ヒート事故三ツ谷視点:三ツ谷23歳くらい
「……で、家賃光熱費は俺が払う。それに足して生活費20万は毎月口座に振り込む。足りなければ言え」
「いやいや大寿くん。これ、俺に有利過ぎない? これじゃあ俺、ヒモになれちゃうよ?」
パソコンの画面をとん、と指でさし示しながら言う大寿くんに、俺はやや呆れたような声で呟いた。
俺たち二人の目のまえの画面には『婚前契約書』と書かれたwordが開かれている。
家賃、光熱費に生活費。それから不貞行為をした場合の取り決め、財産や家事の分担、親族との付き合い、子を成した場合の養育……。そんなことが目が痛くなりそうなほど細かく書かれた文章。
__そう。俺と大寿くんの、結婚前の契約書を俺たちは作っていた。
「うるせぇ。ド突くぞ」
「ド突いたら別居だろ? ほら、ここ」
俺が笑いながら言うと、大寿くんは大きな舌打ちをしてから俺に伸ばしかけた手をひっこめた。そしてその代わりにパソコンをカチカチと弄ると、パソコンの横の小型のプリンターが鈍い音を立てて震えて紙を吐き出した。
「後で確認して、変えたいところはペンで書いて渡せ。俺が打ち直してやるから」
「助かる~。俺、電子機器ってほんとダメでさぁ」
A4の紙が3枚。よくもまぁこんなに決めることがあったものだと不思議に思う。
大昔、まだ俺が夢見がちなガキだった頃は、結婚っていうのは取り決めとかじゃなくて、好きだっていう気持ちだけでするものだと思っていた。シングルマザーで苦労した母親を見て育って、少しづつそんな意識は薄れていったけれど、まさか自分がこんな婚前契約書を作ることになるとは。バイクに乗ってヤンチャしていたガキの頃なら信じられないことだ。
ぺらりと渡された紙を見て、俺は淡い笑みを顔に浮かべた。
「大寿くん、ありがとうね。俺と結婚してくれて」
俺の『ありがとう』を受け取った大寿くんは面倒くさそうにため息をついて、それからデカイ手でぐしゃりと俺の頭を撫でた。
「俺にもメリットがある。礼を言われる筋合いはねぇよ。……まぁ、柴家は兄弟全員、お前にたぶらかされたっていうことだな」
「ひでぇ。たぶらかしてなんてねぇだろ」
冗談めかして言われた言葉におおげさに笑ってみせる。俺の笑顔を見て少しだけ安心したような顔をした大寿くん。その顔に心の中で再度ありがとうと思って、俺は手の中の紙に視線を落とした。
俺は、柴大寿くんと結婚する。
あとたった数ヶ月後の、来年の4月。
お互いに恋愛感情はない。
だけど、この優しい男相手ならなんだか穏やかな人生を共に送れそうな気がした。
◇◇◇◇◇
大寿くんと結婚することになったのは、俺の第二の性が関わっている。
第一の性と第二の性。その二つを持って人は生まれる。
優秀なアルファ。凡庸なベータ。それから、孕む性のオメガだ。昔は”劣等”と言われていたけれど、今は法律が色々と変わってオメガであっても劣るという言い方をしてはいけなくなっている。つい数十年前までは選挙権もなかったし学校へもまともに進学できなかったらしいから、ずいぶんといい時代になったと思う。
俺は特に秀でたところがないから、当然のようにずっと自分はベータだと思っていた。だってそうだろう。たしかにマイキーやドラケンみたいに、ガキのころから人の何倍も強く魅力的で、アルファですと看板を下げているような奴とは違う。だけど俺は美人で可愛くて華奢で守りたくなるオメガというわけでもない。そこそこ強い程度ではあるけれど東卍の弐番隊隊長を張っていたくらいだし、守りたくなるような人間ではない。
だから中学三年の終わりに受けたバース検査も、当然ベータだと思っていた。だけどどんな因果か、俺はオメガだったのだ。
まさか。俺に限って。そんな訳ない。間違いだ。
そう思ってデカイ病院に行ってわざわざ再検査をしたけれど、結果は同じ。オメガ、オメガだった。体力的に強いオメガもいるとか、成育歴によっては可憐な見た目にならないオメガもいるとか、医者は微妙に失礼な説明を俺にしていたおぼろげな記憶がある。
納得できることじゃなかった。でも受け入れるしかなかった。中坊の頃はなかったヒートも、高校に入って半年ほど経ったら来るようになった。そうしたらもう自分に言い逃れなんてできなかった。ああ、そう言えば俺は背が低いな、とか。鍛えてんのにヒョロイな、とか。思い当たる節はいくつかあって、何年もかけて自分と折り合いをつけていった。
そうして服飾の学校に行って、そこではオメガの人間と何人も知り合った。大体がモデル志望だったけれど、華やかな世界ではオメガであることも武器にして生きる逞しい人間がたくさんいた。
まぁオメガなのも悪くないかもしれない。
ようやくそう思えた頃、俺は服飾の学校を出て、大きなデザイン事務所に見習いのような立場で就職して。
――そして、レイプされかけたのだ。
デザインの仕事は思った以上に体力勝負だった。ついでに言うとブラック。大きな仕事の前には徹夜なんて当たり前、みたいな環境で、オメガの俺はいつからかヒート周期が狂ってしまっていたみたいだった。
たまたま深夜に先輩社員と事務所に二人きりで、少しだけ目処の立った仕事に、コーヒーでも飲みますかと立ち上がった時だった。ぶわり、と体温が上がって、体が揺れた。
『……え? なに、』
『三ツ谷、お前、……ヒート?』
ヒート? え、嘘だろ。だってヒートはまだまだ先のはず。そう言いたいのに舌がもつれて言葉にならない。腰が抜けたように床にケツをつけて胸元を抑えていると、はぁはぁという先輩の荒い吐息が事務所に響いた。なぜだろうか気持ち悪くて仕方ない。
『せんぱ、俺の、バッグ、』
俺のバッグに抑制剤が入っているから取ってください。そう言いたくて視線を上げると、なぜか彼は俺のことを血走った瞳で見ていた。その鋭い視線に背筋が凍る。
『三ツ谷、な、お前、俺のこと誘ってんの……?』
『んなわけ、』
そんなわけあるかよ。
そう言いたかったのにこみ上げる熱に喉が詰まる。唾液があふれて口の端から垂れた。
『嘘、だろ、……そんな顔して、』
そんな顔ってどんな顔だよ。っていうか、このパッとしない男はまさかアルファだったのか。クソ、ふざけんな。ずりずりと震える手と膝で床を這って自分の鞄の方へと進もうとするが、それよりも男の方がずっと早く動いた。男が突進する勢いで蹴り飛ばしたのか、椅子が吹き飛び窓にぶつかった。ガラスが割れたような音もした。
だがそれに目もくれない男はこちらへ歩み寄ると、がしりと音がするほど強く肩を掴んでくる。そして、そのまま四つん這いの俺は重みに押しつぶされるように床に押さえつけられた。
『三ツ谷、みつや、みつや……!』
『クソ、ッテメェ、はな、せ!』
生暖かい息がうなじを撫でてぞわぞわと体中に鳥肌が立った。
嘘だろ。やばい。やばい、やばい。犯される……!
こんなところで、こんな奴に。ふざけんな死ねクソが! 大声でそう叫びながら暴れたつもりなのに、発情期の熱の灯った俺の体はびくびくと子ウサギが跳ねる程度の抵抗しかできない。大声で怒鳴ったつもりの声も、まるで喘ぎ声のようなか細い物になっていた。嘘だろう。薬のないオメガはこんなにも弱いのか。昔さんざん喧嘩してきた自負もあって自分の体ひとつくらい守れると思ったのに。たとえオメガでも自分だけは大丈夫だって思っていたのに。
男の手が俺のズボンをずり下げる。間抜けにケツを出した状態で、それでもうなじだけは守らないと、と片手で首の裏を掴んで、逃げようと膝で這う。だけどその手に男の熱い口が触れるのを感じて。ああ本当にもう駄目かもしれない。そう思った、その時。
『――おい、なにやってるんだ!!』
扉が乱暴に開かれる音と、聞いたことのない人の怒鳴り声。どたどたと走り寄ってくる足音。そして俺の上から重みがふっと軽くなって……それで俺は助けが来たのだと理解した。
あの夜は、ガラスの割れる音を不審に思って来たらしいビルの警備員に辛うじて助けられたらしい。俺は放心状態で、しかもヒートが起こっていたからあまり記憶がないのだけれど。
だけどもしあのままだったら。もし誰にも気づかれなかったら、俺はあのまま犯されていた。下手したら妊娠、もしかしたら番にすらされていたかもしれない。
その事件が落ち着いた後、俺はそのことを理解して、……オメガがどれほど不利な立場なのかを思い知ったのだ。
ヒートになったらろくに抵抗もできない。抵抗したところで「ヒート事故」と言われたら逃げられてしまう。それに、一度番にされたら解消することができないのだ。正確には、解消はできるけれどそうするとオメガは番を失う辛さから精神を病んでしまう。もう誰とも番になれないのにヒートは来るし、番に捨てられたということを体が拒否して廃人になってしまうこともあるらしい。
そのことを間抜けな俺はようやく理解して、同時にその危なさにゾッとしたのだ。俺はこのままデザイナーとして生きていきたい。それなのにオメガということが足を引っ張る。オメガでモデルの知り合いは、何度も襲われていると言って護身用のグッズを山ほど持っていた。それを聞いた時は美人は大変だななんて軽く思っていたけれど……それがどれほど恐ろしいことなのかを、今なら理解できる。俺も彼女にならって頑丈な首輪を買ってあわてて付けたけれど、それでも不安が心に巣くって落ち着かなかった。
そんな愚痴にも似たことを、長年の友人である大寿くんに酒の勢いで話したのだ。
定期的に行われる『兄貴会』。……まぁそれは俺がそう呼んでいるだけだけれど、大寿くんチョイスのこじゃれたレストランバーで飲み食いし、深夜まで近況を語ったり弟妹たちの話をするだけの会だ。その夜はやや狭いけれど本格的なスペインバルで、ハモン・イベリコを口に突っ込みながら思わず彼に零してしまったのだ。ヒートのあるオメガが憎い、と。嫌でもアルファを引き寄せて、そのくせ自衛ができないなんてどんな欠陥だよ。そんなことを言って、気が付いたらレイプされかけたことまでぺらぺらと口にしてしまった。ジュースみたいなものだと言って大寿くんが勧めてきたシドラを飲み過ぎたのかもしれない。酒に酔って、友人と言えど少々重たい話を、どんなことでも鼻で嗤ってくれる彼に全部言ってしまったのだ。
今回もそうだろうと思っての愚痴だったのに、そうしたら大寿くんから意外な提案がなされたのだ。山のようにでかい体を少しかがめて、俺と内緒話でもするように小声で。
『それだったら、俺と番になって結婚するか?』
『はぁ? 大寿くんと?』
『ああ。……いいか、笑うなよ。俺はモテる』
『あはは! 自分で言うんだ』
『だから笑うなって言っただろうが!』
『うんうん、ごめん。で?』
『…………独り身のアルファと結婚したいと思う奴は多い。オメガもベータでも。寝技まで使ってこようとする女がうじゃうじゃいて、正直辟易している。だが、俺は誰かと結婚する気はない』
『え、そうなの? すればいいのに』
きっぱりと言われた結婚する気はない、との言葉に、酔っ払いの俺は目を丸くした。大寿くんの言う通り、彼は優良物件だ。若いのに実業家で店を何軒も持っていて、アルファで、顔は男前。さらに実家は縁を切っているとは言え金持ち。バツイチでもなけれは隠し子もいない。少々言葉遣いは荒いけれど、確かに彼が言う通りモテると思う。
なんで? と首を傾げた俺に、たいそう苦い顔をした大寿くんは、絞り出すような声で呟いた。
『……今でも、弱い奴は殴りたくなるんだよ。我慢はしている。でも、一生我慢できる保証はねぇだろ』
なるほど、とは軽くは言えなかった。そんなことないよ、とも。
彼が潔癖すぎるその性格で、ガキの頃の八戒と柚葉を悪魔のように甚振ったのは簡単に許されることじゃない。今でこそ和解しているけれど、あの時に追い詰められた柚葉と八戒は、大寿くんを刺し殺してしまおうとすら思っていたんだ。それほどに彼は支配的な男だった。……そしてその性質が、今も胸の奥底に眠っていると恐れても不思議ではなかった。
大寿くんに近寄ってくるのは、きっとオメガらしいオメガ。つまり俺みたいな頑丈なのではなくて、庇護欲を掻き立てるようなか弱くて可愛いオメガだ。もし大寿くんが彼らと付き合って……一度でも手を上げたら吹き飛んで死んでしまうような。
『だから俺は結婚しない。弱い奴とは絶対に。だが独り身でいる限り、面倒なオメガがごろごろ現れる』
『……待って、だから俺と偽装結婚しようっていうの?』
『偽装じゃねぇ。契約結婚ではあるがな。お前は番ができるからヒートに振り回されないし、俺はいい虫よけができる』
『虫よけって……』
『悪い話じゃねぇだろう。お互いに、な』
悪い話じゃない。たしかに悪い話ではない。大寿くんなら気心が知れているし、俺は頑丈だから大寿くんが万が一俺をぶん殴っても大丈夫だ。なにせ大昔とは言えタイマン張ったこともあるし。
『番がいねぇとアルファもオメガも色々生きにくい。仕事に邁進するには第二の性なんて邪魔なだけだ』
『え、いや、でも……』
『? 番になりたい相手でもいるのか?』
そう大寿くんに言われて、俺はびくりと体を震わせた。
『いや、いない、よ』
『ならいいだろう。考えておけ。別に急ぐ話でもねぇが、いつまたヒート事故が起きちまうとも分からないからな』
それきり彼はその話をやめて、デザート代わりのアリカンテに手を伸ばした。お前も飲めと目の前に置かれるけれど、シドラですっかり酔った俺はそれをそっと押し返した。それに……俺はその時に、一つ大寿くんに嘘をついたのだ。
番になりたい相手。
いないと喉の奥から絞り出したけれど……本当はいた。生涯でただ一人だけ。俺の頭に彫られている龍と同じ柄を、反対側の頭に持っている男。龍宮寺堅に、俺はずっと前から惚れていたのだ。