コ…イヌ、勃たない話 3 それから一週間、俺は頭を抱えて地面の中にのめり込んでしまいたいほど憂鬱な気分だった。
あのヤクザ――正確には極道の類ではなくて半グレから派生した反社会的勢力らしいが――の男は間宮と名乗った。
間宮は『手筈が整ったら呼ぶ』と言って無理やり電話番号を俺から聞き出していった。
電話番号を変えようかと思ったけれど、D&D Motorsも、財布の中の免許証で住所もバレているから逃げようがない。家はともかく店はそう簡単に引っ越せない。警察に駆け込もうにも、コトの経緯を正直に話して上手く保護してもらえるとは思えなかった。なにしろ俺はネンショー上がりで、その前歴のあるゲイがヤクザにウリさせられそうになってるなんて……どう考えても警察が親身になってくれるとは思えなかった。笑いものにされて追い払われるのが関の山だ。
呼ばれない可能性に縋っていたのだが、残念ながら間宮は有言実行の男だったようだ。
深夜に鳴った電話を取ると、聞き覚えがある声が都内の超高級ホテルの名前を告げた。土曜日の深夜22時にそこで、と。
なにしっかりセッティングしてんだよと呪いたくなるが、俺の答えを聞く前に間宮は電話を切ってしまってそれきりだ。こちらから掛け直す勇気もなかった。
――それでノコノコとやってきた俺は、マジで馬鹿なんだろうな。
指定されたホテルの一室で、備え付けられたソファに腰掛けたまま俺は死にそうなほど深いため息をついた。
結局来てしまった。来るのも怖いが来ないのも怖くて、俺はその二つを天秤にかけた結果、来ることを選んでしまったのだ。間宮の話が本当ならば相手はヤクザのボス。だけどその肩書を外せば男相手にセックスしたいだけのオッサンだ。
おそらくガマガエルのような顔をしたそのオッサンを勃たせてやって、相手の気が向いたらケツに挿れてやるってだけだ。今まで散々男とヤってきたんだから別にセックス自体は慣れているから嫌じゃねぇ。不細工も年上ともヤったことはある。ただ……下手をうって怒らせたりしたら怖いというだけだ。
準備は家でしてきた。万が一、真珠入りのチンコを突っ込まれてもいいように拡張までしてきた。俺が部屋に入ってからそろそろ30分。このまま誰も来ないで朝にならねぇかな。
そんな俺の祈りも虚しく、ガチャリと重たい音を立てて部屋のドアが開く音がした。
クソ、来ちまった。
項垂れていた頭を持ち上げる。立って挨拶でもした方がいいんだろうか。そう思って腰を浮かせると……静かな足音と共に現れたのは、予想していなかった姿だった。
しなやかな細身の体。都内でもなかなかお目にかからない上質なマオカラースーツ。細くとがった顎を長い銀髪が流れるように取り囲んでいる。こちらに視線をよこさないまま部屋へと滑り込んできた男は――ココだ。ココだった。
「悪い、待たせた……な……」
スーツの一番上のボタンを外してようやく一つ息を吐いた彼は、そう言いながら顔を上げて、そしてヒュッと音を立てて息を飲んだ。俺も言葉がでなくて阿呆みたいに棒立ちのまま彼を見つめた。
ココ。ココだ。間違いない。
見た目は変わっているけれど、俺の幼馴染。ガキの頃から知っている男で、俺の初恋の相手。まさかこんなところで……しかもこんな再会をするなんて。頭がパンクしそうだ。もしかしたらしているかもしれない。
ココは細い目を丸く開いたまま、掠れた声をだした。
「……イヌピー」
『ココ』
そう口に出そうとして飲み込んだ。
ココが、間宮の言っていたボスなのか。ということはつまり、男の恋人がいて練習相手を探しているのって、――ココなのか。
そう考えて俺は腹の奥がカッと熱くなるのを感じた。
ああ、クソ。あの男の言っていた『前にも男とヤろうとしたけど勃たなかった』って俺のことじゃねぇか。ずきずきと胸が痛む。クソ、言いふらすななんて言える立場じゃないけど気分が悪い。いや気分が悪いなんてもんじゃない。ぶん殴って撲殺してやりたい。踏みにじられて地面に転がった恋心をもう一度蹴り上げられたような気がした。
「え、……なんで、ここに……」
「間宮に呼ばれた」
「そんな、だって、え、」
反社のくせにそんなに分かりやすくうろたえるなよ。
できるだけ平静を装って口に出した言葉は、思ったよりも乾いて掠れてしまった。だけどそれを気にできないほど俺は心が波打っていくのを感じた。
ココ、ヘテロのくせにまた男と付き合ってんのかよ。そいつも赤音に似てんの? それとも本命って言うくらいだし、今度こそ新しく愛せる相手が見つかった? 俺みたいな偽物じゃなくて。俺にセックスできないって情けない顔で頭下げたこと、そいつに言ってやろうか。
どろどろとした感情が腹の中で渦巻いてはけ口を求めて噴き出しそうだった。ココを傷つけたい、酷い言葉を浴びせてしまいたい。命の恩人であれほど世話になった初恋の相手なのに、狂暴な感情が溢れ出てしまう。
これはきっと嫉妬だ。俺を好きになってくれなかったココにも、そのココに愛されているらしい恋人のことも、悔しくて堪らない。俺はいまだにココを夢に見るくらいに好きなのに、お前は一人でさっさと次の相手を好きになってる。せめて赤音に囚われていてくれればまだ良かったのに、大事にしたくなるくらい愛する人がいるなんて。しかも俺の時はセックスを試そうとすらしなかったのに、新しい恋人のためには好きじゃない相手と練習するとか、こんな形で俺が大事にされていなかったんだと思い知らされるなんて辛すぎる。俺は努力する価値すらなかった、その程度も好きじゃなかったんだと突きつけられて、苦しくて息ができなくなりそうだった。
ココを傷つけたい。
傷つけたらダメだって分かっているけど、あいつの心を抉るような言葉を吐いてしまいたい。だけどどんな言葉を考えてもどんどん自分が情けなくなる。何をいっても、まだ俺がココのことを好きなんだと証明しているようで、そんな惨めさを晒したくない一心で口を噤んだ。
「――帰る」
どれだけ見つめ合っていただろうか。
何も言わないココに、俺はなんとか口を動かしてそれだけ告げた。
俺がココに、この場所で望まれていないことだけは分かった。死人のように悪い顔色からココがどれだけ忙しいのか察した俺は、これ以上この場に留まって時間を無駄遣いする意味はないと部屋を出ようとした、が。
「え、ちょ、あ、待ってイヌピー」
彼の傍をすり抜けていこうとしたら、意外にも強い力で腕を掴まれた。服越しに感じる熱に少し驚く。なぜか俺は、ココは体温なんてないんじゃないかと思っていた。
「……ヤんの?」
俺を引き留めたくせにまた俺の顔ばかり見ているココ。そんなにこの顔が好きかよ。恋人がいるくせに、と怒鳴りたくなるのを抑えてできるだけ無感情に尋ねた。
「ヤるならベッド。ヤらねぇなら手ぇはなせ」
「イ、イヌピー……」
どうする?
無理だろ。試さなくても分かる。
俺で一回失敗しているんだ、試すまでもない。ココは俺みたいなゴツイ野郎じゃ無理だ。
永遠に思えるほど長い思案。
ココの息遣いすら聞こえそうなくらいの静けさの後、まるで何かを決意したみたいな顔をしてココは唾を飲みこんだ。
「……ヤる」
ヤるのか。予想外な言葉だった。
俺と付き合ってた時は無理だって投げ出してたのに、新しい相手のためならヤってみるのかよ。クソ、酷すぎる。俺と付き合ったのが間違いだったんだからしょうがない。ココは俺のことを好きじゃなかった。ただこの顔が他の奴とヤるのを見たくなかったってだけ。だからしょうがないと自分に言い聞かせるけれど、ココの残酷な選択にぎゅうと喉の奥が締まった。