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    noranekosuteinu

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    noranekosuteinu

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    コ…イヌ 勃たない話 本文パートのまとめ。あとはセックスシーン足すかも。タイトルは汚泥の蓮華でフィックス

    汚泥の蓮華イヌピー視点:








     ――俺の初恋は、汚泥のようなものだった。

     今思い出してもまだどろりとした感情が喉から迫り上がってくる。心が踏みつぶされてズタボロになってもう思い出したくなくて、なのにその思い出に縋りつきたくなる。そんな苦いを通り越した苦しいものだった。

     相手は幼馴染のココこと九井一。俺と違ってとてつもなく頭が良く努力家で、切れ長の瞳が綺麗な幼馴染の男だった。

     そのココが俺の姉を好きなのは知っていた。つまりは彼は異性愛者で、さらに恋敵は実の姉。告げることなく諦めるしこの気持ちは墓場まで持って行こうと、まだ幼い心にそう誓っていた。幸せに手を取り合う彼らを見ればきっと諦められる。叶わない想いに心が苦しくても、好きな二人が幸せになるなら祝福できる。そのうち両方から相談とかされるんだろうか、なんて切ないような幸せなような想像をしていた。

     ……だけど、現実は思ったのとは違う方へと進んでしまった。

     火事で姉と家と安寧を失った俺は、10代ですっかり道を踏み外してしまった。暖かだった広い家は冷たく狭いアパートに。優しかった両親は人が変わったようにギスギスとして、あの日の過失はそちらのせいだと罪を押し付け合う日々。そんな居心地が最悪な家から、俺は自由なように見えた世界へと逃げ出していた。

     辛い現実を忘れるようにバイクを眺め、家に帰らなくて済むように先輩たちに連れられて街を歩いたりバイクに乗せてもらったり。そうして俺が現実逃避している間に、ココはいつしか大きな悪事に手を染めるようになっていた。そして少し時が経ち、真一郎くんという居場所を失った俺は黒龍を復活させるために悪い道を歩き始めた。

     ただココとは違い、俺は頭が悪かった。ヘマをして少年院にぶちこまれ、気が付いたら大事だと思っていたものは全てなくなってしまっていた。

     優しい家庭、姉、真一郎くん、黒龍、……あとはなんだっただろうか。もう何もなかった。俺の手元には綺麗で穏やかで温かなものはなにも残っていなかった。

     なにも持っていない俺は失ってしまった『なにか』を得ようと必死だった。イザナに従って痛い目を見たのになにも学ばず、大寿の暴力に縋り黒龍を復活させてますます道を踏み外していった。ココを道連れにして。

     ココはそんな俺についてきてくれた……いや、大寿によってついてこさせられた。俺はその頃はとてつもない馬鹿で、そのことをよく分かっていなかったんだ。ココは俺を見ていない、ココの心は俺の方を向いていないということに気が付いていなかった。

     



    ◇◇◇◇◇




     きっかけは、些細な出来事だった。
     
     ココへの想いを持て余していた俺は、ガキのくせに一丁前に体だけ成長していて、性欲を身のうちに燻らせていた。その匂い――俺がゲイで欲求不満だってことを敏感に嗅ぎつけた黒龍の仲間に、ラブホに連れて行かれそうになったのだ。

     好きじゃない奴とヤることへの抵抗感はなかった。だから性欲のままに俺はほいほいついて行こうとして……その現場をココに見られたのだ。ラブホ街に向かって二人で連れ立って歩いているところを見つけた幼馴染は、今まで見たことがないような剣幕で詰め寄ってきた。ココの頭の中でなぜか俺が無理やりラブホに連れ込まれそうになったことになっていて、普段喧嘩なんてしねぇのに鉄パイプまで持ち出してきたからあわてて違うと弁明したのだ。その弁明のついでのように俺がゲイだとバレてしまったのだ。

     ブチ切れているココに慌てて逃げ出した黒龍の仲間の背中を見送り、どうするかと固まっていた俺に、ココは信じられないものを見るような視線を投げてきて。長い長い沈黙の後、まるで決心したように口を開いた。

    『イヌピー男が好きなの? だったら…………俺と付き合おうよ』

     彼から掛けられたのはそんな言葉だったと思う。俺はその当時荒れていて、手が付けられないほど狂暴なくせに頭が悪くてココの本当の気持ちなんて何も考えていなかった。

     ココ。ココも俺を好きでいてくれたんだ。ずっと近くにいた幼馴染の俺を。

     そう思って心が一気に浮ついたのを覚えている。ココが赤音のことを好きだっていうのは覚えていたし、それまで彼が俺を性的に好きだなんて兆候はみじんもなかった。

     なのに。
     よく考えればわかるのに。
     でもココが俺と付き合おうと言ってくれたのだと、都合よくそのことばかりを頭の中で何度も考えて浮かれまくっていた。




     だけどそれは俺が見ていた儚い夢みたいなもので、夢から覚めるまでそう時間はかからなかった。

     最初の1か月はいつも通りに過ごした。次の月には二人で出かけた時に手を握られたり、二人きりのアジトで肩を抱かれたりするようになった。そして三ヶ月目にキスをして――。

     その次の月、真っ青な顔をしたココは俺をアジトに呼びだすと死にそうな顔をして頭を下げた。

    『ごめんイヌピー……俺、やっぱり男相手だと勃たない』

     二人きりの薄暗い部屋の中でココの喉の奥からそんな言葉が絞り出された。

     男相手だと勃たない。俺相手では勃たない。

     その言葉を理解するまでたっぷり三十秒はかかったと思う。だって俺はココと付き合えてすっかり浮かれ切っていて、ゆっくりではあるけれど二人の関係は前に進んでいて。彼の心が俺の方を向いていると信じ切っていた俺にとっては青天の霹靂だった。そうか勃たないのか、なんて簡単に言えなかった。

     ココ、ココ、なんで。俺と付き合おうって言ったじゃないか。――俺のこと、好きなんじゃないのか?

     そう考えて、そう言えばココから一度も好きだなんて言われたことがないことにはたと気が付いた。俺が他の男とヤりそうになったから『付き合おう』と言ったココ。俺はずっと前からココのことが好きだったから、てっきりココも俺のことを好きになってくれたんだと思っていた。でもココは果たして本当に俺が好きだから付き合おうって言ったのか? 俺が好きな素振りなんてなかったし、よく考えると俺を好きになる要素なんてないじゃないか。

     ココは女が好きで。赤音が好きで。俺は赤音に面影が似ていて。

     鈍い俺はそのことにようやく気が付いて、膝から崩れ落ちるような虚無感が襲ってきた。

     俺ばっかりが一人で想いが成就したのだと浮かれていたんだ。ココは俺を赤音の弟としか見ていない。俺のことなんて見ていない。見るはずがない。こんな取り柄もない乱雑なだけの男、好きになる理由はない。なんで今までそのことに気が付かなかったんだ。少し考えれば分かるようなことなのに。

     泣き出したいような気分で黙って頷いた。
     本当は納得していなかったし、残酷なことをするココをなじりたい気分だった。だけどそんなことをする権利が俺にはないってそれだけは分かっていた。鈍い俺が悪いんだって分かっていた。だって普通は気が付くだろう。男に興味なんてなかったココが本気で俺と付き合うなんてあり得ない話だ。それでよく馬鹿みたいに、俺のことが好きなんだと勘違いできたと思う。

     俺の口から零れ落ちた息は震えていた。言わないと。分かった、じゃあ別れようって言わないと。なんでもない素振りをしないといけないと頭の中では分かっているのに、手足が冷たくなって動けない。時間の感覚も薄れてしまって、ただ間抜けにココの顔を見つめることしかできない。どれくらいそうしていたのか分からないけど、黙っている俺にココはさっきよりも更に青い顔をして呟いた。

    『でもイヌピー、俺と別れないで』
    『……え?』
    『俺、練習するから。お願い、俺と別れないで。イヌピーが他の誰かと付き合うのは嫌だ』

     のろのろと伸びてきた掌が、弱い力で俺の服の袖を掴んだ。

     今思えばあきれるほど我儘で残酷な言葉だ。だけどその時俺は死んでもいいほどココを好きで狂っていた。ココの言った言葉が耳を伝って脳にゆっくりと浸透していった。理解できないことが重なって麻痺した頭で、俺は小さく頷いた。

    『分かった。大丈夫だココ。……セックスなんてなくてもいいし、別れない』

     大丈夫だココ。セックスしなくてもいいし、付き合い続ける。何度もそう言って、血の気の引いた顔で震えるココの手を握った。本当は抱きしめたかったけど嫌がられるのが怖くて、手を握るだけにしたのを覚えている。

     俺のことは別に好きじゃないココ。だけど別れたくないっていうのは、赤音に似た顔の俺が他の男とやるのは嫌なんだろう。鈍い俺は、全てを語らないココの言葉を必死にかみ砕いて読み解いて、そう結論付けた。

     俺という存在は邪魔でしかない。そのことをつき付けられて自尊心はぽっきり折れたけど、それでもココが好きだから、地獄まで付き合おうと思って頷いた。

     ココの純粋な赤音への愛が、俺の心とやらを踏みつぶしてぐちゃぐちゃにしても別に構わなかった。ココと別れなくて済むならなんだって嬉しいと思った。顔が似ていなければココは俺の傍にいることすらなかったと分かっていたから。

     もし俺が赤音の弟じゃなくて妹だったら、そんなことを考えたこともある。だけど残念だけど俺は男で、取り柄も可愛げもなくて、似てるのは親から受け継いだ髪の毛と瞳の色だけだ。中身はぐちゃぐちゃでドロドロの汚泥が詰まった泥人形だ。

     ココのためなら俺が苦しかろうが悲しかろうが構わない。ココがセックスできないっていうならそれで構わないし、それでも別れないっていうなら付き合ったままでいい。俺にはどうせ他に好きな男なんてできないんだから、それだったらココの一番そばに置いてもらいたかった。

     そう思って、恋人とは名ばかりの関係を続けていた後――関東事変が起こった。




     そしてそこで決別し、その後は一度も会っていない。一緒にいた期間は長かったのに、別れはあっという間だった。依存と言えるほどココに縋りついていたのに、花垣武道に出会って、その眩しいほどの明るさに照らされて俺は彼から手を放すことができた。

     そしてそれは彼のほうも同じだったのかもしれない。マイキーという闇と出会って、ココはあっという間に俺から去っていった。好きだったよとか会えなくなると寂しいとかそんなことを言う暇もないくらい、ココはあっさりといなくなった。俺の方を見ないで立ち去ったココ。迷いのない足取りがあいつの気持ちを表しているようで、そのことを考えるとじくりと胸が痛んだ。

     まがい物の俺と無理して付き合って、でも結局俺のことを振り向きもせずに去っていったココ。

     あいつは今何をしているんだろうな、なんて今でもたまに思ってしまう。そんな自分が吐き気がするほど嫌いだった。






    ◇◇◇◇◇







    『俺、やっぱり男相手だと勃たない』
     
     




    「最悪な夢だな……」


     呻くように呟いて瞼を掌で覆う。脳裏にはまだココの蒼褪めた顔と、『勃たない』という苦しそうな彼の声が残っていて気分が悪い。最悪な目覚めだ。そしてあんな夢を見るくらい、自分自身がいまだにココという初恋に囚われていることが気分が悪くてしかたない。

     げぇ、とわざと声をだしてからベッドから起き上がる。

     自分の家のものではない柔軟剤の香りがシーツから漂ってくる。あまり好きな匂いじゃない甘ったるい匂い。ここは誰の家だっけと思いながら伸びをすると、家主がひょこりとリビングから顔を出した。



    「あれ? イヌピー起きた? シャワー浴びてきな。朝飯どっか外で食おうよ」 


     軽薄そうな短い茶髪に口元にはオシャレらしい髭。上半身裸で下にはスウェット。ココだったら絶対にしないような恰好をした男は、寝ぐせのついたままの俺に向かってそういいながらミネラルウォーターの入ったペットボトルを投げてきた。

     チャラついた見た目の男はセフレのうちの一人だ。名前は涼介で苗字は知らない。その程度の関係だ。俺にセフレがいるなんて知ったらココはどう思うだろうな、とさっきの夢に引きずられて考えかけて、どうも思わないかと考えるのを放棄する。

     ココと別れた後、俺は昼間はまっとうな人間になった。真面目にバイトをしバイクの整備の勉強をして、整備士としてD&Dをドラケンと二人で経営するまでに至った。だけどそのまっとうさは昼間だけで。夜になると喪失感や寂寥感でいっぱいになって、狂いそうになっていた。俺の中身は泥みたいな無価値なもので、その泥に人の顔が付いただけの人形はこの先だれにも愛されることなんてないんじゃないかと思って苦しくて寂しくて仕方なかった。

     そしてその寂しさを埋めるために、手当たり次第に声をかけてくる男とセックスをするようになってしまった。当時は今みたいに出会い系アプリなんてなかったから、新宿二丁目で飲んで、酒を二杯も飲まないうちにこちらに視線を投げてきた男を連れてホテルへとなだれ込んでいた。店員からは相当嫌われていたと思うし、若かったからウリをしていると勘違いされていたかもしれない。

     寂しさを埋めるためだけのセックスを繰り返していたが、ストーカーに付け回されたり刺されかけたりと色々あって、今は決まったセフレとだけ抱き合うようにしている。20代も後半になってようやく俺は学んだのだ。

    「朝飯は食わねぇ。それより、……まだ勃つ?」

     掠れた声でそう言うと、怠そうに壁に寄りかかっていた男はにやにやとしただらしない顔になって俺を見た。

    「もちろん♡」

     勢いよくズボンをその場に脱ぎ捨てると、パンツを履いていなかったのか赤黒いチンコがぼろんと零れ落ちた。それを見せつけるようにしながら膝でベッドを歩いてくる。ベッドヘッドに体を預けたままの俺を引き寄せると、無理やりフェラさせてくる。幸いシャワーは浴びていたようで石鹸の匂いが鼻の奥に広がった。

     情緒もなにもなく、まだ萎えているチンコを焦らさずに口の中に迎え入れてやる。口の中で唾液と絡めてくちゅくちゅと音をたてて舌で撫でてやると、むくむくと膨らんで芯を持っていった。この軽薄な男の取り柄は強すぎる性欲で、それは俺がセフレを選ぶときの一番の条件だった。

    「イヌピー、フェラ上手すぎ~」

     人の口に突っ込みながら軽く腰を揺すってくる。喉の奥にチンコの先が当たって苦しさがあるけれど、ディープスロートなんてもう何百回やったのかも分からないくらい慣れたものだ。完全に勃起したチンコを喉の奥まで飲み込んでやると気持ちよさそうなため息が男の口から漏れた。俺の頭を撫でる掌が嫌にねっとりと暖かくて気持ち悪いと思った。

     あの頃みたいに、ひたすら一途にココのことを想っていられれば良かったのに。ココが傍に居なくても、彼だけを好きで彼以外と寝ないで人生を終えて死ねたらよかったのに。でも現実ではどんどん体は汚れていくし、俺は俺のことを欲しがってくれる「だれか」とのセックスをやめられない。汚い男だろうが乱暴な男だろうが、俺の中で果ててくれる時だけはココよりもずっと優しい気がして、そのためなら俺の体なんてどうでもよかった。

     ぷは、と口を離して、唾液に濡れてそそり立つチンコを撫でる。ベッドサイドにいくつも置いてあるゴムの袋を男に投げて、視線で付けろと促す。そして体の向きを変えて四つん這いになり、尻を突き出して奥の窄まりを晒した。

    「昨日散々ヤったしまだ緩いだろ……早く突っ込めよ」
    「はは、イヌピー本当にセックス好きだなぁ」

     当たり前だろ。でなきゃお前とヤってねぇよ。そう言ってやろうかと思ったけれどそれよりも今はさっさと穴を埋めてほしい。催促するように尻を振ると、後孔にぴとりと熱いものが押し当てられた。

     これでいい。この間は忘れていられる。あんな惨めな初恋、なかったことにできるくらい激しくしてくれ。男が自分勝手に腰を揺すりだすのを感じて、俺は悲鳴に似た喘ぎ声を吐き出した。








    ◇◇◇◇◇





     ――失敗した。

     昔からバカだったけれど、まだ俺はかしこくなっていないみたいだ。

     ラブホのやたらと糊のきいたベッドシーツの上で、俺は無表情のまま背中に冷や汗をかいていた。目の前には、面白そうに笑いながら煙草を吹かす男。それだけだったら別に焦る必要はないのだけれど……その背中と胸に踊る、明らかに堅気ではない大きな刺青を見て俺は自分の愚かさを呪っていた。






     事の発端は、セフレにヤる予定をドタキャンされたことだった。金曜日の仕事終わりにバーのカウンターで待ち合わせ、となっていたのに、ITのスタートアップ企業に勤めるとかいう男は約束の時間を過ぎても待てど暮らせど現れない。

     苛ついたままに普段よりも多く酒を飲み時間を潰していたら、俺からの「早く来い」のラインを無視していた待ち合わせ相手からだった。

    『ごめんイヌピー、残業終わらない~泣』

     チ、と舌打ちが零れた。仕事なのは仕方がない。だけどそうなるなら早めに連絡しろ。他のセフレを呼ぶから。9時に待ち合わせにしていたのに、いつの間にかもう10時近く。他のセフレと会うにしても、他の奴もどっかで飲んだり誰かとヤったりしているだろう。今からありつけるチンコが果てしてあるのだろうか。
     諦めるか。それとも手当たり次第に連絡してみるか。そんなことを迷っていると、それほど混雑していない店内で、俺の横のスツールに長身の男が腰を掛けた。

    「誰かと待ち合わせ? 隣いい?」
    「……どうぞ」

     隣に座ったのは、黒髪をやや時代遅れに撫でつけたガタイのいい男だった。濃色のスーツに先端の尖った革靴。特に見た目に変なところはないのに、この店を訪れる男たちとは毛色の違う、すこし危なげな匂いがした。笑みを浮かべているのにどこか視線が鋭いせいだろうか。ヤンチャをしていたころに見たギラついた先輩たちを思い出す視線だ。酒でふわふわとぼやける頭でそんなことを考えた。

     普段だったらついていかないだろう。だけどその時俺は待たされた苛々と満たされない思いのせいで、男の姿は目の前にぶら下げられた餌にしかみえなくて……。そして男に誘われるままにのこのことホテルまで付いてきてしまったのだ。

     そしてひとしきり満足するまでヤり終えて……ごろりとベッドに寝転がったら、ようやく男の肌に散らばる模様に気が付いたのだ。

     フェラの時は服を脱がずにズボンの前だけを緩めて男はチンコを差し出してきたし、その後に抱かれる時はバックからされた。だから服を抜いた男の肌にでかい刺青が入っているなんてことに気が付かなかったのだ。





     ……クソ、慣れたセフレとばかりヤっていたから油断していた。ヤクザならもっと分かりやすい格好しておけよ。羽宮みたいな派手な柄のシャツにパンチパーマでもあてておけっての。

     ラブホのやたらと広いベッドの上で男と共に寝そべりながら、心の中で悪態をつく。


    「お前上手いな。やたらエロいし、いつも遅漏ぎみなのに瞬殺だったわ」
    「……どうも」

     いつ『帰る』と切り出そうかと思っていたら、俺のことをにやにやとした笑顔で見ていた男が先に口を開いた。そんな誉め言葉嬉しくもない。

    「なぁ、バイトしないか? 車の整備士だっけ? お前の月給が一日で稼げるバイトがあるんだよ」

     整備しているのはバイクだ、と心の中で思うが口にせずに首を横に振った。どんだけ条件が良くてもこれ以上関わりたくはない。

    「ウリはしねぇ。金のために奉仕しても俺が気持ちよくねぇから」
    「は、淫乱だな。まぁウリっちゃウリだが、そこらへんのジジイ相手じゃねぇ。話だけでも聞けよ」

     聞け、というのはお願いじゃなくて命令だろう。舌打ちしたいのを堪えて口を噤む。

    「気が付いてるだろうが、俺はあんまりよろしくないカイシャに勤めててな。――俺のボスが、男が好きになったらしい」
    「あんたのボス?」

     そんなこと喋っていいのか。そう思って思わず目を見開く。すると『他言したら殺されるから気を付けろよ』と物騒なことを何でもないように言われた。

    「バカ話の一環として俺が男でも抱くっていうのを話したら、興味を示されてな」
    「へぇ」
    「でもな、男に惚れたっつってもボスは一度も男相手にセックスしたことがないんだと。前にも男とヤろうとしたけど勃ったことがないらしい」
    「……それは無理だろ。才能ない。完全にノンケだ」

     そのボスとやらがどういう男なのか全く知らないけれど、その言葉に古い傷を抉られて胸が痛んだ。ココと同じだな。男が絶対に無理な奴はいる。どういう経緯でそんな奴が男に惚れたのか知らないけれど、男同士に嫌悪感があるならしょうがないのだ。諦めるしかない。

    「普通はそう思うだろ? だけどそのお相手とヤりてぇから、勃たせてくれる男を探してるんだそうだ。一度経験しちまえば慣れるんじゃねぇかって」
    「そのお相手と試せよ」
    「好きな相手といざヤるぞってなって勃たなかったらやべぇだろ。男はプライドの生き物だって分かってるだろ」

     プライドね。ヤクザならなおのこと、そんなものを大事に抱え込んでいるんだろう。それにしても本命のために練習なんてボスとやらは随分とその相手に入れ込んでいるようだ。

    「本職のウリ呼べば?」
    「ウリの若いの呼んでもブスすぎて無理、とのことだ」
    「探せば結構綺麗な子いるんじゃねぇの」
    「俺のボスは相当面食いだからなぁ……そこら辺の人気ナンバーワンとかじゃピクリともしねぇらしい。そのイロというかお相手とやらも相当な美形で、芸能人よりも美人らしいぞ。……でも、お前は顔も綺麗だしテクもすげぇし、ボスもお前なら勃つんじゃねぇかって思ったんだよ」
    「俺は綺麗じゃねぇよ。この痣、見えるだろ」

     伸びた金髪をかき上げて額を見せる。だが男はふんと鼻で嗤うだけだった。 

    「髪の毛おろしとけば目立たねえよ。なんなら化粧すればいい。な、悪い話じゃねえだろ? 俺はボスにいい土産ができるし、お前は小遣いが手に入る」
    「……なんて言われてもウリはしねぇ。そもそもヤクザの親玉となんか怖くて寝れねぇよ」

     何を言っても引かない男に、俺はしまったと冷や汗をかきつつ、ベッドから体を起こした。そんなつもりじゃなかったのに深入りしすぎた。これ以上はまずいことになりそうだ。いやすでに十分聞きすぎたしまずいことになっているけれど、本当にどこぞのヤクザの生贄にされたらたまったもんじゃない。

    「悪ぃけど帰る」
    「はは、そう言うなよ」

     立ち上がって急いで床に落ちている服を拾いあげる。すると男はのっそりと体をベッドから起こしたようでぎしりと安いスプリングが鳴った。

    「D&D Motorsね。チャラついた見た目だけどちゃんと働いて偉いな」
    「……は!?」

     なんで店名を、と振り返ると、男の指の間には薄いショップカードが挟まっている。端の折れたそれはもしかして俺の財布から抜き取られたんだろうか。ズボンのケツポケットを探ると、昨夜はたしかにあったはずの財布が見当たらない。

    「他の店員や客にあることないこと言いふらされたら困るよなぁ? 例えば……乾くんがド淫乱なゲイで男喰いまくってるとか。そうだろ、『バイク』の整備士さん」

     口では笑いながら、でも瞳は商品を値踏みするような鋭さでこちらを見据えてくる男。どこから仕組まれていたのかとか、どうやったらこの男から逃げだせるのかとか色々頭を巡るけれどもとから出来の良くない脳みそは何も答えを返してくれない。

    「……タチ悪ぃ」

     俺にできることは、自分の迂闊さを呪いながら低い声で呻くことだけだった。


    ◇◇◇◇◇

     それから一週間、俺は頭を抱えて地面の中にのめり込んでしまいたいほど憂鬱な気分だった。

     あのヤクザ――正確には極道の類ではなくて半グレから派生した反社会的勢力らしいが――の男は間宮と名乗った。

     間宮は『手筈が整ったら呼ぶ』と言って無理やり電話番号を俺から聞き出していった。

     電話番号を変えようかと思ったけれど、D&D Motorsも、財布の中の免許証で住所もバレているから逃げようがない。家はともかく店はそう簡単に引っ越せない。警察に駆け込もうにも、コトの経緯を正直に話して上手く保護してもらえるとは思えなかった。なにしろ俺はネンショー上がりで、その前歴のあるゲイがヤクザにウリさせられそうになってるなんて……どう考えても警察が親身になってくれるとは思えなかった。笑いものにされて追い払われるのが関の山だ。

     呼ばれない可能性に縋っていたのだが、残念ながら間宮は有言実行の男だったようだ。

     深夜に鳴った電話を取ると、聞き覚えがある声が都内の超高級ホテルの名前と部屋番号を告げた。土曜日の深夜22時にそこで、と。

     なにしっかりセッティングしてんだよと呪いたくなるが、俺の答えを聞く前に間宮は電話を切ってしまってそれきりだ。こちらから掛け直す勇気もなかった。
     





     ……それでノコノコとやってきた俺は、マジで馬鹿なんだろうな。

     指定されたホテルの一室で、備え付けられたソファに腰掛けたまま俺は死にそうなほど深いため息をついた。


     結局来てしまった。来るのも怖いが来ないのも怖くて、俺はその二つを天秤にかけた結果、来ることを選んでしまったのだ。間宮の話が本当ならば相手はヤクザのボス。だけどその肩書を外せば男相手にセックスしたいだけのオッサンだ。

     おそらくガマガエルのような顔をしたそのオッサンを勃たせてやって、相手の気が向いたらケツに挿れてやるってだけだ。今まで散々男とヤってきたんだから別にセックス自体は慣れているから嫌じゃねぇ。不細工とも年上ともヤったことはある。ただ……下手をうって怒らせたりしたら怖いというだけだ。

     準備は家でしてきた。万が一、真珠入りのチンコを突っ込まれてもいいように拡張までしてきた。俺が部屋に入ってからそろそろ30分。このまま誰も来ないで朝にならねぇかな。

     そんな俺の祈りも虚しく、ガチャリと重たい音を立てて部屋のドアが開く音がした。

     クソ、来ちまった。

     項垂れていた頭を持ち上げる。立って挨拶でもした方がいいんだろうか。そう思って腰を浮かせると……静かな足音と共に現れたのは、予想していなかった姿だった。

     しなやかな細身の体。都内でもなかなかお目にかからない上質なマオカラースーツ。細くとがった顎を長い銀髪が流れるように取り囲んでいる。こちらに視線をよこさないまま部屋へと滑り込んできた男は――ココだ。ココだった。


    「悪い、待たせた……な……」

     スーツの一番上のボタンを外しながらそう言った彼は、顔を上げて……そしてヒュッと音を立てて息を飲んだ。
     
     ココ。ココだ。間違いない。

     俺も言葉がでなくて阿呆みたいに棒立ちのまま彼を見つめた。 
     見た目は変わっているけれど、俺の幼馴染。ガキの頃から知っている男で、俺の初恋の相手。まさかこんなところで……しかもこんな再会をするなんて。頭がパンクしそうだ。もしかしたらしているかもしれない。

     どれだけ見つめ合っていただろうか。
     ココは細い目を丸く開いたまま、掠れた声をだした。

    「……イヌピー」

    『ココ』

     彼のあだ名を口に出そうとして……ゆっくりと脳みそが動き始めて、その言葉を飲み込んだ。

     ココが、間宮の言っていたボスなのか。ということはつまり、男の恋人がいて練習相手を探しているのって、――ココなのか。

     そのことを理解した俺は、さっきまで呆けていたのに一気に腹の奥がカッと熱くなるのを感じた。
     ああ、クソ。あの男の言っていた『前にも男とヤろうとしたけど勃たなかった』って俺のことじゃねぇか。ずきずきと胸が痛む。言いふらすななんて言える立場じゃないけど気分が悪い。いや気分が悪いなんてもんじゃない。ぶん殴って撲殺してやりたい。踏みにじられて地面に転がった恋心をもう一度蹴り上げられたような気がした。

    「え、イヌピー……なんで、ここに……」
    「間宮に呼ばれた」
    「そんな、だって、え、え?」

     できるだけ平静を装って口に出した言葉は、思ったよりも乾いて掠れてしまった。だけどそれを気にできないほど俺は心が波打っていくのを感じた。

     ココ、ヘテロのくせにまた男と付き合ってんのかよ。そいつも赤音に似てんの? それとも本命って言うくらいだし、今度こそ新しく愛せる相手が見つかった? 俺みたいな偽物じゃなくて。俺にセックスできないって情けない顔で頭下げたこと、そいつに言ってやろうか。

     どろどろとした感情が腹の中で渦巻いてはけ口を求めて噴き出しそうだった。ココを傷つけたい、酷い言葉を浴びせてしまいたい。命の恩人であれほど世話になった初恋の相手なのに、狂暴な感情が溢れ出てしまう。

     これはきっと嫉妬だ。俺を好きになってくれなかったココにも、そのココに愛されているらしい恋人のことも、悔しくて堪らない。俺はいまだにココを夢に見るくらいに好きなのに、お前は一人でさっさと次の相手を好きになってる。せめて赤音に囚われていてくれればまだ良かったのに、大事にしたくなるくらい愛する人がいるなんて。しかも俺の時はセックスを試そうとすらしなかったのに、新しい恋人のためには好きじゃない相手と練習するとか、こんな形で俺が大事にされていなかったんだと思い知らされるなんて辛すぎる。俺は努力する価値すらなかった、その程度も好きじゃなかったんだと突きつけられて、苦しくて息ができなくなりそうだった。

     ココを傷つけたい。
     傷つけたらダメだって分かっているけど、あいつの心を抉るような言葉を吐いてしまいたい。だけどどんな言葉を考えてもどんどん自分が情けなくなる。何をいっても、まだ俺がココのことを好きなんだと証明しているようで、そんな惨めさを晒したくない一心で口を噤んだ。
     

    「……帰る」

     どれだけ見つめ合っていただろうか。
     何も言わないココに、俺はなんとか口を動かしてそれだけ告げた。

     俺がココに、この場所で望まれていないことだけは分かった。死人のように悪い顔色からココがどれだけ忙しいのか察した俺は、これ以上この場に留まって時間を無駄遣いする意味はないと部屋を出ようとした、が。

    「え、ちょ、あ、待ってイヌピー」

     彼の傍をすり抜けていこうとしたら、意外にも強い力で腕を掴まれた。服越しに感じる熱に少し驚く。

    「……ヤんの?」

     俺を引き留めたくせにまた俺の顔ばかり見ているココ。そんなにこの顔が好きかよ。恋人がいるくせに、と怒鳴りたくなるのを抑えてできるだけ無感情に尋ねた。

    「ヤるならベッド。ヤらねぇなら手はなせ」
    「イ、イヌピー……」

     どうする?
     無理だろ。試さなくても分かる。
     俺で一回失敗しているんだ、試すまでもない。ココは俺みたいなゴツイ野郎じゃ無理だ。

     永遠に思えるほど長い思案。
     ココの息遣いすら聞こえそうなくらいの静けさの後、まるで何かを決意したみたいな顔をしてココは唾を飲みこんだ。


    「……ヤる」


     ヤるのか。予想外な言葉に小さく体が跳ねてしまった。
      
     俺と付き合ってた時は無理だって投げ出してたのに、新しい相手のためならヤってみるのかよ。クソ、酷すぎる。俺と付き合ったのが間違いだったんだからしょうがない。ココは俺のことを好きじゃなかった。ただこの顔が他の奴とヤるのを見たくなかったってだけ。だからしょうがないと自分に言い聞かせるけれど、ココの残酷な選択にぎゅうと喉の奥が締まった。


     ヤる。そいつのためならヤるのか。そのことを上手く飲み込めない。自分とは違う扱いをされている誰かへの憎しみが心の中にはっきりと存在する。
     なのに……同時に、俺とセックスすると決めたことに、ほんの少しだけ浮足立つような気持ちが芽生えるのを感じた。

     勘違いするな。俺はあくまで練習台。使い捨てで、上手くいかなければそれまでの相手だ。
     そう分かっているのに、じっと俺を見つめるココの視線に何かの意味を見出そうとしてしまう。粉々に砕かれてもう欠片になったと思っていた恋心が、泥の奥で眠る初恋が、未練がましく喜んでしまう。どれだけ期待したってココは『俺』を抱きたいわけじゃないっていうのに。

     ああ嫌だ。俺は練習台になることを嫌だと思っているはずなのに、ココとセックスできるかもしれないと思って喜んでしまっているんだ。
     どう言い訳しようとも、ココの裸を見てその体を舐めて擦って、あわよくば挿れてもらえるんだと想像してしまう。俺なんかじゃ勃たないだろうと諦めた振りをしているけど、どうしようもなく薄汚れた欲望が確かに潜んでいた。

     くるりと踵を返してベッドに向かうと、そんな汚い俺に気が付かないココは戸惑いがちについてきた。

    「イヌピー、風呂は?」
    「入ってから来た。準備も済んでる」
    「あ、じゃ、俺入ってくる」
    「お前はいいだろ」
    「え? でも……」
    「黙ってそこ座れよ」
     
     やたら広いベッドの端を指さすと、ココは素直に腰掛ける。腕を伸ばしてスーツの上着を剥ぎ取って床に投げ捨てた。きっと高級品だろうが知ったことか。ズボンからシャツを引っ張り出してボタンを外した。手早く押し倒してしまおうかとも思ったけれど、俺はココの足の間に跪いた。

    「な!? イヌピー!?」

     少し乱暴に肩を掴んで制止されるけど、その手を振り払ってココのズボンのベルトを抜き去り前立てを探った。

    「ちょ、待って!」
    「……おい、ヤる気あんのか。ねぇなら帰るけど」
     
     お前も童貞じゃないんだから何されるのかくらい分かるだろう。ガキみたいに慌てふためくココを睨むと、叫んだせいで血行が良くなったのか顔色がマシになったココと目が合った。明らかに困惑した様子で、細い眉毛も特徴的な釣り目も下がっている。

     俺のことを止めようとしていた手は、しばらく空中を彷徨って……それからぎゅうと強く握られた後にベッドの上へと降ろされた。まるで耐えるしかないと言わんばかりのその態度。あからさまな拒絶に心がしゅんと萎んでいく。

     ……男に舐められるだけでそんな悲鳴あげるなんて、本命とちゃんとヤれんのかよ。悪かったな。気持ち悪いことしちまって。
     ため息を飲み込んで目の前のことにだけ集中しようと彼の顔から視線を外した。

    「でけぇな」

     無理やりズボンをくつろげ、下着を押し下げて陰茎を掴み出す。まだ萎えた状態だっていうのにぼろんと音がしそうなほどでかくて、思わず口に出してしまった。黒龍時代もココの上半身裸とかは見たことあるけど、ここは見たことなかった。俺と違う黒々とした下生えに縁どられた陰茎。その先端はカリ高で、幹の部分は血管が浮き出ていて凶悪な見た目をしている。涼し気なココの容姿には相いれないが、彼の男らしい堂々とした立ち振る舞いはここの自信から来たのかとぼんやりと思った。

     ……って、いつまで見つめている気だよ。淫乱が。
     見入ってしまった自分を恥じるようにそう心の中で突っ込んだ。ココの気が変わらないうちに、と口の中に唾を溜めながら亀頭にちゅ、と音を立ててキスをした。

    「……ッ!」

     たったそれだけでピクリとココの体が跳ねる。触られるのも嫌だろうが、逃がさないように陰茎に手を添えて俺の方を向くようにして持ち上げる。ぱかりと口を大きく開けて、ベロを見せつけるようにして亀頭を舐めてやる。イヌピーの舌って真っ赤でエロい、とセフレのうちの誰かが言っていたのを思い出していた。

    「ふ、……、ん、……」

     亀頭を口から出した舌で十分に舐めて濡らしたら、そのまま口の中に飲みこんでやる。ついでに、と竿の部分に添えていた手を握り込む形に変えて、ゆっくりと動かそうとしたら。

    「……ん?」

     びく、と震える陰茎に違和感を覚えた。

     おかしい。いや、いつもやってるフェラと違わないから最初は慣れたものだと思っていた。……だけど、ココ、なんで。

    「勃ってる……」

     あまりにもあっさりと勃起したそれにびっくりして、亀頭をしゃぶっていた口を離した。

     間宮の言葉から、てっきりココは男相手では擦られようが舐められようがピクリともしないのだと思っていた。気持ち悪いとさっきまで態度にだしていたし。だからウリ専並み――かどうかは分からないが、手慣れている俺のテクを総動員して勃たせる予定だったのに。

     普通に他の男と同じように勃ち上がった陰茎。なんなら他の男よりもビキビキとそそり立つそれは硬そうで、ほんのちょっと舐めただけなのに鈴口からじわりと先走りすら漏れている。

     どうしようか。まさかこんなに簡単に勃つなんて。

     さっき勘違いするなと自分に言い聞かせたのに、心の中でぞわぞわと期待が押し寄せてきて俺の正気を飲みこもうとしていく。

     ココ。12年前は俺をセックスの対象として見れなかったココ。だけど今は違うんじゃないか? あの純粋でナイーブだった頃とはお互い違って、心は薄汚れてるしきっと爛れたことも散々してきただろう。

     陰茎を見つめていた視線を外してココの顔を見ると、彼も驚いているのか勃ったそれを見つめて絶句している。

    「……このまま挿れるか?」

     もうフェラなんていらない位に勃起している。これはあくまで練習で、ココも俺も気持ちよくなったり愛し合ったりするためのセックスじゃない。だったらさっさと次の段階へと進んでしまった方がいいんじゃないか。立派に勃ったそれは後ろに突っ込むには申し分ない硬さで、だらだらと舐める意味はない。

    「慣らしてきてるからすぐ挿れられる」
    「え、あ、いや、」

     勃起したことに戸惑った顔のココ。俺は彼の言葉を待たずにその場に立ち上がると、履いてきたスキニーを脱ぎ捨てる。ズボンと一緒に下着もまとめて脱ぐと、上は着たままの間抜けな姿でココの肩を押した。

    「本番で中折れしたら困るだろ?」

     口が勝手に言い訳のような言葉をべらべらと吐き出す。もっともらしいこと早口で言った俺は、押されてベッドに体を横たえたココの上に跨った。

    「そのまま寝てろよ。上乗ってやる」

     触られてもいないのに、は、と息が荒くなる。初めてセックスした時よりも心臓がバクバクと早鐘を打つのを感じた。
     やばい。興奮しちまっている。
     ココ、ココとヤるのか。俺のことを抱けないって言って振ったココと。俺の初恋の相手と。

     腰を落として片手でココの陰茎を掴む。まだ硬さを保ったままのそれを指先で撫でた。萎えさせないようにすりすりと愛撫しながら性急にそれを後孔に宛がった。

     あ、入る……。

     そう思った瞬間、――俺は強い力で突き飛ばされた。


    「やめろ!」



    「ッ! うわッ!」


     ドン、という衝撃が胸を叩き、体が大きく揺れた。ココの上で陰茎を挿れようとした歪な格好をしていたせいで上手く踏ん張ることができない。ベッドの上に尻もちをついた体は、そのままバランスを崩してごろんと床の上まで転がり落ちた。


    「い、痛ぇ、……、」
    「あ……!」

     何が起きたのか一瞬分からなかった。

     目の前のココに涎を垂らしていた俺の脳みそはとっさに反応できなくて、揺れた視界の先の高い天井がなにかも分からなかった。そして遅れてやってきた床に打ち付けられた後頭部と背中から襲ってくる鈍い痛みに、自分が無様に床に転がっていることを知った。

     突き飛ばされた? 俺は突き飛ばされたのか。

     ココのやめろという声が耳に残っている。
     あれだけ勃起させておいて、いざ挿入しようとしたら嫌になったのか。

     天井を見上げたままの格好で、興奮しきっていた頭が冷えていくのを感じた。
     
     ヤると言ったココ。フェラされても文句を言わずに耐えていたココ。だけど最後は拒否されたのか。
     がっついた自分への恥ずかしさと拒否された悲しさがないまぜになって言葉がでない。
     
     はは、やっぱり無理じゃねぇか。フェラでは勃てても、ケツに入れるのは無理。
     お前は心の底からヘテロなんだな。
     ざまぁみろ。こんなんじゃ本命ともセックスできねぇな。

    「あ……! ちが、イヌピー、ごめ、大丈夫?」

     焦った顔をしたココが床にまで降りてきて俺を助け起こす。肩を支えて抱き起されるが、その手を俺は振り払った。

    「帰る」
    「待って。本当にごめん、そうじゃねぇんだ」

     立ち上がって下着とズボンを床から拾って身に着ける。そんな俺の腕をココが掴むが、緩く引っ張るとあっさりと外れた。

    「謝んなよ。じゃあな」

     謝られたら余計に惨めになるだろ。そうはさすがに言えなくて、ソファにかけてあった上着を羽織ると足早に……ほとんど駆けだすほどの速さで俺は部屋から逃げ去った。


     
     やけに遅く感じるエレベーターから足を踏み出し、誰とも目を合わさないように俯いてホテルを飛び出す。深夜のビル風がやけに寒くて体がぶるりと震えた。

     スマホを取り出して通話履歴を開き、上のほうにあった間宮に掛ける。数コールもしないうちに出た男の声音は少し不機嫌そうだった。


    『早すぎだ。ダメだったか?』
    『いや、勃った。けどセックスは無理だった』
    『お、勃たせられたのかよ』

     俺の言葉に一気に間宮の声が明るくなる。

    「しゃぶればいける。例のお相手とやらに伝えとけ」
    『はは。お前みたいに上手い奴そんないねぇからなぁ。ボスに聞いてからだが、次も呼ぶかもな』
    「呼ばれねぇよ。あと金はいらねぇから、もう二度と俺と関わるな」
    『は? おいお前、そんなこと……』

     間宮はまだ何か言いそうだったが言葉の途中で無理やり切った。そのままスマホの電源を落としてケツのポケットにねじ込んでおく。明日の朝になったら着信拒否の設定をしておこう。

     こいつのせいで、と考えかけてそうじゃないなと思いとどまる。間宮はきっかけに過ぎない。結局は――ココへの淡い期待を捨てきれなかったのは俺なんだ。とっくに捨てているべき感情を後生大事に抱え込んでいたせいだ。それが惨めで悔しくて悲しくてぐちゃぐちゃになりそうだった。

     ココに救われた命を捨てたいなんて思ったことはない。だけど今日だけはいっそ楽になってしまいたいと心から願った。

     初恋の相手に二度も振られた夜は、最低な気分だった。



    ◇◇◇◇◇







    「すげぇ不細工……」

     少し水垢のついた安いユニットバスの鏡に映るのは、腫れぼったい瞼に充血した瞳。顔全体もいつもよりも一回り大きく膨らんでいる気がする。蛇口から流れ出る真冬の冷たい水を勢いよく顔にたたきつけるけど、何度見てもその顔はマシにならなかった。

     ――昨日は散々だったな……。

     ホテルから逃げかえって部屋に戻ったけれど、気持ちは落ち着くことはなくて声を上げて泣いてしまった。いい歳した男が泣くなんてと思っていたけれど、悲しさと腹立たしさが胸の中で膨れ上がって止まらなかった。喧嘩っ早かったガキの頃だったら悲しさを消化できなくて暴れていたかもしれない。そうして泣きながらいつの間にか眠ってしまって朝になったようだけれど、今まで泣いた経験なんてそれほどなかったせいで、自分がこんな顔になるなんて思ってもいなかった。
     
     ココが俺をセックスの練習相手として使おうとしたこと。俺が愚かしくも期待してしまったこと。なのにいざとなって拒絶されたこと。それらが短時間で折り重なって俺の心はパンクしてしまったみたいで涙腺が壊れてしまった。なんで俺のことを見てくれないんだ。どれだけ愛しても、ココが一欠けらも心を返してくれないことが悲しくて辛くてやりきれなかった。求められていないと頭では分かっていたのに、犬のように涎を垂らして彼に襲い掛かって、あげく追い払われたことが悔しくて恥ずかしくて心がズタボロになった。
     
    「……ココは悪くねぇのにな」

     自分の身勝手な怒りと悲しみが醜くて、重たいため息が漏れてでた。

     ココ。赤音のために道を踏み外して、すっかり悪に身を染めた幼馴染。だけど本当は震えるほど優しい男なのを知っている。赤音のためになんでもした男は、今は新しい恋人のために何でもしているんだ。いつまでも過去に囚われていないで、新しい恋を見つけた。ただそれだけのことなんだ。俺もいい加減、初恋なんて諦めないと。

     そのことがヒシヒシと身に染みた。
     あれだけきっぱりと拒否されて、ココにはもう恋人がいて、俺の恋がうまくいく可能性なんてゼロパーセントだ。こんな絶望的な片想いをいつまでも抱えているから、無駄に傷ついて泣いて、あげく逆恨みみたいな感情まで持つ羽目になるんだ。俺がこの恋心を手放せばいいだけの話なのに。

     俺にはなんで他に好きな人ができねぇんだろうか。なんでずっとココを好きなんだろうか。
     あの燃え盛る炎の中から救い出してくれた時……きっと俺は一度あそこで死んで、ココだけのものに生まれ変わってしまったんだろう。それまでの乾青宗は灰になって消えて、ココのことしか考えられない俺が生まれたんだ。だけどココが本当に助けたかったのは赤音で、俺は価値がない存在で……そこから全てが狂ってしまったんだろう。

     なんで俺が生き延びてしまったんだと、もう何百回目かになる問いを宙に投げかけて、その虚しさに項垂れた。きっとココもそう思っている。誰よりもそう思っている。そして間違えたことを彼自身の中で責め続けていることも。だけどそのことを考えると辛すぎるから、あえて目を逸らすようにしていたのに。

     悪いのは俺だ。
     悪いのは全部俺。
     望まれていないのも俺。
     誰にも愛されないのも俺。

     ドロドロと重たい気持ちのままバスルームから足を踏み出すと、ベッドサイドに放置されたスマホに気が付いて電源を入れる。昨日電源を落としたままだったそれを充電ケーブルに差し込むと、起動のための少しのタイムラグの後に画面が光った。

     ヴ、と軽い音が鳴って、着信通知のSMSが届いているのが分かった。昨夜俺が電源を落とした後、誰かが複数回電話をしてきたみたいだった。

     ショートメールの画面を開くと、着信通知のメッセージの他に、間宮の電話番号から何度も短いメッセージが届いていた。

    『電話切ってるのか?』
    『どこにいる? かってに電話切りやがって』
    『家に行くぞ』
    『乾』
    『電話に出ろ』
    『シカトするな』
    『頼む、出てくれ』
    『掛けなおして欲しい』
    『乾、頼む、話がしたい』

    「間宮、意外としつけぇな」

     まだまだずらりと出てくるメッセージ。なぜか途中から下に出てきていて敬語になっている。もしかして、ココに俺が幼馴染だったことを聞いたのかもしれないな。それで怒られたんだったらざまあみろだ。

     着信拒否に設定したけれど、それから今後どうなるか少し不安に思った。

    「ドラケンには言わないといけねぇかな」
     
     ココなら俺のことをそう悪くしない気はするが、間宮は分からない。ココに怒られた逆恨みに、と俺のことを店で言いふらされるかもしれない。ココも部下のイヤガラセなんて小さいことは止めたりもしないだろう。

     それでドラケンに迷惑を掛けたら合わせる顔がない。表向きは共同経営者だが、実情として俺は接客に向いていなくてドラケンにかなりお世話になっている。もともとは真一郎くんの大切な店だ。万が一でも経営にひびが入るようなことはしたくない。

     俺がゲイで、しかもセフレが何人もいるような淫乱だとか説明するのは気が進まない。いつも明るく笑う男がどんな表情をするんだろうか。だけど相談しないわけにもいかない。
     ふたたび大きなため息を吐き『今日、店が始まる前に話がある。時間が欲しい』とメッセージアプリでチマチマと入力していると、俺がそれをドラケンに送る前にヴヴ、とスマホが揺れた。


    『イヌピー、ちょっと大事な話があるんだけど』
    「……ん?」

     タップしてメッセージを見ると、送ってきたのはセフレのうちの一人だった。

     茶髪に髭の軽薄な男。間宮と会う何日か前にセックスした男……涼介だった。セックスをしようという誘い以外にもたまに連絡してくる男だけれど、こんなに早い時間に連絡してくるなんて珍しい。

     すぐに返信すべきなのか迷っていたら、既読がついたことに気がついたらしい相手から着信があった。

    「どうした?」
    「悪いイヌピー、今から出て来れる?」
    「は? いや、俺今日仕事があるんだけど」
    「俺さ、今イヌピーの家のすぐそばにいるんだよ。通りに出たところの駐車場」

     窓のそばまで歩み寄り通りを見ると、たしかに男が立っているのが見える。まだ朝早い時間でほかに人影はない。

    「マジで大事な話があるんだよ。すぐ済むからさ、お願い」

     わざわざ家まで来るなんて。
     本当に緊急事態なのかと、部屋着の上にコートを羽織ってスニーカーに足を突っ込んだ。

     2階の部屋から階段で降りて涼介の元まで歩み寄る。遠目に見た男は、相変わらずの風貌だがどこか顔色が悪かった。

    「イヌピー」
    「こんなところまで来て、なにかあったのか?」

     涼介の目の前に立つ。俺よりも少し背の高い男は、こちらを見下ろして気まずそうに顔を歪めた。

    「ごめん、イヌピー」

     なにが、と聞く前に。
     男の後ろの車の扉が開いて、長い黒髪の女が飛び出してきた。

    「あんたが涼介の浮気相手?」
    「……は?」
    「信じられない……こんなゴツい男とヤってたなんて…!!」

     キッと音がしそうなほど鋭い視線で俺を睨んだ女は、状況についていけない俺を掴みかかりそうな勢いで怒鳴ってきた。

    「すっとぼけないでよ! ラインのやり取りも全部見たから知ってるのよ!」
    「いや浮気って、お前彼女いたの?」
    「彼女? 違うわよ! 妻よ、妻!」

     男のほうを向いてそう尋ねるが、その返答は『妻』らしい女がしてきた。彼女の口から飛び出してきたその単語に驚いて、俺は目を剥いた。

    「結婚してたのか? ……それは最低だな、お前」

     セフレとして関係を持ってそろそろ1年程になるが、そんなこと一度も言わなかった。最初からフリーで、誰とも付き合う気はない、と言っていたか
    らセフレになったのだ。それが彼氏や彼女どころじゃなく、結婚までしていたなんて。面倒なことになった。なんだかこの間から面倒なことに巻き込まれすぎだ。

    「は、だれかれ構わずセックスする奴にそんなこと言われたくないね」
     
     顔を顰めて涼介を非難すると、彼は開き直っているようで、俺のことを鼻で嗤う。そしてくるりと女の方を向くとどこか小馬鹿にしたような口調で話し始めた。

    「これで気が済んだ? 浮気相手は男なんだから妊娠しようもないし、女よりマシだろ?」
    「マシなわけないじゃない!」
    「それにさぁ、お前の方が先に浮気したんだろ? だから別居する羽目になったんだろうが」
    「私のせいだって言うの? 私が先ってあなたは言うけどそんな証拠ないじゃない! 一緒に住んでた頃からあっちこっちで遊び歩いて!」

     二人とも徐々に加熱して口論がヒートアップしていく。互いにそっちが悪いとギャアギャアと口汚くののしり合っている様を見てげんなりとする。詳しいことは知らないけれどどっちもどっちにしか見えない二人を前に、そっと一歩後ろに下がった。

     俺、帰っていいか?
     たしかにセフレだったけど、決まった相手がいるのなら手を出す気はない。そもそもコイツは性欲が強いっていうだけで寝ていたような相手だし、向こうも俺のことをただの淫乱としか思っていなかったらしいし。

     修羅場を繰り広げる二人から、そぅっと逃げ出そうとしたその時。

    「どうしてこんなに言ってるのに、分かってくれないの……」

     急に小声になった女が、着ていたコートのポケットに手を突っ込んだ。
     そして抜き出された手には、鈍く光を反射する銀色のナイフ。

    「……は、!?」
    「お、おい!」

     ナイフ。
     家庭で使う包丁程度の大きさ。だけど興奮した状態でそれを持っている相手を前にして、一気に緊張が走った。散々危ない喧嘩をしてきたけれど、ナイフは喧嘩では御法度だった。小さなものでも簡単に命を取ることができるそれを使ってネンショーにぶち込まれた奴を何人も知っている。

    「う、嘘だろ、」
    「おい、それは下ろせ。冗談じゃ済まなくなる」

     ビビったらしい涼介が素早く俺の後まで逃げてくる。それを背中に庇うようにして、彼女の持つナイフを指さした。

    「冗談? そうよ、冗談じゃないわよ……男に旦那を寝取られたなんて、冗談じゃないわよ!」
    「うわッ……!」
     
     ぎゅ、とナイフを両手で握った女が、こちらへと突進してくる。
     避けるか。いや、避けたら男が刺される。蹴り上げる?間に合いそうにない。喧嘩から離れて鈍った体が動かない。

     ――刺される。

     嘘だろ。死ぬかもしれない。

     いつか死ぬならココのためだと思っていた。ココのためなら死ねると思っていた。なのにこんなところで名前も知らない女に、セフレを庇って殺されるのか。身から出た錆とは言えクソ過ぎる死に方だ。

     ココ。ココ、お前のために命を使いたかった。散々助けてくれた礼がしたかった。最期まで俺は役立たずだ。

     体が固く強張って、もう駄目なんだろうと思ったその時。
     ガン、という大きな音と共に、女の体がゆらりと揺れた。

    「……ッ!」

     揺れたと思った女は俺に辿り着く前に地面に突っ伏すように崩れ落ちる。どうしたと言うんだ。

    「な、……に、」

     助かったのかも分からなくて、詰めていた息を吐くと、遠くから耳に馴染んだ声が俺を呼んだ。

    「イヌピー!」
    「……ココ?」

     ココの声に聞こえる。幻聴だろうか。だけど幻聴は幻覚を伴っているのか、昨夜見たのと同じマオスーツを身に着けたココが、紙のように白い顔をしてこちらへと走ってくるのが見えた。長い銀髪が揺れていた。

    「怪我は!?」
    「ココ? 本物?」

     本物? まさか。いやでも幻覚なら触れた感覚があるのはおかしい。まさかもう死んじまったのか?
     ぎゅうと抱きしめられているみたいだけど、天国じゃないよな。

    「イヌピー、イヌピー、どこも怪我してないよな!? 俺の声聞こえる!?」
    「あ、……ああ、平気」
    「良かった……乗って、とりあえずここから離れよう」

     抱きしめられたまま引きずられるようにして傍に寄ってきた車に乗せられる。暖房の効いた車内に入ると、さっきまでの修羅場が嘘のように静かになって、ドクドクと自分の心臓の音だけが聞こえる。全てのことに現実味がなくて、まるで夢の中にいるようだった。俺の尻がシートに落ち着いたのと同時に、行き先も告げずに車は滑らかに動き出した。

    「ココ、さっきの、あれ……」
    「平気、俺たちでなんとかしておくから」
    「でも、俺のダチ、みたいなのも、」
    「イヌピー。いいから。俺が処理するから。任せておいて」

     急に跳ね飛ばされるように倒れた女。弾けるような音。あれはまさか撃たれたんじゃと思うけど、ココは俺の言葉をピシャリと遮った。ビビりすぎて腰を抜かした涼介も彼がなんとかするらしい。なんとか……っていうのが、果たして安全なものかは分からないけど。

     口を噤むとコートを引っぺがすようにして脱がされて、ペタペタとあちこちを調べるように触られる。腹も背中も尻も足もすべてくまなく触られて、ようやくココは安心したように息を吐いた。

    「怪我してなくて良かった……」

     ココの頭が俺の胸によりかかってくる。その重たさに、俺もようやく自分は安全なところにいるんだと理解して体から強張りが抜けていった。

     またココに助けられてしまった。俺が助けたいと思っていたのに、いつもこうだ。俺は足を引っ張るばかりで、ココは俺の面倒を見るばかり。歪で不平等な関係は、永遠に変わらないのかもしれない。


     俺も長く細いため息をつくと、そっと辺りに意識を這わす。革張りのシート。フルスモークの窓。車種は分からないけど明らかな高級車の中で、ココのつけている香水のサンダルウッドの香りが仄かに鼻を掠める。前から視線を感じて目玉だけを動かして見ると、そこにはなぜか顔中に派手な痣と切り傷をつくった間宮がハンドルを握っていた。あいつは運転手だったのか。なんであんなにボコボコになっているんだ。視線が合うと間宮は怯えたように前を向いて、バックミラーに俺が映らないように調節した。

     俺に寄りかかったまま動かないココの肩にそっと手を掛けると、黒龍の時よりも痩せた体がぴくりと跳ねる。

    「ココ、俺の家の前にいたの、偶然じゃねぇだろ」
    「うん……ごめん」
    「いや、助かった。またお前に命を救われたな」

     また助けられてしまった。
     いつまでたっても情けない自分に苦笑も漏れない。だけどココはもう昔の優しい幼馴染じゃなくて、立派な反社だ。そんな彼がただ親切で俺を助けるとは思えなかった。

    「なぁ、なにが目的だ? 金もないし、俺はお前の役にたたねぇよ。俺にできることと言えば……そうだな、鉄砲玉になることぐらいだ。それもちゃんとできるか分からねぇけど」

     力を抜いてもたれてきていたココが、俺の言葉に顔を上げた。

    「違う」
    「じゃあ何だよ。お前のセックスも俺じゃ勃っても最後まではできねぇだろ?」

     金でもない。兵隊でもない。セックスでもない。だとすれば一体なんなんだろうか。俺にはなにもない。ココに渡せるものなら何でもあげたいけれど、あいにく何も持ち合わせていない。俺の中には汚い泥が詰まっていて、そんなものを欲しがる人はいないんだ。そんなつもりで言った俺に、ココは泣きそうな顔をした。

    「イヌピーごめん、俺はイヌピーに酷いことした。今更だって思うかもしれないけど、伝えたいことがあって」
    「うん」

     静かな車内で、ココが真正面から俺を見つめる。至近距離から香るサンダルウッドの匂いにくらくらしそうだった。こんな距離で話すのも最後だろうと彼を見つめていると、ココが大きく唾を飲みこむ音がして。それから彼は何かを決意したかのように瞳に力を込めた。

    「俺と、……ヨリを戻して欲しい」



    「……は?」


     予想外だった言葉に間抜けな声がでてしまった。口を開けて目を見開いた俺に、ココは真剣な表情を崩さない。

    「何言ってるんだココ」
    「そのままの意味だけど」

     じとりとココを睨みつけるけれど言葉を撤回する気はないようで、そのことにじわりと苛つきがこみあげてくる。もとから俺は辛抱強いタチじゃない。ココが望むならなんでも捧げようと覚悟したのに馬鹿にされた気がして、腹が立った。

    「おい、車止めろ。下ろせ」
    「待ってよイヌピー、帰ったら間宮のこと殺す」

     息をするように人のこと脅しやがって、反社め。なんで間宮なんだよ。間宮なんか知るかよ。寝たけどセフレですらねぇぞ。そう言おうかと思ったら運転席から『ヒィ』と情けない声が聞こえてきて、それは口の中に留めておくことにした。

    「ココ、俺はお前のタチの悪い冗談に付き合ってる暇はねぇ。お前好きな奴いるんだろ。俺をからかってないでそっち行けよ」
    「イヌピーこそ何言ってんだ、好きなのはイヌピーしかいないって」

     睨みつける俺の視線なんてものともせずにココは俺の手を握ってくる。
     その口から好きという単語がでてきて、俺はますます額に青筋を立てた。

    「? テメェふざけんなよ……!」

     ふざけんなよ。
     俺の初恋を踏みにじったのも、その後に延々と俺の心に居座り続けるのも全部俺が悪いと諦める。だけど何度も俺の心をぺちゃんこにしたお前が、好きとか言うんじゃねぇよ。なにか腹積もりがあるとしてもそんな手段だけは取ってほしくなかった。

    「俺相手じゃ勃たないだろ! 俺とセックスできねぇって12年前も言ってたじゃねぇか! 昨日だって俺のこと跳ねのけておいて、何の茶番だよ!」

     波だった感情のままに怒鳴りつける。握られていた手を振り払うと、ココはなぜか少し傷ついた顔をした。未だにどろどろとした怒りに似た感情が頭に渦巻くけれど、何度も息を吐いて声のトーンを落とした。

    「……ココ、言っただろ。お前の鉄砲玉くらいにはなってやる。誰か殺して来いって言われても従う。お前に救われた命だ。こんな芝居うたなくても、お前のために死ぬから」

     だからもう俺の気持ちをかき回さないでくれ。苦い物を飲みこむように呟いた俺に、ココはなぜかしばらくぽかんとした表情になって、それから勢いよく首を横に振った。

    「待って、待ってイヌピー。違う。たぶんだけど、俺のこと誤解してる。俺はイヌピーのこと利用しようとなんて思ってない」
    「……じゃあ俺に何の用だよ」
    「好きなんだよ。本当に」
    「ココ、その冗談はマジでやめろ」
    「冗談じゃねぇって」

     俺に勃たないくせに。そんな気持ちが顔に出ていたのか、ココは少し気まずそうに視線を彷徨わせた。

    「その、さっきから言ってるイヌピーに勃たないってやつな……そう思い込んでたんだよ。この間まで」

    「……思い込んでた?」

    「うん。イヌピーと付き合ってた頃、ゲイビ見て勉強しようとしたんだけど、グロくて吐いて。で、あんなん絶対ぇ無理だって決めつけてイヌピーともセックスできないって突き放しちまって……。だけど別れた後もイヌピーのこと諦めきれなくて、ウリとか他の男で試してみてたんだよ。そいつらとヤれたらイヌピーに会いに行こうって思って。昔言っただろ? 練習するって」
    「……覚えてない」
    「覚えててよ。で、いくら試しても全然ダメで、やっぱり俺はイヌピーに触るのは無理なのかなってここ数年は諦めてたんだけど……そこでイヌピーが来て」

     真っ黒い黒檀みたいな瞳がじっと俺を覗き込んでくる。いつも気持ちをさとらせないように余裕の色を見せている瞳が、なにかを訴えるかのように揺れていた。

    「やっぱりイヌピーじゃなきゃダメだって思い知った」

     さっき振り払った手を再び握られる。さっきよりもおずおずと戸惑いがちに伸ばされた手。力仕事なんてしなそうな、しなやかでよく手入れされた美しい手だった。
     でもそれよりも頭の悪い俺はココの言いたいことが分からない……いや、もしかしたらと期待しそうになって、でもそんな都合のいい話があるわけないと疑っていた。

    「何が言いてぇ」
    「……俺はずっとイヌピーが好きだったってこと」
    「本命は?」
    「本命はイヌピーだって」
    「信じられねぇ」
    「信じてよ。なんでもする」
    「俺、泥みたいなやつだぞ」
    「泥? そんなわけあるかよ。めちゃくちゃ綺麗だろ」
    「……俺のこと抱けんの?」
    「めちゃくちゃ抱ける」
    「でも昨日はやめろとか言って突き飛ばしただろ」

     それで昨日は泣く程ショックを受けた。あんなことしておいて好きだなんてどの口で言うんだ。据え膳食わなかったくせに。む、と口をへの字に曲げると、ココはまるで呆れたような顔をつくった。

    「あのな、お前は違うだろうけど、俺は別れてもずっとイヌピーが好きだったんだよ。心の準備もなくその相手と急にヤることになったんだよ。テンパるだろ。つーかな、俺はイヌピーとヤるんだったらちゃんと付き合ってもらって夜景の綺麗なホテルでって決めてたんだよ! 買い物デートして、ディナー食べて酔わせてからって!」

     なんだよその昭和なデート。だいたい別れてもずっと好きって。……ずっと好き? ココが俺のことを? 本気で言っているのか。

    「……信じらんねぇ」
    「どうしたら信じてくれる?」

     そんなことあるのか。まだ騙されているんじゃないかという気持ちで呟いた言葉に、ココが声をかぶせてくる。

    「ね。俺とヨリ戻して。イヌピー今は決まった相手いないんだろ?」

     ココの綺麗な顔がぐいと迫ってくる。その圧力に押されるように後ずさるけど、すぐに車のドアにぶつかって行き止まりだ。
     

     このココの言葉にうなずいたら、また俺は傷つくのかもしれない。
     また期待して跳ねのけられて、次こそはボロボロになって死ぬほど辛い目に遭うかもしれない。
     
     でも。
     でも、どうせココのためなら捨てていいと思った命だ。どれだけぐちゃぐちゃにされても、俺は汚泥と同じなんだと思い知らされる結果になっても、それが俺の人生なんだと諦めるしかないのかもしれない。だって俺は灰の中から、ココのために蘇ったのだから。

     ケツのポケットからスマホを取り出すと、作りかけていたメッセージ画面を開き、それを送信する代わりに通話ボタンを押した。

    『もしもし、イヌピー?』
    「ドラケン、悪い。今日、2時間、いや1時間だけ遅刻してもいいか? すげぇ大事な用ができた」
    『あ? 別にいいよ。っていうか用事あるなら休んでいいぞ。急ぎのメンテもねぇし。イヌピーずっと有給も取ってないだろ』
    「……助かる」
    『ん。じゃあな』

     通話の切れたスマホを仕舞いココに向き直る。
     ドラケンの名前を聞いて眉を寄せたココを引き寄せて、その唇を無理やり奪った。

    「ん、ん、……!?」

     子供だましの触れるだけのキス。それから一度離れて、逃げられないように両腕を首に回してがっちりと掴み、ベロで唇を舐め回す。驚いたココが口を開いたところを狙って咥内に舌を潜り込ませた。

     じゅ、とかぐちゅ、とか下品な水音が車内にこだまする。わざとぺちゃぺちゃ音を立ててココのベロをしゃぶって、垂れた涎を飲み下して、ほんのり赤く染まった唇に噛みついた。

     は、と息を吐いて口づけを終える頃にはお互いに息がすっかり上がっていた。驚きに目を丸くするココを見て、俺はにやりと唇を歪めた。

    「じゃあ、信じられるように証明しろ。夜景もディナーもいらねぇから」
    「は……反則だろイヌピー……なに今のエロいキス。もう勃っちゃったんだけど」

     ココの股間に視線を落とすと、ゆったりとしたマオカラースーツの上着に隠れてはいるが持ち上がっている。あっさりと勃ち上がったそれを見て嬉しさと同時に少しだけ腹立たしさも感じた。何年も俺を悩ませたくせに、こんなに簡単に存在を主張しやがって。

    「さんざん人を振り回しやがって。タチ悪ぃ」
    「え、それ下ネタ?」

     そんなわけあるか。会わない間にオッサン臭くなったなココ。そう言ってやろうかと思って、そういえばタチが悪いとつい最近他の奴に言った気がすると思い出した。

    「違ぇよ。お前も間宮も、性格歪んでんだよ」
    「あ? 間宮ぁ?」
    「ヒィッ!」

     思い付きで発した名前に、運転席から悲鳴が上がる。ココはそれにうるせぇと怒鳴って椅子を蹴り上げる。ココ、昔よりも少しキレやすくなってないか。落ち着かせるように背中を撫でてやると、ふーふーと気性の荒い猫のように息を吐いていたココがこちらを振り向いた。

    「イヌピー、間宮に何されたんだよ?」
    「なんでもない。気にするな」
     
     今のお前に言えるほど度胸座ってねえよ。間宮に情もなにもないけれど、さすがに俺のせいで殺されては夢見が悪い。首を横に振ると、不満そうな顔をしたココはどっかりとシートに体を預けた。

    「気になるけど……まぁいいよ。後で調べる。それより」
    「ココ、穏便にな」
    「ん。……ねぇ、イヌピー、好き。今まで出来なかった分、たっぷり抱かせて」

     ココの銀髪が揺れる。薄い唇から紡がれた言葉に呼応するように俺も囁く。

    「……俺も好きだよ」

     そう言うと、ココは驚いたように瞳を開く。
     その驚いた顔に少しだけ溜飲が下がる。そうだよ。どれだけセフレがいても、誰とセックスしても足りなかった。
     ココは別れてからもずっと俺が好きだと言ってくれた。それは俺だってそうだ。いや、それどころか俺はあの火事の炎の中から救い出されて以来ずっとココに囚われているんだ。
     
    「俺の命はココのものだ」

     踏みつぶされた初恋も、泥の中を這いまわった魂も、ぜんぶ。
     今ココが俺を欲しいと言ってくれるのなら、どれだけぐちゃぐちゃでも汚れていても、全部お前に差し出すよ。
     そんな気持ちを込めて、そっと微笑んだ。


    ◇◇◇◇◇

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    noranekosuteinu

    DONE初代黒龍の憧れの相手、ワカくんと付き合い始めたイヌピー。だが憧れのワカくんに愛されている自信がどうしても持てなくて、些細なことに落ち込んだりと暗い気分で過ごしていた。そんなある日、彼に好きな人がいると聞いてしまい……。最後はハピエンです。

    ↓ご注意ください
    ※ココの名前は出てきますがココイヌではありません。
    ※未成年の飲酒表現あります
    ※ワカクンじゃなくてワカくん呼びにしています
    ワカイヌできた◇◇◇◇◇




    ――俺はよく悪夢を見る。

     それは決まって、ココが俺を火事から救い出したあの夜だ。まだガキだったっていうのに、燃え盛る炎の中に飛び込んだココ。どれだけ恐ろしかっただろうか。賢いココは、自分が死んでしまうかもしれないと分かっていたんだろう。それでも赤音を救いたくて、きっと必死に自分を鼓舞して脚を踏み出したんだろう。

     そしてその決死の思いで救い出したのが……赤音の弟の、顔だけは赤音にそっくりな俺だった。

     赤音じゃない、青宗なんだと言った時のココの顔が忘れられない。


    『間違えた』


    『間違えた』


    『間違えた』


     言葉に出さなくても彼の顔がはっきりと物語っていた。
     ああ、そうだ俺は間違えられた。俺は望まれていない。
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