っていても玄関の扉を開いてワカくんが戻ってくることはないのに。さっきはシャワーを浴びるなんて言ったけれどどうにも面倒臭い。ワカくんが軽く体を拭ってくれているし、まあいいかと怠惰な気分でベッドへと逆戻りした。
「……外、寒そうだな」
カーテンをめくって外を見ると、星一つない夜空が広がっている。カタカタと風が窓を揺らすその音を聞くだけでぶるりと震えそうになった。真冬の深夜。こんな最悪に寒い時にすらさっさと俺の家を出ていくなんて……と考えだしてまた少し気分が落ち込んでいく。
そんなに早く帰りたかったのかよ。
週に一度程度はワカくんは俺の部屋に来るけれど、彼は俺の部屋に泊まっていくことがない。そしてそのことに毎回俺は地味に傷ついていた。
付き合いたての最初の1、2回くらいは泊まっていった気もする。でもすぐに彼は、事後は家に帰るようになってしまった。
『もう遅いし、泊まっていけば?』
付き合いたての頃、なんにも分かっていなくて頭の中にも大したものが詰まっていない俺は、帰ろうとする彼にそう聞いた。だけど3回ほど断られてから、引き止めることはしなくなった。明日は仕事が早いとか、家でやることがあるとか、聞くたびに理由は違った気がするけど。それでも鈍くて空気の読めない俺でも、彼が毎回断るのは俺の部屋に泊まる気がないんだってことは理解できた。しつこく泊まってと言っても嫌な顔をされるだけだってことも。セックスした後くらい傍に居てくれればいいのに。そう考えてしまうと落ち込みが止まらなかった。
愛されてねぇなぁ。
当たり前だけど、愛されてなんかねぇよな。
それどころか好かれてるのかも分からない。たぶん嫌われてはいないはずだけど。
人と付き合うのが初めてでどうすればいいのかすら分からない。ワカくんの心も分からなくて苦しい。心の行き場がなくてどうしようもなく胸が詰まって、俺は毛布にくるまるとぎゅっと自分を抱きしめた。
◇◇◇◇◇
プライベートが苦しくても、仕事は待ってはくれない。ドラケンと二人で共同とは言え、バイク屋を自分で経営していて、他に従業員もいないから急に休むこともできないし、いつもよりもあえて少し早く職場に辿り着いて作業着に着替える。頭の中で騒ぐ雑念をあえて考えないように押しやって、床に座り込んで作業していると、背後から重たい足音が響いた。
「よお、イヌピー」
「あ、ベンケイくん。いらっしゃい」
ゴリゴリに鍛えられた巨体に黒い肌。その肌に映える白く染められた短髪に髭の男、ベンケイくんがその大きな体をゆったりと揺すりながら店へと入ってきた。彼のことを知らない客だったら少しビビってしまうような迫力があるし、そしてその見た目ははったりじゃなくて、彼はワカくんと同じく生きる伝説とも呼ばれている男だ。
「今日はメンテ?」
「ああ」
「丁度よかった。そろそろベンケイくんが来るかなと思ってスケジュール明けておいたから、すぐにでもできるよ」
ついこの間、パーツ交換をすると言っていた客の予定が変わって少し先になっていた。他の客の予約を押しのけるようなことはしないけど、丁度空いたスケジュールを、彼がそろそろ来る頃だろうと思ってあえて埋めないようにしていたのだ。
立ち上がって手を拭くと彼のもとへと走り寄る。ついでにスケジュール表を手に取って記入しようとすると、ベンケイくんがその眉毛の生えていない眉間を小さく動かした。
「……お前、なんか前より気が効くようになったなぁ」
「ウザかった?」
「いや、前はただの目つきの悪いクソガキだったのに、一人前に役に立つようになったな」
「そうかな……」
「ああ。ワカなんかもよくここに来てるだろ。前に褒めてたぞ、成長したって」
「え、?」
ワカくんが? 本当に?
そのベンケイくんの言葉を聞いて、眠そうだとよく言われる目を大きく開く。
褒められたことも嬉しいし、それに彼が言っていることが本当なら……もしかしたらワカくんに好きになってもらうための方法が、見つかったかもしれない。昔イザナが言っていたじゃないか。俺をそばに置く理由は、俺が役に立つからだって。
俺はワカくんに愛されてはいない。だけどもっと役に立つようになったら、ずっとそばに居てもいいと思ってくれるかもしれない。
「そっか……俺、役に立てれば……」
ワカくんと付き合ってから、彼に対して何かしてあげてこれただろうか。そこまで考えることもなく、ただ彼の素っ気ない態度を悲しんで不満ばかり募らせていた。だけどそれじゃあいつまで経っても俺は好かれるわけはない。なんにもない俺をそのまま好きになってくれることなんてあるわけないんだから。
俺が小さくそう呟くと、ベンケイくんがなんだか不審そうな顔をして体を少し俺の方へとかがめてくる。
「おい。なんか知らねぇけど、あんまり暴走すんなよ。気ぃ回しすぎると失敗するぞ」
彼の言葉は俺の耳に届きはしたけれど、俺の心を占めているのはワカくんとのことだけで。俺はその意味をしっかりと咀嚼することなく相槌のように頷いただけだった。