ワカイヌできた◇◇◇◇◇
――俺はよく悪夢を見る。
それは決まって、ココが俺を火事から救い出したあの夜だ。まだガキだったっていうのに、燃え盛る炎の中に飛び込んだココ。どれだけ恐ろしかっただろうか。賢いココは、自分が死んでしまうかもしれないと分かっていたんだろう。それでも赤音を救いたくて、きっと必死に自分を鼓舞して脚を踏み出したんだろう。
そしてその決死の思いで救い出したのが……赤音の弟の、顔だけは赤音にそっくりな俺だった。
赤音じゃない、青宗なんだと言った時のココの顔が忘れられない。
『間違えた』
『間違えた』
『間違えた』
言葉に出さなくても彼の顔がはっきりと物語っていた。
ああ、そうだ俺は間違えられた。俺は望まれていない。
ココ。ココ、ごめん。俺でごめん。俺は違うのに。愛されるべき相手じゃないのに。気に掛ける価値なんてない、なんの取り柄もない俺を間違えて選ばせてごめん。
ごめんと心の中で何度も呟くけれど、同時に胸にこみ上げてくる黒く濁った感情もある。
――俺ってそんなに、価値がないんだろうか。俺は一生選ばれることはないんだろうか。ココ、もしお前が間違えずに赤音を救い出していたら、俺のことはそのまま捨てて行ったのか? 思い出しもせずに?
ココ。ココ。ごめん。俺を選ばせてごめん。
俺なんか絶対に誰にも選ばれないのに。
◇◇◇◇◇
浅い眠りから物音で現実へと引き戻されて、ゆっくりと瞼を開いた。
狭い八畳のワンルームに、少し湿ったような、動物の匂いのような籠った空気が部屋に充満している。つけっぱなしのエアコンが生暖かい空気を吐き出しているけれど、安普請のアパートは断熱性が悪すぎてそれでも暖かくなりきらない。ベッドの上に怠惰に寝そべった気怠い体が、誤魔化しきれない冷気にぶるりと震えた。
シャワーの音がバスルームから聞こえる。
ああ、そうか。今日はワカくんが来ていたんだ。一瞬深く寝てしまってぼやけていた脳みそが、そのシャワーの水音に一気に覚醒するのを感じた。
いまだに慣れないセックスをした体がぎしぎしと鳴るけれど、いつまでもだらしなく寝ていられないと体を起こす。部屋着のスウェットを身に着けたところで水音が止まり、バスルームの中からきっちりと服に身を包んだワカくんが出てきた。
金色と紫の特徴的な髪形に、どこか色気を感じさせる垂れ目。細身に見える体が、じつは信じられないほどの筋肉に覆われているのを俺は知っている。伝説の初代黒龍のメンバーの彼は、いつも通りの飄々とした表情で俺を見ると、ほんの少しだけ眉を上げた。
「……起きたのか」
トントン、と軽い足音と共に彼は俺の寝ているベッドの方へと近づいてくる。近づいた距離に心臓が跳ねるが、彼はベッドに腰掛けた俺には目線を寄越さずに、ハンガーにかけてあったコートを取った。
そのことに心がずきりと痛んだけれど、いつものことじゃないかと言い聞かせて痛みに気が付かないふりをする。
「うん。もう帰る?」
「ああ、起こして悪かったな。寒いし寝とけ」
「俺もシャワー浴びるよ」
俺がのっそりとベッドから立ち上がると、それよりも早いペースでワカくんは玄関へと向かって歩いていってしまう。さっさと帰りたいと言わんばかりの態度にため息を飲み込みながら、俺は彼が靴を履くのをただ見つめていた。
「じゃあな。また連絡する」
「うん。じゃあまた」
手を挙げて彼を見送ると、なんの戸惑いもなく閉められる扉。ぴしゃりと閉じられたそれが、まるで彼の心を表しているかのようで。一人きりになった部屋で、先ほどまで必死に堪えていたため息を吐いた。
俺はワカくんと付き合っている。男同士だから誰にも言えないけれど、俺たちは恋人同士だ。
だけど……きっと俺はワカくんには愛されていない。
◇◇◇◇◇
ワカくんは初代黒龍のメンバーで、俺にとっては神様みたいなものだ。そんな彼と俺が付き合えるようになったのは、あまりロマンチックなものではなくて――どちらかと言うと事故みたいなものだった。
真一郎くんが亡くなってしまってから、俺はワカくんとの交流が長く途絶えていた。それはそうだろう。俺なんかはただのガキで、しかも相当頭が悪かった。彼が相手にするような人間じゃない。だがD&D Motorsを開いてから顔の広いドラケンの伝手や、真一郎くんの店の跡を継ぐということもあって彼も俺たちの店へと通いだしてくれるようになった。
イザナに従って黒龍の面汚しをしてしまっていた俺だったけれど、ワカくんはそのことには触れずに俺のことも可愛がってくれるようになった。もとから憧れの人だ。俺は誰よりも彼に懐いた。まさに犬だったと思う。
あんまり俺が彼に尻尾を振るから、彼はあれこれと構ってくれるようになって。そして俺の誕生日には焼き鳥を持って店に来てくれた。誕生日だけど特に予定がないっていうことをぽろりと言ったら、じゃあ夕飯奢ってやるよ、と軽い調子で言われて。
そして気が付いたら、俺は彼に食べられてしまっていたのだ。
酒は飲んだことがあった。だけどワカくんは俺に未成年だからと飲ませてくれなくて、それが余計に自分がまだ子供なんだと思い知らされているようで。何度も彼に頼んで「一杯だけな」の言葉をひき出して……そう、たった一杯だけだったのに。
憧れのワカくんに連れられているということに、俺は舞い上がってしまっていたんだろう。ほんの僅かなアルコールでおかしくなった俺は、いつの間にか彼に縋りついてしまっていたらしい。それを、女はもちろん男とも経験のあったワカくんは断らずに手を出してしまったようだった。
柔らかくて広いワカくんのベッドの上で、痛む頭と腰をさすりながら呆然としたことを覚えている。俺はワカくんには淡い気持ちを抱いていた。でも憧れの人で、しかも男同士で、こんなことになるなんてカケラも思っていなかった。
そして黙りこくる俺に、ワカくんはとてもとても困った顔をしながら口を開いた。
『イヌピー、……お前、もしかして処女だった?』
『へ、あ、……え?』
『ケツでヤったこと、なかったかってこと』
当たり前だ。いくら年少あがりと言えども、誰にもヤらせたことはない。
首をがくがくと縦に振る俺に、ワカくんは苦い顔をして皺の寄った眉間をぐりぐりと揉んだ。それから沈み込みそうなほど深いため息。
『マジか』
『え……? ごめ、俺、なんか、』
『いや、悪いのは俺だし…………じゃあ、付き合うか。お前さえ嫌じゃなければ』
なんかよく覚えていなくて。そう言おうとした俺の言葉を遮って、ワカくんはそう呟いた。そしてその言葉に俺が頷いて、俺たちは付き合うことになったんだ。
つまりは酒の過ち。
そして俺のはじめてを意図せずに貰ってしまったワカくんが、責任を取ってくれたようだった。
後から酒に酔ったワカくんに聞いたら、俺がココと付き合っていてとっくにセックスの経験があるんだと勘違いしていたらしい。
そのことを知った時に感じたのは、グサリと胸に刺さる衝撃と、それから妙な納得感だった。
なるほど、だからか。だから俺にも軽い気持ちで手を出したのか。……好きでもないのに。
滴るような色気があって、女に困らないワカくんが、なんで俺と付き合ってくれたんだろうと不思議に思っていた。そもそもなんで俺を抱いたんだろう、とも。彼は遊びのつもりで俺を抱いて、うっかりはじめてを奪ってしまったんだ。
慣れていると思って手を出したら処女だったとか、とんだ地雷だよな。
彼の言葉でそれを理解したけど、俺から別れようとは言えなかった。責任なんて取らなくていいって言えなかった。……だって、俺はワカくんが好きだから。もうその時には好きで好きで、たとえ彼が俺に本気でなくてもそばに居たいって思ってしまっていたから。
そうやって仄かな胸の痛みを抱えながら、俺はワカくんの恋人という座にしがみついている。
◇◇◇◇◇
ワカくんが帰った部屋の中で立ち尽くしていたら、いつの間にか体が冷え切ってしまった。いくら待っていても玄関の扉を開いてワカくんが戻ってくることはないのに。さっきはシャワーを浴びるなんて言ったけれどどうにも面倒臭い。ワカくんが軽く体を拭ってくれているし、まあいいかと怠惰な気分でベッドへと逆戻りした。
「……外、寒そうだな」
カーテンをめくって外を見ると、星一つない夜空が広がっている。カタカタと風が窓を揺らすその音を聞くだけでぶるりと震えそうになった。真冬の深夜。こんな最悪に寒い時にすらさっさと俺の家を出ていくなんて……と考えだしてまた少し気分が落ち込んでいく。
そんなに早く帰りたかったのかよ。
週に一度程度はワカくんは俺の部屋に来るけれど、彼は俺の部屋に泊まっていくことがない。そしてそのことに毎回俺は地味に傷ついていた。
付き合いたての最初の1、2回くらいは泊まっていった気もする。でもすぐに彼は、事後は家に帰るようになってしまった。
『もう遅いし、泊まっていけば?』
付き合いたての頃、なんにも分かっていなくて頭の中にも大したものが詰まっていない俺は、帰ろうとする彼にそう聞いた。だけど3回ほど断られてから、引き止めることはしなくなった。明日は仕事が早いとか、家でやることがあるとか、聞くたびに理由は違った気がするけど。それでも鈍くて空気の読めない俺でも、彼が毎回断るのは俺の部屋に泊まる気がないんだってことは理解できた。しつこく泊まってと言っても嫌な顔をされるだけだってことも。セックスした後くらい傍に居てくれればいいのに。そう考えてしまうと落ち込みが止まらなかった。
愛されてねぇなぁ。
当たり前だけど、愛されてなんかねぇよな。
それどころか好かれてるのかも分からない。たぶん嫌われてはいないはずだけど。
人と付き合うのが初めてでどうすればいいのかすら分からない。ワカくんの心も分からなくて苦しい。心の行き場がなくてどうしようもなく胸が詰まって、俺は毛布にくるまるとぎゅっと自分を抱きしめた。
◇◇◇◇◇
プライベートが苦しくても、仕事は待ってはくれない。ドラケンと二人で共同とは言え、バイク屋を自分で経営していて、他に従業員もいないから急に休むこともできないし、いつもよりもあえて少し早く職場に辿り着いて作業着に着替える。頭の中で騒ぐ雑念をあえて考えないように押しやって、床に座り込んで作業していると、背後から重たい足音が響いた。
「よお、イヌピー」
「あ、ベンケイくん。いらっしゃい」
ゴリゴリに鍛えられた巨体に黒い肌。その肌に映える白く染められた短髪に髭の男、ベンケイくんがその大きな体をゆったりと揺すりながら店へと入ってきた。彼のことを知らない客だったら少しビビってしまうような迫力があるし、そしてその見た目ははったりじゃなくて、彼はワカくんと同じく生きる伝説とも呼ばれている男だ。
「今日はメンテ?」
「ああ」
「丁度よかった。そろそろベンケイくんが来るかなと思ってスケジュール明けておいたから、すぐにでもできるよ」
ついこの間、パーツ交換をすると言っていた客の予定が変わって少し先になっていた。他の客の予約を押しのけるようなことはしないけど、丁度空いたスケジュールを、彼がそろそろ来る頃だろうと思ってあえて埋めないようにしていたのだ。
立ち上がって手を拭くと彼のもとへと走り寄る。ついでにスケジュール表を手に取って記入しようとすると、ベンケイくんがその眉毛の生えていない眉間を小さく動かした。
「……お前、なんか前より気が効くようになったなぁ」
「ウザかった?」
「いや、前はただの目つきの悪いクソガキだったのに、一人前に役に立つようになったな」
「そうかな……」
「ああ。ワカなんかもよくここに来てるだろ。前に褒めてたぞ、成長したって」
「え、?」
ワカくんが? 本当に?
そのベンケイくんの言葉を聞いて、眠そうだとよく言われる目を大きく開く。
褒められたことも嬉しいし、それに彼が言っていることが本当なら……もしかしたらワカくんに好きになってもらうための方法が、見つかったかもしれない。昔イザナが言っていたじゃないか。俺をそばに置く理由は、俺が役に立つからだって。
俺はワカくんに愛されてはいない。だけどもっと役に立つようになったら、ずっとそばに居てもいいと思ってくれるかもしれない。
「そっか……俺、役に立てれば……」
ワカくんと付き合ってから、彼に対して何かしてあげてこれただろうか。そこまで考えることもなく、ただ彼の素っ気ない態度を悲しんで不満ばかり募らせていた。だけどそれじゃあいつまで経っても俺は好かれるわけはない。なんにもない俺をそのまま好きになってくれることなんてあるわけないんだから。
俺が小さくそう呟くと、ベンケイくんがなんだか不審そうな顔をして体を少し俺の方へとかがめてくる。
「おい。なんか知らねぇけど、あんまり暴走すんなよ。気ぃ回しすぎると失敗するぞ」
彼の言葉は俺の耳に届きはしたけれど、俺の心を占めているのはワカくんとのことだけで。俺はその意味をしっかりと咀嚼することなく相槌のように頷いただけだった。
◇
「……よし、準備万端だな」
ピン、と皺もなく綺麗に張ったシーツ。わざわざコインランドリーで選択した上掛けはふわふわで柔軟剤のいい匂いがする。いつもだったら適当に掃除機をかけるだけの部屋も隅々まで綺麗にしたし、この日のためにわざわざ小型のファンヒーターも買った。
キッチンへと足をすすめて冷蔵庫の中を確認する。ビールはいつもバイクを運転するからと飲んでくれないけど、念のため冷蔵庫に詰めた。夕飯も買ってあるし、明日の朝飯にするための食材も買い込んだから冷蔵庫はパンパンだ。シャワーだって浴びたし、スムーズにセックスするために後ろの準備もばっちりだ。
作戦、と呼んでいいほどのことじゃない。ただワカくんに対してできる精いっぱいのことをして彼の役に立って、少しでも俺と付き合ってよかったと思ってくほしい。あわよくば俺のことを好きになってもらいたくて、今日彼が部屋に来ると連絡が来てから、あれこれと準備を進めていたのだ。
いつもだったらワカくんが来るのをソワソワと待つばかりだったけど、準備をするとなると気合が入ったし、なんだか気分も上向いたような気がした。
夜もすっかり遅くなったし、そろそろ彼が来る頃だろう。着古したスウェットは捨てて新しい部屋着を身に着けたし、彼を泊められるように新品のジャージも用意した。よし準備万端と声にだして辺りを見回していると、遠くでバイクの音がして、それから少しだけ時間が経って俺の部屋のチャイムが鳴らされた。
「ワカくん! いらっしゃい」
「おぅ」
ドアスコープも覗かずに扉を開ける。思わずはしゃいだ声が出てしまって、慌ててトーンダウンさせる。勢いよく扉を開いた俺に、ワカくんは垂れた瞳を少し見開いて、それから柔らかく笑ってくれた。
仕事から直接来てくれたんだろう。彼自身からは清潔なボディソープの匂いがするけど、肩に背負ったバッグからは少し汗の匂いがしていた。がこがこと音を立てて靴を脱ぎ、ワカくんは狭い部屋に足を踏み入れる。座る場所もあんまりないような部屋だから、俺のベッドが彼の特等席のようになっている。とさ、といつもの場所に陣取った彼は、辺りを少し見回すと、小さく鼻をならした。
「あれ、部屋にドラケン来た?」
「ドラケン?」
あたりをクンクンと嗅ぐような仕草をしたワカくんは、片方の眉毛をぴくりと上げる。そして彼について床に座った俺にずい、と近づくと、俺の首元でスンと鼻を鳴らした。
「……なぁ、お前香水つけてんの?」
「あ、うん。ドラケンから借りた」
凄いなワカくん。
そうだ。俺はいつも油にまみれていて身なりに気を付けていなかった。ワカくんと一緒にいるなら少しでも釣り合いたい、けど何をしていいのかも分からない。そこで一緒に働いているドラケンから、同じように油にまみれているくせにいい匂いがすることに気が付いて、彼に香水を聞いていたのだ。ドラケンは買うよりもまず試してみれば?と軽い調子で彼の香水をアトマイザーに少し入れて渡してくれて。それを今日つけていたのだ。
匂いを嗅いだだけでこれがドラケンのつけている香水ってよく分かったな。
俺が間抜けな顔で感心していると、ワカくんはどこか詰まらなそうに、そうかと俺の方を見ないで呟く。
その反応がどうにも芳しいものではなくて、俺はほんの少し焦った。
「似合わなかった?」
「いや。……でも俺、あんまりその匂い好きじゃねぇかも」
「あ、そ……、そっか」
しおしお、とさっきまでのやる気が小さく萎んで声が小さくなる。俺の方を見ないままのワカくんから小さな舌打ちの音がした。
ワカくん、今日はなんだか不機嫌だ。いつも飄々としていて冷静そうなのに。
今日は失敗だったかな、とさっそくへこんでいると、ワカくんは部屋の中を見回した後に口を開いた。
「なぁ、なんかいつもと違くねぇ?」
「そうかな」
「ファンヒーターなんてなかっただろ」
ワカくんの手がふかふかのベッドを撫でる。いつもより片付いた部屋を見ていた瞳が俺の方へと向けられて、なぜか細くすがめられた。
「なんか隠してる?」
部屋が綺麗になったとか言われるかと思っていたら、予想外に低い声で問われて肩がびくりと跳ねてしまう。
「……な、なにも隠してないけど」
「ふぅん」
じぃ、と鋭い瞳で見つめられて居心地が悪い。
「そうだ。よかったら、」
飯を用意したから一緒に食べよう。そんなことを言おうと口を開いたけど、俺の体は強くワカくんの方へと引っ張られて言葉にならなかった。
「ん、んん……!」
ベッドにまで引きずり上げられて、彼の膝に乗り上げる。そのままキスをされて口を塞がれた。
触れ合うなんて生優しいものじゃなくて、熱い舌が無理やり口の中に入り込んでくる。歯列を割られ、口内を掻き回されて湿った水音がする。じゅ、と大きな音をたてて唾液を吸われると、ようやく唇が離れていった。
彼の膝の上に乗ったまま体を弄られる。繊細な顔立ちにそぐわない節の太い指が腰を撫でていく。ぞくぞくした感触に流されそうになって、はっと正気を取り戻して彼の肩を手で押した。
「なぁ、ワカくん。今日は俺がするよ」
「あ?」
膝から降りると床にしゃがみ込む。女の子みたいにぺたりとは座れないけど、膝をついて彼の脚の間に陣取った。
「……ここ、舐めさせて」
そっと股間に手のひらを押しつけて撫で上げる。キスでゆるく勃起してくれたらしく固い感触が手を押し返す。
「できんの?」
やったことないけど、たぶんできる。そんなつもりで、相変わらず冷めた顔をしたワカくんに向かって頷く。ベルトを外してボタンに手を掛けても振り払われなかったので、それを了承と受け取ってチャックを下ろした。腰を上げてもらってズボンを膝までずり下げる。ボクサータイプのパンツの股間に顔をつっこむと、おい、と嫌そうな声が降ってきた。石鹸の匂いのするそこを堪能したかったけどしょうがない。焦らすつもりじゃない。パンツもずり下げると、半勃ちした陰茎がぶるりと飛び出してきた。
間近で見るのは初めてかも。俺のものよりもやや濃い色合いの陰茎をまじまじと見つめたくなるけど、彼を待たせるわけにはいかないとそっと手を伸ばした。竿を握り緩く上下に動かす。掌で擦るとさらさらとした手触りで、手の中で徐々に硬くなっていく。手で擦りながら、陰茎の先端に口を近づけた。
「ん、……、ッ、」
先の部分にキスをして、次に幹にも愛しむように唇を触れさせる。何度かそうして勢いをつけてから舌をだして亀頭をぺろりと舐め上げた。舌のざらつきを亀頭に擦り付けるように押し付けて、口を開けたまま上下左右にゆっくりと動かす。つるりとした先端をベロだけで舐った後、一度口を閉じて唾液を溜め、今度は大きく口を開いた。
歯にあたらないように、舌で陰茎を包み込みながら口の奥まで迎え入れる。あっという間に口の中がいっぱいになって、喉の奥にすら当たりそうだ。ワカくんの陰茎から少ししょっぱいような苦いような味がして、先走りが漏れているんだと気が付いた。
「ひもひいい?」
気持ちいい? そう聞いたつもりの言葉は間抜けな鼻声になってしまった。だけどワカくんには伝わったようで『気持ちいいよ』と言われて頭を撫でられる。犬を撫でるような手つきだけどそれがとても嬉しくて、俺はがぜんやる気になった。
さっきまででも苦しかったけど、今度は舌で舐めるだけじゃなくて、頬を思いっきりすぼめて吸い付くと唇で強く扱き上げた。苦しいし唇は疲れるし絶対変な顔になってるだろうから嫌だけど、どんどん大きく硬く反り返っていく陰茎に、彼が感じているんだと顔を前後に動かした。
は、と苦しそうな吐息がワカくんから漏れる。その声が信じられないくらい色っぽくて、気だるげな垂れ目に熱がこもっているようで、触られていない俺のチンコも硬くなっていく。俺も触ってほしい。もういっそ後ろに突きこんでほしい。そう思いながら、今はワカくんを気持ちよくさせないとと、彼の陰茎を喉の奥まで咥え込んだ。
「う、……う、ぉ、え、」
知識としては知っていたディープスロートだけど、実際にやると喉の奥に当たって気持ち悪い。吐き気をこらえながら柔らかい喉の粘膜で亀頭を擦り、彼の陰茎をできるだけ奥まで飲み込んだ。
けど。
少し強い力で頭を押されて股間から顔を引き剥がされた。
「おい、もういい」
「は、あ、……、気持ち、良く、なかった.……?」
「……逆だよ。イきそう」
イってもいいのに。
そう言いたかったけどワカくんは俺の二の腕を掴んでベッドの上にふたたび引き上げた。やや乱暴にごろりと転がされて、安いパイプベッドが重みに耐えきれずにぎしぎしと軋んだ。
「もう解してあるから、すぐ挿れられるよ」
俺の部屋着を剝ぎ取るワカくんにそう言うと、俺は自分でズボンを脱ぎ捨てた。挿れやすいように足を抱えた。ワカくんのチンコはすっかり勃ってるし、すぐに挿れてくれるだろう。そう思ったのに、彼はなんとも言えない微妙な顔をして俺を見下ろしてきた。
「なぁ青宗、お前……」
「あ、後ろから挿れる?」
だったら……と後ろを向こうとすると、ワカくんに腕を掴まれて止められた。
「ワカくん?」
ワカくんは無言で俺のことを見下ろしている。長い下睫毛に縁どられた瞳は、熱が確かに灯っているのに何かを探るようで、不安で彼の名前を呼んだ。
なにか失敗してしまったんだろうか。役に立とうとしたけど、なにか足りなかったんだろうか。フェラは上手くできたとおもうんだけど……。
不安がじわりと胸の中に湧き上がってくる。
「なんでもねぇ」
だけどワカくんは結局そう言うと、足を開いた俺に圧し掛かってきて。いつもより少し乱暴に腰を揺すりだした。
◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇
ふ、と気が付くと毛布にくるまれていた。
ごうごうと低い音を立てているのは、最近買ったばかりのファンヒーター。今が何時なのかも分からなくてのそりと体を起こすと、綺麗に整えられたブックシェルフをぼんやりと見つめているワカくんに気がついた。
「ワカくん」
掠れた声をかけると、特徴的な垂れ目がこちらへと向けられた。
「体、平気か?」
「うん」
そうか、と言って頭を撫でられる。優しい手のひらが嬉しいけど、彼がすでに服を着ているのに気がついてしまったと焦る。
「じゃあ帰るわ。また連絡する」
いつも通りの言葉。いつも通りの仕草で玄関へ向かおうとするワカくんに、俺はベッドの上から上擦った声を出した。
「と、……泊まっていけば?」
緊張しているのがバレてしまうだろうか。情けなく吃った言葉が間抜けで嫌になる。
だけどなんとか言葉にしてワカくんの反応を見ると……。
「あ〜……、」
ぴたりと玄関の前で立ち止まって、こちらを振り返ってはいる。だけど決して俺の方へと戻ってくることはなくて、明らかに困ったと顔に書かれていた。なにも言わずに気まずい雰囲気にしまったと後悔するけど口から出た言葉は戻らない。
どうしよう。
困ってる。
……俺が引き止めたから。
そんなに俺のところに泊まりたくなかったんだ。
気まずい沈黙が2人の間に流れた。ワカくんはこっちを見たまま何とも言えない……まるで言い訳を探すような顔をしていて。その表情に、本当に俺は彼を困らせているんだと実感した。
「……あ、でも俺、明日仕事早いんだった」
だから、取り繕うようにそう言ってしまった。
「そうか」
するとワカくんホッとしたように肩の力を抜いてそう言った。そして迷うことなく荷物を手にして靴を履いた。
「じゃあ、もう行くわ」
「またね」
裸のまま、ベッドから足を下ろす。毛布を体に巻き付けて立ち上がると、片手で寝てろと制された。そういうところは優しいのに、それでも俺を置いていくんだなと少し恨みがましく思う。
無慈悲に扉が閉められて、気が抜けて裸のままのラグの上へと尻を下ろした。
……ダメだった。
なんでそんなに嫌がるんだよ。
俺と一緒に寝るの、そこまで嫌?
恋人がいたことがないからわからないけど、泊まってほしいってそんなに我儘なんだろうか。ただでさえあまり会えなくて、これではヤるためだけに会っているみたいじゃないか。
……いや、みたいじゃなくて本当にヤるためだけに会っているのかも。
そのことを考えるとそれが真実な気がして、ますます落ち込んだ。
そういえば夕飯も食べていなかったと思い出して冷蔵庫を開ける。ごちゃごちゃと詰め込まれた食材を見て、さらに胸がつきりと痛んだ。買い物に行った時は、ワカくんが喜んでくれるかもと期待してあれこれ買い込んでしまった。だけど現実は困った顔をさせただけで、夕飯すら一緒に食べることはできなかった。
「俺、こんなに食いきれねぇよ……」
2人で時間を過ごしてみたい。もっと話がしたい。……できたら好きになってほしい。役に立つように頑張るから。そう思っているけど、俺にはワカくんの気持ちがわからなくて。浮かれた気分で買った食材をぼんやりと見ながら、俺はため息しかつくことができなかった。
◇
「……よし、気合いだ。気合い」
俺はそう小声で呟くと、手に持ったコンビニの袋を握りしめた。
ワカくんとベンケイくんのやっているボクシングジム。今まで来たことはなかったけど場所は知っていた。だけど用事もないし行ったことはなくて、真一郎くんから噂を聞くくらいだった。来いと言われたこともないし、なにしろワカくんの職場だし。
だけどその未知の場所へと俺は足を向けていた。手に『差し入れ』と称した清涼飲料水のペットボトルを携えて。
「べつに、迷惑じゃねぇよな」
誰にも聞こえないような小声でそう呟く。
なにも恋人として来たわけじゃない。恋人面をするために、彼の職場まで行くわけじゃない。たまたま、たまたま仕事が早く終わった夕方、この近くを通りかかったから差し入れを持ってきただけだ。そう。たまたま、偶然だ。ワカくんだってD&D Motorsにはよく来てくれるし、そのお返しをするだけだ。
停める場所に困るからナナハンキラーは置いてきた俺は、ネットで調べた住所を頼りにのこのこと足を進める。薄闇に辺りが包まれ始めて、ただでさえ寒い冬の風が余計に冷え込んでくる。その寒さを振り払うように少し前へと進む脚を早めた。
驚かれるかな。
ちょっとくらいは話したりできるかな。
迷惑……とは言われないよな、たぶん。ベンケイくんもいるし。
喜んでもらえたら、また持ってこよう。
ワカくんの反応を想像しながら、道を踏みしめて歩くと、目的のボクシングジムはあっさりと見つかった。白い電気の灯った店内からは人が動きまわる気配がして、営業中だって分かる。
ここだ。
軽く挨拶し、偶然だって言って……もし忙しそうだったらすぐに帰ればいいよな。それなら邪魔にはならねえし。
そう自分に言い聞かせる。だけどいきなり足を踏み入れる勇気がでなくて、そっと窓越しに中を覗くと。
「あ、ワカくん」
特徴的な金と紫の長髪。すらりとスタイルが良くて遠くからでもすぐに分かった。
トレ着も格好よくて思わず見惚れてしまう。
だが、その細身の彼の横にぴたりと張り付くように立っている人の存在に気がついた。
「……ん?」
ボクシングなんてしなさそうな華やかな女の子。俺よりも少し年上かもしれない。長い茶髪を一つにまとめ、体のラインがよく分かる派手なトレーニングウェアを着ていた。
利用者、なのか?
一応スポーツができそうな格好をしているけど、硬派なジムにはそぐわない女性だ。
顔は見えないけど美人そうで、ボクシングジムよりもピラティスやヨガの方が似合いそう。そんな女性がワカくんに触れそうなほど体を寄せて、なにやら楽しそうに声を高くして笑っていた。
ワカさん、ワカさんと明るく響く声に、ワカくんが優しく笑い返す。
あんな風に笑うんだな。
俺と一緒の時はいつもダルそうな顔してるのに。
楽しそうな2人の姿に声をかけられなくて、思わず窓の影に隠れてしまう。
2人は俺に気付くことなく、話を弾ませていて。俺はその内容にびくりと体を固まらせた。
「っていうか、ワカさん付き合っている人いるの?合コンしようよ〜! ワカさんなら絶対モテるし」
「好きな相手いるから無理」
「え、そうなの?」
好きな相手。
……付き合ってる相手、じゃなくて?
あれ、俺って付き合ってる相手だよな。なんで「いる」って答えないんだ。
俺の心の中の疑問になんて当然答えるはずもなく、ワカくんは和かな笑顔を彼女に向けた。
「うん。すげー美人で可愛い子にめちゃくちゃ惚れてんの」
「そっかぁ。あ、じゃあ普通の飲み会ならいいでしょ?」
「ダメ。誤解されたくないから」
「え〜!」
それくらいいいじゃん、と拗ねたように騒ぐ声が聞こえる。
だけど俺は2人が話し終えるのを待つことなく、ふらりと窓辺から体を遠ざけた。
ワカくんに好きな人?
好きな人、美人で可愛いって……俺じゃないじゃん。
俺じゃ、ないじゃん。
彼の言葉の意味が俺のとろくさい脳みそにようやく伝わって、遅れて頭をガツンと殴られたような衝撃がおそってきた。
え、ワカくん。ワカくんって俺と付き合ってたよな? だけど好きな相手? 好きな相手がいるのか?
愛されてるなんて自惚れてはいなかった。責任を取って付き合ってくれているのにも気がついていた。だけど、彼には別に好きな人とかいなくて俺でもいいか位には思ってくれていると勝手に勘違いしていた。
なのに。
ワカくんに好きな人いたんだなんて全然知らなかった。あまり自分からあれこれ語らない彼が、心の中に気持ちを秘めていても不思議じゃない。俺たちは恋バナなんてしたことなかったし、付き合ってからは慢心してそんなこと聞くことはなかった。俺と付き合ってるんだから、他に好きな人なんていないだろうと思いこんでいた。でも本当は彼にはめちゃくちゃ惚れている相手がいて、だから彼は俺の部屋に泊まることはなかったし、好きだとか言われることはなかったんだ。そのことにようやく気が付いて、俺はその場にうずくまってしまいたくなる。
よろよろ、とおぼつかない足取りで来た道を戻る。駅までそう遠くない道のりが、永遠に感じられる。耳の奥がキンと鳴ってその場にうずくまりそうだった。
ワカくん。ワカくん。好きな人、いたんだな。知らなかった。教えても貰えなかった。そんなことすら知らされなかったし、察せなかった。
好きな相手がいるんだったら俺なんかに手ぇだしたらダメだろ。
それとも俺を抱いたのも間違いだったのかな。……ココが赤音と間違えて俺を火事から助け出したように、好きな相手と間違えて抱いてしまったとか?
ふと、昔、俺を姉と間違えた幼馴染の顔が脳裏に浮かんだ。姉の命が掛かっていたことと比べてしまうのは不謹慎かもしれないけど、あの時も今回も、俺は間違いだったんだ。
ああ、これも間違い。恋人になったのも間違いなんだ。俺が求められていたワケじゃない。
自分は誰にも求められる人間じゃないってことを、なんで都合よく忘れられていたんだろう。あのココの絶望した顔を忘れたのか。
そう考えると、ワカくんと付き合って恋人面していた自分があまりにも滑稽すぎる。
好きになってくれるかも、なんてなんで思えたんだ。男でデカくて顔に火傷の痕まであって、ワカくんに釣り合うとでも思ったのか? 中身だってバカで世間知らずで最悪なことに年少あがりで。ひとつも良いところなんてない俺を好きになってくれるかもなんて、なんで思えたんだ。思い上がりにも程がある。
手に下げたコンビニのビニール袋がやけに重たく感じた。
ボクシングジムを後にするその足も重たくて、まるで地面にのめり込んでしまいそうだ。
重い。重い。体が重くてしょうがない。
でも俺の体なんていっそこのまま地面に沈み込んでしまえばいいのに。どうせ誰にも求められていないんだから。
携帯を取り出すと、迷いながらカチカチと音を立てて操作する。真冬の風で冷えた指先が、薄らと赤く染まっていた。
◇
別れよう。
たったそれだけ書いたメールを震える指で送信した。
本当は『なんで言ってくれなかったの』とか『俺は好きだったのに』とか恨み言をたくさん書きたくてしょうがなかった。綺麗に『今までありがとう』なんて捨て台詞みたいなことを書こうかとも思った。だけど恨み言も綺麗な台詞も、まがい物の俺には不釣り合いだと思って別れたい、もう別れてもらっていいということだけを書いて送信ボタンを押した。元からワカくんの心にいない俺が、あれこれと言葉を並べても虚しいだけだ。
突然のメールにワカくんは何て思うかな。
俺と別れられてホッとした? 少しは寂しいとか……思うわけないか。だって他に好きな相手がいるんだもんな。
責任を取って付き合っていたのがようやく終わって良かった。自分から言い出す手間が省けたくらいに思ってるかな。
もしかしたら返信すらないかも。
面倒見のいいワカくんだったら『分かった』くらい返してくれそうだ。でももし返信がなかったらと考えるとそれにすら傷つくのが怖くて、携帯の電源を落とすとポケットに突っ込んだ。
フラフラと倒れそうな足取りのまま駅へと向かう。辺りはすっかり暗くなって、繁華街のネオンが星の代わりに眩しいほどに輝いていた。不良時代に散々慣れ親しんだその安っぽい光を浴びながら、まるで当てもなく空を飛ぶ蛾のように人の波を通り過ぎた。
場所に困るなんて考えないでバイクでくればよかった。そうすれば愛機に少しは慰めてもらえたのに。早く電車に乗って自分の部屋に逃げ込んでしまおう。さっきからずきりずきりと頭も痛み始めて、もうどこでもいいから瞳を閉じて全てをシャットダウンしてしまいたかった。
なのに、不意に強い力で誰かが俺の肩を掴んだ。
「…………おい、お前。乾青宗、だよな?」
俺よりも少し高い位置から発せられる声。しわがれて野太い品のないだみ声だ。最近はワカくんの低くて透き通るような声ばかり聞いていたから、余計に耳に障る。
肩の手を振り払いながら振り向くと、体格のいい男が血走った瞳でこちらを見ていた。冬だと言うのにやや浅黒い肌に、ぱさぱさの短い金髪。背は俺より高いから180cmはあるだろうか。でもベンケイくんやドラケンよりは小さい。黒のダウンコートを着ているから分からないけど、盛り上がった首回りの筋肉からそこそこ鍛えているんだと分かる。
その男に従うように、同じような半グレ風の男がもう2人。一様に悪そうなだらしない服装をして、こちらを睨みつけてきている。
「誰だテメェ」
「覚えてねぇのかよ、この傷」
男はそう言いながら首を傾けてダウンコートの胸元から鎖骨のあたりに広がる傷跡を見せてくる。だけど記憶を探っても、見た目も話し方も凡庸な男のことなんて欠片も思い出すことはできなかった。イザナにしろ大寿にしろ俺が付き従っていた男たちは度を超えた強さを誇っていたせいもあり、ほんの数年前まで多少の傷なんて当たり前だった。目の前で息をまいている男には悪いが、傷一つくらいでは思い出せなかった。
「覚えてねぇな」
「テメェ……!!」
正直に告げると、男の日に焼けた顔が興奮のためか赤黒く染まる。太い腕が伸びてきて、俺の胸倉を掴み上げた。
「テメェなんて、黒龍がいなけりゃなにもできねぇくせに!」
ああ、黒龍時代の敵か。怒鳴られてそう知るが、相変わらず男との因縁は思い出せない。似たようなチンピラならば死ぬほどぶん殴ってきたのだ。だがそう言っても男は引くわけもないだろう。面倒なことになったな、と頭の片隅で思う。
「来いよ。俺がどんな目に遭ったか、思い知らせてやる」
胸倉を掴まれたまま引きずられて路地裏へと連れて行かれる。
こんな手なんて振り払ってぶん殴ってしまおうか。喧嘩から離れてしばらく経つけれど、三対一でもそう引けは取らないはず。
だけど……そう思うのと同時に、何もかもどうでもいい投げやりな気持ちだった。
俺なんか別に殴られてもいい。守る程の体でもないし、俺が怪我しようがリンチされようが、悲しむ人なんていないだろう。優しいドラケンなんかは顔を顰めるかもしれないけど、俺が蒔いた種だ。
俺なんて、いっそのこと気絶するほど殴られて痛い目を見てしまえばいい。
ドン、と強く壁に突き飛ばされる。衝撃に体を支えきれなくて背中が固い壁に当たる。それだけのことで少し足元がふらつくのは、俺の心が弱っているからなんだろう。
「死ね、乾!」
男が大きく腕を振りかぶって殴り掛かってくる。慣れのように体に力を込めてしまうが、少しズレながらも顔に拳が当たって俺の体は吹っ飛んだ。
「は、弱ぇな!」
「やっぱり黒龍のバックがないと何にもできねぇんだな!」
そう言いながら、周りを取り囲んでいた男たちが調子に乗ったように囃し立ててくる。俺が無抵抗なのを見て、倒れた体を重たい靴で踏みつけられる。背中、肩、と蹴り上げられて、久しぶりの痛みに体が強張る。
「……ッ! ぐ、は、ぁ、」
大きな音がして、腹に男の靴の先がのめり込んだ。その衝撃に呼吸が止まり、鋭い痛みと吐き気がせり上がって思わず小さく呻いた。
体は痛いし、ワカくんとは別れるし、今日は散々だ。でも俺は本来はこんなボロ雑巾みたいな存在なんだ。ココに助けられたのも、ワカくんに選ばれたのも間違いなんだから。俺は燃えて死んぬか、こうやって地べたを這いつくばって一生誰にも見つけられずに生きるのがお似合いだったんだ。
だが自虐的な気分で痛みを甘受していると、男たちの荒い息の合間から涼やかな声が聞こえた。
「おい、何してやがる」
静かな声がした。そう思った時には、俺を蹴り上げていた男の脚が止まった……いや、男自体がいなくなっていた。吹き飛ばされて。
「う、うわぁッ!」
「おい、なん、だ、!ぐぁ!」
地面に倒れて頭を庇っていた腕を外す。俺が何が起こったのか理解するよりも前に男たちの低くて汚い叫び声と、どさりと倒れるような音がした。
「え?」
痛む体を抑えてのそりと体を起こす。するとそこには、漏れてくるネオンを背中に受けて光る、金と紫の髪の細身の体が立っていた。
「…………ワカくん?」
「おい、何やってんだ」
とどめとばかりに男の背中を踏みつけるワカくん。どうやら男たちは3人とも気絶しているようで、それぞれ歪な姿で地面に倒れ伏していた。
「イヌピー、平気か?」
息一つ上がっていないワカくんに手を差し出される。その手を掴んでいいのか分からなくて戸惑ったまま彼を見上げる。はらりと金と紫の髪の毛が肩から流れて、彼の顔に影を作った。
見つめ合うような恰好でいると、いつまでも動かない焦れたのかワカくんが俺の横にしゃがみこむ。
近くなった距離。彼のゆっくりとした瞬きに合わせて、長い下睫毛がふわりと揺れた。俺に差し出されていた手が更に俺の方へと伸びてきて、頬の殴られた痕をそっとなぞった。
ああ、助けてもらったんだ。助けなくて良かったのに。
拳が擦れて皮膚が破けているんだろう。ぴりぴりとした痛みが頬を襲ってきて、彼に助け出されたんだということがようやく脳みそに伝わった。
頬を撫でた掌を下ろし、地面に床を付いて俺に目線を合わせたワカくん。その視線はきつくて、もしかして怒っているのかと気が付いた。
「ワカ、くん、」
掠れた声で名前を呼ぶけど、彼の視線は厳しいまま。そのことに、頬の傷とは別の痛みが胸を抉った。
でも、それはそうだよな。ワカくんに後輩として可愛がってもらったのに勘違いしてつけ上がって恋人という座まで独占して、愛してもらえないからと勝手に別れて。そのくせこうやって助けてもらうなんて迷惑かけて。ただの後輩にすら戻れない、本格的に嫌われてしまったかもしれないと思うと、胸の奥が締め付けられるような気持ちだった。
「ごめん、」
なんとかそう声を絞り出す。
するとワカくんは鋭く眇めていた視線を、より一層きついものにした。つり上がり気味の眉毛もぴくりと動く。
本格的に怒鳴られたりするのだろうかと蒼褪める俺に、ワカくんはしゃがんだままため息をついて。それから俺がよく理解できないことを話だした。
「急に別れるのに、ごめんだけじゃあ納得できねぇよ」
「え……?」
「なぁ、ココだっけ。九井、あいつとより戻すのか?」
「……ココ?」
何言ってるんだ。
ココ?
なんでココの名前が彼の口から出てくるんだ。
ぽかんのした俺をよそに、ワカくんは眉根を寄せて言葉を重ねた。
「助けにも来ねぇ男なんてやめて、俺にしとけよ」
「へ?」
「カタギだし、俺の方がお前を大事にする」
手が再びてきて、地べたに付かれたままの俺の手に乗せられた。顔に似合わないゴツゴツした指が、俺の指先を撫でる。
それにびっくりして、俺は肩をびくりと跳ねさせて手を引っ込めた。
「わ、別れるとかのことじゃなくて、……喧嘩に巻き込んでごめん、っていう、ごめん」
「あぁ、それは何考えてんだよ。あんな奴らにやられっぱなしになるほど弱くねぇだろ」
少し不機嫌そうに言われて、肩を窄める。自罰的にわざとやられていたなんて知られたら余計に怒られそうだ。
「ごめん……あと、別れるのは、ココは関係ないよ」
「より戻すから俺は振られたんじゃねえの?」
「……違う」
「じゃあ、なんか気に入らないことあったか? たしかに、あんまり構ってやれてはねぇけど……」
俺を落ち着かせるような口ぶりに、彼は何を言っているんだと唇を曲げる。まるで俺がヒステリーを起こして別れ話を言い出して振り回す女の子みたいじゃないか。
そうじゃないのに。ワカくんに好きな人がいるから、俺はワカくんを諦めようとしてるのに。そもそも、ワカくんがいけないんじゃないか。好きでもない俺と付き合おうなんて言って期待させて。ココまで持ち出してどういうつもりなんだよ。ココとは付き合ったことないって言ってるのに。
まるで別れたくないとでも言いたげなワカくんに歪んだ苛立ちが募った。大人しく文句を言わずに去ろうと思っていたのに訳の分からないことを言われて、恨み言のような言葉が口をついて出てきてしまった。
「……ったのに」
「あ?」
「俺、諦めようとしたのに」
「諦める?」
「ワカくん、好きな人いるんだろ? さっきジムで話してるの聞いた」
盗み聞きしていたのだと、自分から言ってしまうのは恥ずかしいけれど止まらなかった。
「美人で可愛い子。めちゃくちゃ惚れてるんだっけ? 他の人と飲みにも行きたくないくらい好きなんでしょ?」
全部聞いていたのだと告げる。
俺はもう知ってるから、俺のことキープなんてしないでよ。好きな子がいるならそっちへ行けばいいじゃないか。ワカくんなら好きな相手に振られることなんてないだろうし。俺との関係は間違いから生まれたものだったんだから、気にせず捨てていけばいい。
そんなつもりで吐き捨てるように言う。
「……聞いてたのか」
ああ聞いていたよ。だから別れよう。
ワカくんのいつもの冷めた瞳を見てそう言ってしまおう。
そのつもりだったのに……ワカくんの方を見ると、なぜか彼は掌で照れたように口元を抑えて、頬を赤くさせていた。
「え? ワカくん?」
「うわ、恥ずかし……」
思っていたのと違う反応に、一瞬虚を突かれる。
一応俺と付き合っているんだから、恥ずかしがってないで謝るとかあるだろう。
そう思うけどワカくんは照れた顔のまま小さく唸って頭の後を掻いたりとせわしない。
「だから、好きな子いるなら俺は別れるよ」
言い訳なんてしなくていい。俺は身を引くから。
なかなか通じない話に苛立ちつつそう言うけれど、そうしたら今度はワカくんがきょとんと瞳を丸くした。
「いや、好きな子って、お前……普通に考えてそれ、お前だろ」
「は?」
「美人で可愛いだろ」
「はぁ?」
「なかなかお前レベルの美人いないの自覚しろよ。……惚れてるのもそうだし」
そんなわけないだろ。
だけどワカくんが当たり前みたいに俺のことだと言うから混乱してしまう。
「え、でもそれなら、なんで好きな人って言ったんだよ。付き合ってる人がいるって言ってくれればよかったのに」
「ベンケイもいたんだぞ。相手は誰だって絶対聞かれるだろうが。アウティングは恋人同士でもしたらダメだろ」
「あうてぃんぐ?」
「あ~……この場合だと、お前が男が好きだって他人がバラすこと」
「だから付き合ってる人って言わなかったってこと?」
「そう」
そう、と軽く言われて、地面に座ったまま俺は頭を抱えた。
そうって。
え、ワカくんは本当に俺のことを好きなのか?
美人で可愛くて惚れてるって他の人に言えるくらい、俺のことが好き?
信じられないことを軽く言われて、喜んでしまいたい気持ちと疑ってしまう気持ちに板挟みになる。
「泊まっていってくれたことなかったし、いつもヤるだけでと好きとかも言ってくれないし、俺のこと好きとは思えないんだけど」
彼の言葉を疑ったまま、思わずそう言ってしまう。
するとワカくんはさっきまでの照れた顔をひっこめて、苦々しく顔を顰めた。
「クソ、ダサいこと言うけど幻滅するなよ」
「うん?」
「お前、たまに寝てる時にココの名前呼ぶんだよ」
ココ?
またしても出てきた幼馴染の名前に、俺は首を傾げた。
「寝言で、ココごめんとか悪かったとか言うんだよ。最初に聞いた時は、お前が夢の中で元彼のこと考えてるのがムカつきすぎて叩き起こして犯してやろうかと思ったな。けど俺はお前よりは大人だから、耳にしなきゃなんとか気にしないでいられる。だから泊まらなかった」
「え……俺、そんなこと言ってた?」
「言ってた」
はっきりとそう告げられて、俺は固まってしまった。
ココの夢……正確には火事の夢は未だに見ることがある。それも結構頻繁に。だけどまさか自分が寝言でココの名前を呼んでいるとは思わなかった。
「知らなかった……」
「だろうな」
ワカくんはふん、と軽く鼻から息を吐くと膝を付いていた地面に本格的にあぐらをかいて腰を下ろした。
「別れ話の時の夢なのか、とか考えたら苛々しすぎて聞くこともできなかった。だから延々と嫉妬して、泊まることもできなかった」
「ごめん……」
「好きなのも、付き合ってもらってるのも俺の方だろ。青宗は若くて美人で性格も……まぁちょっとヤンチャだけど可愛くて、引く手あまただろ? ガキの頃から知ってるのに、今更俺に好きだ好きだ言われてまとわりつかれても気持ち悪ぃだけかと思ってた」
まさかそんな風に思っていたなんて。いつも飄々とした彼の表情からはそんなことはとても伺い知れなくて、そんなわけないと首を横に振った。
「ココとは付き合ったことないし、そもそも恋愛対象だと思ったことない。夢は、俺の実家が火事になった時の夢だ」
「火事……それは、悪ぃ。嫌なこと言ったな」
「夢に見ることちゃんと言ってなかった俺も悪いから、気にしないで」
火事、の言葉にワカくんはハッと表情を硬くする。俺の顔に大きく広がった痣。その原因が実家の火事であることは、真一郎くんが生きていたころに伝えていた。それを思い出したんだろう。
別に気にしなくていい。それより、と言葉を切って唾を飲みこんだ。
「俺が好きになったのはワカくんだけだよ。俺、ワカくんが好きだ」
緊張して小声になってしまう。
だけどワカくんが言っていることを信じるなら……俺たちは両想いなんだろう。ぎゅっと手を握りしめて、ワカくんと視線を合わせる。
「じゃあ、別れるってのは撤回でいいな?」
「うん。……でもワカくんも言ってよ。俺、ワカくんから好きとか言ってくれたことないし……」
彼の言葉にうなずきつつ、我儘かもと思いつつ思いを口にする。彼の気持ちが分からなくてずっと不安で暴走してしまったんだ。もうそんなことが起こらないよう、勢いのままにそう言うと。ワカくんは大きなため息を吐くと俺の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。
「好きだよ。好きだ。クソ、お前がチビガキの頃から知ってるんだぞ。相当惚れてなきゃ手なんて出さねえよ。例えお前がべろべろに酔っててもな!」
「うわ!」
そのままずるずると引きずられ、路地裏を抜けてネオンで明るく照らされた通りへと連れ出される。
「帰るぞ。今日は絶対お前ん家に泊まるからな。覚悟しとけ」
顔が触れあいそうなほど近くでそう言われて、心臓ががどきりと高鳴る。いつも石鹸の匂いのするワカくんは、今日は薄っすらと汗の匂いがした。
そしてその夜、俺は夢も見ないで穏やかにワカくんの腕の中で眠った。
◇◇◇◇◇
本編に入れられなかったあれこれ
※ワカくんは別れようメールが来てすぐにザリで探しに来たので、ジムの近くでイヌピーを捕獲できた。
※騒がしい女性客は、ワカくんが格好良くて入会した。何回か来てすぐ辞めるタイプ。客商売なのでワカくんも優しくしている。
※ワカくんと寝るようになって少しずつ悪夢を見なくなるイヌピー。そのうち同棲とかしてほしい。