ココイヌ 勃たない話 2「最悪な夢だな……」
呻くように呟いて瞼を掌で覆う。脳裏にはまだココの蒼褪めた顔と、『勃たない』という苦しそうな彼の声が残っていて気分が悪い。最悪な目覚めだ。そしてあんな夢を見るくらい、自分自身がいまだにココという初恋に囚われていることが気分が悪くてしかたない。
げぇ、とわざと声をだしてからベッドから起き上がる。
自分の家のものではない柔軟剤の香りがシーツから漂ってくる。あまり好きな匂いじゃない甘ったるい匂い。ここは誰の家だっけと思いながら伸びをすると、家主がひょこりとリビングから顔を出した。
「あれ? イヌピー起きた? シャワー浴びてきな。朝飯どっか外で食おうよ」
軽薄そうな短い茶髪に口元にはオシャレらしい髭。上半身裸で下にはスウェット。ココだったら絶対にしないような恰好をした男は、寝ぐせのついたままの俺に向かってそういいながらミネラルウォーターの入ったペットボトルを投げてきた。
チャラついた見た目の男はセフレのうちの一人だ。俺にセフレがいるなんて知ったらココはどう思うだろうな、とさっきの夢に引きずられて考えかけて、どうも思わないかと考えるのを放棄する。
ココと別れた後、俺は昼間はまっとうな人間になった。真面目にバイトをしバイクの整備の勉強をして、整備士としてD&Dをドラケンと二人で経営するまでに至った。だけどそのまっとうさは昼間だけで。夜になると喪失感や寂寥感でいっぱいになって、狂いそうになっていた。
そしてその寂しさを埋めるために、手当たり次第に声をかけてくる男とセックスをするようになってしまった。当時は今みたいに出会い系アプリなんてなかったから、新宿二丁目で飲んで、酒を二杯も飲まないうちにこちらに視線を投げてきた男を連れてホテルへとなだれ込んでいた。店員からは相当嫌われていたと思うし、若かったからウリをしていると勘違いされていたかもしれない。
寂しさを埋めるためだけのセックスを繰り返していたが、ストーカーに付け回されたり刺されかけたりと色々あって、今は決まったセフレとだけ抱き合うようにしている。20代も後半になってようやく俺は学んだのだ。
「朝飯は食わねぇ。それより、……まだ勃つ?」
掠れた声でそう言うと、怠そうに壁に寄りかかっていた男はにやにやとしただらしない顔になって俺を見た。
「もちろん♡」
勢いよくズボンをその場に脱ぎ捨てると、パンツを履いていなかったのか赤黒いチンコがぼろんと零れ落ちた。それを見せつけるようにしながら膝でベッドを歩いてくる。ベッドヘッドに体を預けたままの俺を引き寄せると、無理やりフェラさせてくる。幸いシャワーは浴びていたようで石鹸の匂いが鼻の奥に広がった。
情緒もなにもなく、まだ萎えているチンコを焦らさずに口の中に迎え入れてやる。口の中に唾液をためてくちゅくちゅと音をたてて舌で撫でてやると、むくむくと膨らんで芯を持っていった。この軽薄な男の取り柄は強すぎる性欲で、それは俺がセフレを選ぶときの一番の条件だった。
「イヌピー、フェラ上手すぎ~」
人の口に突っ込みながら軽く腰を揺すってくる。喉の奥にチンコの先が当たって苦しさがあるけれど、ディープスロートなんてもう何百回やったのかも分からないくらい慣れたものだ。完全に勃起したチンコを喉の奥まで飲み込んでやると気持ちよさそうなため息が男の口から漏れた。俺の頭を撫でる掌が嫌に暖かくて気持ち悪いと思った。
あの頃みたいに、ひたすら一途にココのことを想っていられれば良かったのに。ココが傍に居なくても、彼だけを好きで彼以外と寝ないで死ねたらよかったのに。でも現実ではどんどん体は汚れていくし、俺は俺のことを欲しがってくれる「だれか」とのセックスをやめられない。汚い男だろうが乱暴な男だろうが、俺の中で果ててくれる時だけはココよりもずっと優しい気がして、そのためなら俺の体なんてどうでもよかった。
ぷは、と口を離して、唾液に濡れてそそり立つチンコを撫でる。ベッドサイドにいくつも置いてあるゴムの袋を男に投げて、視線で付けろと促す。そして体の向きを変えて四つん這いになり、尻を突き出して奥の窄まりを晒した。
「昨日散々ヤったしまだ緩いだろ……早く突っ込めよ」
「はは、イヌピー本当にセックス好きだなぁ」
当たり前だろ。でなきゃお前とヤってねぇよ。そう言ってやろうかと思ったけれどそれよりも今はさっさと穴を埋めてほしい。催促するように尻を振ると、後孔にぴとりと熱いものが押し当てられた。
これでいい。この間は忘れていられる。あんな惨めな初恋、なかったことにできるくらい激しくしてくれ。男が自分勝手に腰を揺すりだすのを感じて、俺は悲鳴に似た喘ぎ声を吐き出した。
◇◇◇◇◇
――失敗した。
昔からバカだったけれど、まだ俺はかしこくなっていないみたいだ。
ラブホのやたらと糊のきいたベッドシーツの上で、俺は無表情のまま背中に冷や汗をかいていた。目の前には、面白そうに笑いながら煙草を吹かす男。それだけだったら別に焦る必要はないのだけれど……その背中に踊る、明らかに堅気ではない大きな刺青を見て俺は自分の愚かさを呪っていた。
事の発端は、セフレにヤる予定をドタキャンされたことだった。金曜日の仕事終わりにバーのカウンターで待ち合わせ、となっていたのに、ITのスタートアップ企業に勤めるとかいう男は約束の時間を過ぎても待てど暮らせど現れない。
苛ついたままに普段よりも多く酒を飲み時間を潰していたら、俺からの「早く来い」のラインを無視していた待ち合わせ相手からだった。
『ごめんイヌピー、残業終わらない~泣』
チ、と舌打ちが零れた。仕事なのは仕方がない。だけどそうなるなら早めに連絡しろ。他のセフレを呼ぶから。9時に待ち合わせにしていたのに、いつの間にかもう10時近く。他のセフレと会うにしても、他の奴もどっかで飲んだり誰かとヤったりしているだろう。今からありつけるチンコが果てしてあるのだろうか。
諦めるか。それとも手当たり次第に連絡してみるか。そんなことを迷っていると、それほど混雑していない店内で、俺の横のスツールに長身の男が腰を掛けた。
「誰かと待ち合わせ? 隣いい?」
「……どうぞ」
隣に座ったのは、黒髪をやや時代遅れに撫でつけたガタイのいい男だった。濃色のスーツに先端の尖った革靴。特に見た目に変なところはないのに、この店を訪れる男たちとは毛色の違う、すこし危なげな匂いがした。笑みを浮かべているのにどこか視線が鋭いせいだろうか。酒でふわふわとぼやける頭でそんなことを考えた。
普段だったらついていかないだろう。だけどその時俺は待たされた苛々と満たされない思いのせいで、男の姿は目の前にぶら下げられた餌にしかみえなくて……。そして男に誘われるままにのこのことホテルまで付いてきてしまったのだ。
そしてひとしきり満足するまでヤり終えて……ごろりとベッドに寝転がったら、ようやく男の肌に気が付いたのだ。
フェラの時は服を脱がずにズボンの前だけを緩めて男はチンコを差し出してきたし、その後に抱かれる時はバックからされた。だから服を抜いた男の肌にでかい刺青が入っているなんてことに気が付かなかったのだ。
クソ、慣れたセフレとばかりヤっていたから油断していた。ヤクザならもっと分かりやすい格好しておけよ。羽宮みたいな派手な柄のシャツにパンチパーマでもあてておけっての。
ラブホのやたらと広いベッドの上で男と共に寝そべりながら、心の中で悪態をつく。
「お前上手いな。やたらエロいし、いつも遅漏ぎみなのに瞬殺だったわ」
「……どうも」
いつ『帰る』と切り出そうかと思っていたら、俺のことをにやにやとした笑顔で見ていた男が先に口を開いた。そんな誉め言葉嬉しくもない。
「なぁ、バイトしないか? 車の整備士だっけ? お前の月給が一日で稼げるバイトがあるんだよ」
整備しているのはバイクだ、と心の中で思うが口にせずに首を横に振った。どんだけ条件が良くてもこれ以上関わりたくはない。
「ウリはしねぇ。金のために奉仕しても俺が気持ちよくねぇから」
「は、淫乱だな。まぁウリっちゃウリだが、そこらへんのジジイ相手じゃねぇ。話だけでも聞けよ」
聞け、というのはお願いじゃなくて命令だろう。舌打ちしたいのを堪えて口を噤む。
「気が付いてるだろうが、俺はあんまりよろしくないカイシャに勤めててな。――俺のボスが、男が好きになったらしい」
「あんたのボス?」
そんなこと喋っていいのか。そう思って思わず目を見開く。すると『他言したら殺されるから気を付けろよ』と物騒なことを何でもないように言われた。
「バカ話の一環として俺が男でも抱くっていうのを話したら、興味を示されてな」
「へぇ」
「でもな、男に惚れたっつってもボスは一度も男相手にセックスしたことがないんだと。前にも男とヤろうとしたけど勃ったことがないらしい」
「……それは無理だろ。才能ない。完全にノンケだ」
そのボスとやらがどういう男なのか全く知らないけれど、その言葉に古い傷を抉られて胸が痛んだ。ココと同じだな。男が絶対に無理な奴はいる。どういう経緯でそんな奴が男に惚れたのか知らないけれど、男同士に嫌悪感があるならしょうがないのだ。諦めるしかない。
「普通はそう思うだろ? だけどそのお相手とヤりてぇから、勃たせてくれる男を探してるんだそうだ。一度経験しちまえば慣れるんじゃねぇかって」
「そのお相手と試せよ」
「好きな相手といざヤるぞってなって勃たなかったらやべぇだろ。男はプライドの生き物だって分かってるだろ」
プライドね。ヤクザならなおのこと、そんなものを大事に抱え込んでいるんだろう。それにしても本命のために練習、なんてボスとやらは随分とその相手に入れ込んでいるようだ。
「本職のウリ呼べば?」
「ウリの若いの呼んでもブスすぎて無理、とのことだ」
「探せば結構綺麗な子いるんじゃねぇの」
「俺のボスは相当面食いだからなぁ……そこら辺の人気ナンバーワンとかじゃピクリともしねぇらしい。そのイロというかお相手とやらも相当な美形で、芸能人よりも美人らしいぞ。……でも、お前は顔も綺麗だしテクもすげぇし、ボスもお前なら勃つんじゃねぇかって思ったんだよ」
「俺は綺麗じゃねぇよ。この痣、見えるだろ」
伸びた金髪をかき上げて額を見せる。だが男はふんと鼻で嗤うだけだった。
「髪の毛おろしとけば目立たねえよ。なんなら化粧すればいい。な、悪い話じゃねえだろ? 俺はボスにいい土産ができるし、お前はお小遣いが手に入る」
「……なんて言われてもウリはしねぇ。そもそもヤクザの親玉となんか怖くて寝れねぇよ」
何を言っても引かない男に、俺はしまったと冷や汗をかきつつ、ベッドから体を起こした。そんなつもりじゃなかったのに深入りしすぎた。 これ以上はまずいことになりそうだ。いやすでに十分聞きすぎたしまずいことになっているけれど、本当にどこぞのヤクザの生贄にされたらたまったもんじゃない。
「悪ぃけど帰る」
「はは、そう言うなよ」
立ち上がって急いで床に落ちている服を拾いあげる。すると男はのっそりと体をベッドから起こしたようでぎしりと安いスプリングが鳴った。
「D&D Motorsね。チャラついた見た目だけどちゃんと働いて偉いな」
「……は!?」
なんで店名を、と振り返ると、男の指の間には薄いショップカードが挟まっている。端の折れたそれはもしかして俺の財布から抜き取られたんだろうか。ズボンのケツポケットを探ると、昨夜はたしかにあったはずの財布が見当たらない。
「他の店員や客にあることないこと言いふらされたら困るよなぁ? 例えば……乾くんがド淫乱なゲイで男喰いまくってるとか。 そうだろ、『バイク』の整備士さん」
口では笑いながら、でも瞳は商品を値踏みするような鋭さでこちらを見据えてくる男。どこから仕組まれていたのかとか、どうやったらこの男から逃げだせるのかとか色々頭を巡るけれどもとから出来の良くない脳みそは何も答えを返してくれない。
「……タチ悪ぃ」
俺にできることは、自分の迂闊さを呪いながら低い声で呻くことだけだった。