辺境禁区 番外編事務所の日めくりカレンダーを破りながら、もうすぐ十月なかばなんだ、と気づいた。いつもは今日が何日なんて気にしてなかったから、自分でもちょっと驚いた。
「甘井、おれ、もうすぐ誕生日なんだ」
「だからなんなんすか」
甘井は首を傾げるけれど、気づいたら気持ちが抑えられなくなった。
「憂太とどこか行きたい」
「アニバで旅行? あの人、そういうことするタイプじゃないでしょ」
甘井はバカにしたように笑うから、おれはムカついた。確かにそうかもしれないけど。
「別にディズニーとかUSJとか言わないよ、温泉とかなら」
破いたカレンダーを丸めてゴミ箱に投げた。
「がっつり墨入ってるから無理じゃん」
カレンダーは見事に外れ、おれは舌打ちした。ほうっておくと井口に怒られるから、しぶしぶ拾って入れ直す。
「そうだ! 個室露天風呂!」
まさに天啓、個室だったら誰にも文句は言われない。
「えぇ、本気なんすか?」
「調べるぐらい、いいじゃん」
おれはスマホで近場の個室露天風呂を検索して、誕生日あたりに部屋を探した。おかねだって、すこしくらいならあるのだ。
ある、けど。
「むずかしい顔して、どうしたんすか」
「個室露天風呂って、こんな高いの!?」
昔のオンナがパパ活で行ったと自慢していた部屋を見つけたけど、驚きの宿泊料金だった。
「パパって、カネ持ってるんだな」
「パパ活するようなおっさんならそうでしょうよ」
しょうがないので、今の手持ちで泊まれる旅館を探してみたら、わりと良さそうな雰囲気のところもある。思い立ったが吉日、えいやっと予約した。交通費も入れたら、これで財布はすっからかんになるけど、後悔はない。憂太の誕生日までに貯金しなくちゃ。貯金なんてヤクザらしくねー。
「まじで予約したんすか?」
おれは甘井にピースを返した。
「ごきげんだな。しゃけはいいけど、乙骨さん、超忙しいよ、大丈夫なん?」
「おかか!」
甘井のいうとおりだ、大丈夫じゃない。憂太の多忙を甘く見ていた。
「普通、予約前に相手に相談するでしょ。早いとこ、乙骨さんのスケジュール押さえたほうがいいんじゃないっすか?」
「……ダメだったら甘井と行くか……」
「普通にいやなんすけど」
めちゃくちゃいやそうな顔で言う。おれだっていやだよ。ゆうたがいいもん。
「けど、予約したし、甘井と行くしか」
「甘井君とどこに行くの?」
「憂太!」
組長室にいたはずの憂太が他の幹部と一緒に出てきていた。憂太はおれをじろじろ見る。
「乙骨、先いくぞ」
鹿紫雲が車の鍵を振り回しながら出ていった。
「鹿紫雲とどこ行くの?」
「街金に。言いたいことあるなら今聞くよ」
「今!?」
「急ぎじゃないなら、あとで聞く」
憂太が回れ右しそうになった。
「待って!」
おれは、椅子を蹴り飛ばして憂太の右手を掴んだ。先に言わなきゃ、鹿紫雲や井口やオヤジにスケジュールを押さえられてしまう。
憂太は「なに?」とおれを見た。
「二十三と二十四! 温泉いこ! 個室の!」
「一泊二日? いいよ。じゃ、あとはよろしく」
「ごくろうさまです!」
甘井が出ていく憂太に叫んでいた。おれは、うそみたいで、うれしくて、立ち尽くした。
それから毎日、おれは旅館の予約完了メールを見て過ごした。ウキウキだった。憂太に何回か、「ほんとにいいの?」って聞いたけど、憂太は毎回「いいよ」って言ってくれた。何度きいても「いいよ」しか言ってくれないけど、憂太が「いい」って言ったらいいはずだから、どうか余計な仕事が入らないように祈った。
でも、二十三日が近づくにつれて、だんだん不安になってきた。個室露天風呂の旅館なんて、日本中、それこそ近場でも、ぴんきりなのである。おれが予約できたのなんて、オンナがパパ活した旅館とかよりはぜんぜん安い。おれには大金だったけど、憂太だったら、接待とかオヤジのおともとかで、超豪華旅館だって行ってたっておかしくない、いや、行ってるはずなのだ。
前日になったら不安の方がピークになって眠れなくなった。憂太と一緒に行っていいのか、憂太を連れて行っていいのかわからなくなった。
憂太と一緒のソファーは、このごろは肌寒くなったから、ふたりで毛布をかぶって眠る。憂太の胸を枕にしたあったかい毛布の中で、おれは「ごめんね、憂太」とささやいた。
「なに?」
もう寝たと思っていたのに、憂太は起きていた。
「明日の旅館、たぶん、そんなにいいところじゃないよ」
「それがどうしたの?」
憂太の顔は、見れなかった。毛布に隠れて、憂太の心音を聞く。
「憂太はもっといいところがいいのかなって」
言ってたらだんだん悲しくなってきた。もう子どもじゃないのに、ヤクザのくせに、誕生日なんかではしゃぐんじゃなかった。誕生日祝いなんて、してもらったことなかったのに。
「狗巻君が決めたところが僕はいいと思うよ。有名だとか、星がいくつだとか、料金がいくらだとか、関係ない」
毛布の背中が重くなって、憂太の腕だと気づいた。毛布で包むように、憂太は抱き締めてくれる。
憂太はやさしい。あったかい。おれは憂太が大好きで、大好きでいさせてくれることが、ただただうれしかった。
憂太の腕のなかがいつも以上にきもちよくて、ずっと起きていたかったのに、案の定というかなんというか、寝落ちしたあげく見事に寝過ごした。
目が覚めたら窓の外は雨降りで、おれはソファーにひとりだった。でも、コーヒーとパンの焼けるにおいがする。
「憂太?」
ソファーの背もたれから顔を出して、憂太を探した。
「おはよう」
キッチンに憂太がいて、ドリップコーヒーをいれていた。
「そんなの、おれがするのに!」
おれがソファーにぴょんと立つと、ポップアップトースターからもパンが二枚飛び出した。
「いいよ、狗巻君みたいにはじょうずじゃないけど。バター塗るから待って」
憂太はマグカップとトーストの皿を二つずつ、ソファーの前のテーブルに置いた。憂太はもうシャツとジーンズを着ているのに、おれははだかんぼで、はずかしくて毛布を巻き付ける。
「雨だね」
マグカップをくわえてつぶやいた。雨はきらいじゃないけれど、昨夜消えた不安の残穢がほんのすこし。
でも。
「悪くないよね、雨」
おれを見る憂太の目がやさしくて、うれしくなった。
「うん! おれもそう思う!」
雨も、好きな人と一緒なら、きっと全然へいきだって思えたから。コーヒーは、ちょっと苦いけど、でもおいしい。トーストはちょうどいい感じ。
こんな朝なんか、まるでカタギみたいだ。でも、憂太の全身にも、おれの右腕にも、ちゃんと墨が入っている。
だから、個室露天風呂なのだ。
やっぱり、個室露天風呂は天啓だ。
朝昼兼用の食事を片付けて、一泊分のお泊まりセットを用意する。着替えが一回ぶんあればいいだけだから、すぐにできた。
「それで、旅館、どこだっけ?」
お泊まりセットを詰めたトートバッグを持って、憂太が言った。最初は浮かれてて、あとになったら旅館が憂太には釣り合わない気がして、言えないでいた。
「箱根だよ」
おれは憂太に予約完了メールを見せた。
「よかった、オヤジから車借りたから、それで行けるね」
「えっ」
おれはびっくりして、憂太を見た。オヤジの車って、何台もあるんだけど。
「期待してたら悪いけど、国産車だよ?」
「いいよ、全然いい」
国産車って言ったって、高級車だ。
もしかして、憂太、おれが誕生日だって知ってて??いやまさか。だって、誕生日だなんて言ってねーし。
でも、偶然でもなんでもいい、憂太がわざわざオヤジの車を借りてくれたことがうれしかった。
マンションの地下駐車場に、憂太はオヤジの車を停めていた。
「乗って」
運転席に向かった憂太に言われて、おれは助手席に乗り込む。新車のにおい、ふかふかのシート。憂太はタバコを一本吸ってから、運転席に乗り込んだ。
「禁煙車?」
「オヤジ以外は吸わないかな」
「チュッパチャプスあるよ」
「欲しくなったら頼むよ」
面倒ごとを避けるためにシートベルトを締めて、憂太はエンジンをかけて車を発進させた。なんだかまじめで可笑しい。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
「赤信号になったら、ナビ、設定しておいて」
「了解」
「終わったら寝てていいよ」
憂太はそういうけれど、おれは車を運転する憂太の横顔に見とれてばかりいた。おれのくだらない話にうなずく憂太の表情も、いつもより穏やかで、やわらかくて、おれは、いつか憂太を心の底から笑わせたいと思った。
おれたちの街から旅館まで、ナビの計算では一時間半、実際のところは渋滞に巻き込まれたりコンビニに寄ったりで、着いたのはもう夕方だった。ずっとしとしと雨模様、紅葉しはじめた山に霧が立ち昇る。
車から降りてロビーに行くと、「いらっしゃいませ」と深々と頭を下げられて、ちょっと怖気付いた。ホテルなんて、ラブホくらいしか知らなかったけれど、旅館は全然違った。チェックインのロビーは広いし、部屋を選ぶ掲示板もない。すみずみまで綺麗で、花がたくさん飾られている。賢そうな顔のスタッフが制服姿で迎えてくれた。
憂太はスタッフのお辞儀にも当たり前のように会釈を返して、おれがきょろきょろしている間にチェックインの手続きもぜんぶしてくれた。案内のスタッフがひとつしかない荷物を持とうとするのでおれは断ったけれど、憂太はスマートに預けていた。
「来たことあるの?」
憂太があまりに手馴れてるから、スタッフのあとを部屋まで歩きながら聞いた。
「ないよ。どこも同じだよ」
どこと同じなのか、それともホテルや旅館が全部そうなのか、おれにはよくわからなかった。
案内された部屋の中に入って、おれはびっくりして「わぁ」と声が出た。襖を開けると座卓のある部屋、その奥が広い窓で、山の景色が広がっていた。ラブホじゃ窓なんてないのに。綺麗だ。
「あいにくの雨ですが、バルコニーには屋根がございますので、気にせずお過ごしいただけます」
そのあともスタッフが何か続けている。おれはがまんできずに客室の中に駆け出した。
「右手、寝室のご準備は済んでございます。バルコニーの露天風呂はチェックアウトまで二十四時間ご利用いただけます。大浴場をご利用でしたら」
説明が長い。そわそわして、聞いていられない。夕飯は一時間後、朝食も部屋食で、と憂太が指示をしてくれて、スタッフが出ていった。おれはやっと、窓を開けてバルコニーに出た。
「憂太、露天風呂だよ!」
マンションのバスルームの湯船よりおおきな露天風呂からはもくもく湯気が立っている。紅葉した山も、遠くまで見晴らせる。隣とは壁で区切られて、互いに様子はわからないみたい。外用のソファーセットがあって、灰皿もあるから憂太がタバコを吸える。露天風呂に手を入れて、お湯をばしゃばしゃ跳ねさせた。あったかくて、気持ちいい。
「狗巻君」
憂太に呼ばれて、おれははっとした。はしゃぎすぎたかな。ちょっと反省しながら振り返る。
「いい部屋だね」
「うん!」
よかった、憂太がいいって言ってくれて、ほっとした。きっともっと高い部屋なら、もっとすごいのかもしれないけれど、おれには憂太がいてくれるだけで最高だ。
憂太が外でタバコを吸うから、その間に洗面所とトイレと室内のバスルームを覗いて、アメニティも確かめた。高級そう。ラブホとは全然違うんだなぁ。寝室は和室で、ふかふかの布団が二人分、並べて置いてある。くっつけたりはしてなかった。ランプが枕元にある。
部屋に戻ると、憂太がどこかに連絡を入れているから、おれはゾッとした。急な呼び出しで帰る、なんてありえる。それで、狗巻君は一人で楽しんで、って言うんだ。
「狗巻君」
「聞きたくない!」
「え?」
耳を塞いで叫んだら、憂太は不思議そうにおれを見た。
「あっ、ごめん……なに?」
「夕飯、半時間遅れるって」
憂太が持っていたのは旅館の電話だった。
「わかった。ごめん、仕事で帰るってなったらと思ったらつい」
「仕事のスマホは置いてきたよ。散歩する?」
「しゃけ!」
舌ピが馴染むまで喋れなかった間に使ったおにぎり語でYESを叫んで、おれは憂太と部屋を出た。ロビーで傘を借りて、外に出た。
しとしと雨が降って肌寒いけれど、浴衣姿で出歩く人はけっこういた。いろいろなおみやげのお店や食べもののお店やゲームのお店が道沿いに並んでいる。
「狗巻君」
憂太が立ち止まって、おれに振り返った。
「なに?」
「傘、たたんでおいで」
「うん!」
おれは傘をたたんで、憂太の傘に入った。こっそり、憂太のシャツの裾を握る。そしたら、憂太の左手に、右手を握られた。
「憂太?」
「狗巻君、僕よりゆっくり歩くでしょ? はぐれないように」
憂太のまなざしが、やさしい。おれはぎゅっと握り返した。
「えへへ」
おれの顔、赤くなってるだろうな。
「憂太は浴衣着る?」
「今日? 外では着ないかな。見えちゃうでしょ」
「たしかに」
「狗巻君も外ではダメだよ」
「わかった。憂太、射的がある!」
「狗巻君、一等当てちゃうでしょ。お店がかわいそうだよ」
「わたあめ食べたい」
「雨で溶けちゃうよ」
「屋根の下で食べるよ」
「じゃあ、買ってあげる」
「憂太、タバコ吸うなら傘持つよ」
「歩きタバコ禁止なんだ」
屋根とベンチのある喫煙所を見つけた。空いてるベンチに並んで座って、タバコを吸う憂太の横で、袋の中に手を突っ込んでわたあめをちぎって食べる。
「おいしい?」
「おいしいよ。憂太も食べる?」
一口ちぎって憂太の口に近づけたら、指までぱくっと食べられた。あめで濡れた人差し指と親指を、唇で捕まえて舐められる。憂太の視線が熱くて、ぞくぞくして、おなかがむずむずする。
「ゆうた」
おれが囁くと、憂太はぺろりとおれの指を撫でて、はなしてくれた。
「甘いね」
憂太はからかうように言って、またタバコを口に運ぶ。なんだかたまらないような気になって、おれは、わたあめをちぎって食べるふりで、憂太に食べられた指を舐めた。
旅館に戻ったら、もう食事の時間だった。着物姿の中居さんが、ワゴンにのせて料理とビールを運んでくる。配膳が終わったら、座卓がお皿でいっぱいになった。どれが何で、と説明されたけれど、よくわからなかった。それより、中居がちらちら憂太のことを見てたから、気分悪い。
「ごゆっくりお召し上がりください」
お辞儀して出ていくのも、早く出ていってくんねぇかな、ばっかり思っていた。襖がやっと閉まる。
「食べようよ、狗巻君」
向かいの席で、憂太がおれを見ていた。
「食べる! いただきます!」
「いただきます」
箸を取って、でも、おれは憂太が気になってばかりいた。憂太は刺身を箸でつまんで、わさびとしょうゆをつけて、口に運ぶ。
「どうしたの? 僕もテーブルマナーなんか知らないから、食べたいのから食べなよ。おいしいよ」
「うん!」
憂太がおいしいって言ってくれて、うれしかった。ぜんぶおいしかったけれど、憂太がおいしいって言ってくれたからかもしれない。憂太は箸の使い方もきれいだった。
「狗巻君、もうすこし食べられる?」
おれにデザートのフルーツのお皿を差し出しながら、憂太が言う。
「食べれるよ」
マスカットにフォークを突き刺した。憂太はおなかいっぱいかな。おれもおなかいっぱいだけど、甘いものは全然入る。
「じゃあ、それ、食べていて」
憂太は席を立って、どこかに電話をかける。すると、すぐに呼び鈴が鳴って、さっきの中居がやってきて座卓を片付けはじめた。憂太は外でタバコを吸っている。おれはフルーツのお皿を中居に返した。憂太はいつまでもお皿があるのはイヤなのかな。わかるけど。
タバコを吸い終わって、憂太が戻ってきた。
「雨やんでた?」
「やんでたよ」
「おふろ、一緒に入る?」
せっかく憂太を誘ったのに、また呼び鈴が鳴った。
「なんだよ、もう」
おれが立とうとしたら、憂太が「いいよ」と先に立ち上がった。入り口に行ってしまう。
席に戻ってきた憂太に続いて、旅館の制服の女が入ってきて、おれの目の前にケーキを置いた。女はコーヒーも二つ置いて、「失礼します」と出ていった。
「憂太?」
「おめでとう、狗巻君」
憂太はやさしい目でおれを見ていた。ちいさな丸いケーキには、ホワイトチョコのプレートがのって、『Happybirthday』と書いてある。
「あ……ありがとう……」
おれは、たまらなくなって、座布団を蹴って席を立って、憂太に飛びついた。
「ありがと、憂太」
憂太はおれを抱き締めて、よしよしするように背中を撫でて、頭に頬ずりをしてくれる。タバコの混ざった憂太の匂いが甘くて、憂太の胸も腕もあたたかくて、おれはすこし泣いた。