HAPPY BIRTHDAY あの頃ににあって、今はまるで無いもの。
俺は大人になった。自由に使えるお金が増えて、友達も増えた。でもあの頃より心が満たされる事はない。
それがどうしてなのか考えた時、東さんの姿が頭に浮かんだ。
落ちこぼれで不良で、体もとても健康的とは言えないというどうしようもないクズに、東さんは仲良くしようとしてくれた。明らかに委員長って感じの雰囲気だったし、もちろん委員長だったから、その血が騒いだのだろうか。真相はよくわからない。
久しぶりに会いたくなった。
そういえば、もうすぐ東さんの誕生日だ。
何かあげようかな。そもそも、東さんは俺の事を覚えていてくれてるかな。
携帯の連絡先に残っている東さんの携帯番号。二年前の「彼氏できた」というメッセージを最後に連絡はとっていない。
東さんの彼氏。想像してみても、俺がただ不快になるだけだった。せめて、定期的に痛々しいポエムを書き連ねる自称バンドマンであってほしい。
電話をかけた。ワンコール、ツーコールと電子音が鳴り響く。
忙しいのかな。俺と東の共通の友人に連絡をとってみた。
こっちはワンコールで出た。暇なのか?
「ねえ、東さんってさ、もうすぐ誕生日だったよね」
俺が言うなり、友人は気まずそうに言葉を返す。「ああ、うん」
「今東さん住んでる所って高校の時と同じ?」
「……」
友人は口を閉じている。電波が悪いのかと思って、もう一度問いただした。
「……言いにくいんだけどさ。東さん、一昨年に亡くなったんだよ。自殺で」
東さんの事を個人的に調べていたら、東さんを取り囲んでいたあまりに劣悪な環境が浮き彫りになってきた。
俺なんかとは比べ物にならない。そんな事を言ってしまったら、東さんは「人の辛さは比べてどうのこうのっていう問題じゃない」なんて怒るだろうけど、だとしても、俺の甘ったれた根性に嫌気がさしてきた。
ふと、あの頃の事を思い出した。
無神経で、ガキで、東さんの事を知った気になっていたような、あの頃の事。
高校生活も終わりを告げてきて、俺は高校を卒業したらどの仕事に就こうか迷っていた。
今の時代、高卒で働くというのは割と少数派になってくるらしい。クラスメイトが進学する大学の自慢をしていたりするのを聞いていた。
「ねえ辻くん」
昼休みになって、一人でぼーっとしていたらクラスの女の子に声をかけられた。
「そろそろ高校生活も終わりじゃん? だから皆でどこか行きたいなっていう話になって。どう?」
今の俺の顔はきっと、今までにないくらい明るいものになっていたと思う。なんだ俺。案外モテるんじゃん。
「それなら、東さんも連れて行っていい?」
俺が同じクラスの東さんのいる席に目をやると、女の子は途端に苦い顔になった。
「別にいいけどさ、東さんって真面目っていうかさ、堅物じゃん? 来てくれるかな~……」
鈍感だったのか、単に彼女の悪意に気付きたくなかったのか、俺は姿勢を崩す事なく話を続けた。
「じゃあ、後で東さんも誘ってみるね。予定決まったら教えて」
「それだったらさ、連絡先交換しない?」
不自然なくらい急激にトーンの上がった声に「いいよ」と返せば、頬を赤らめて嬉しそうに画面に表示された英数字を差し出した。
その子にどことなく不快感を覚えてしまった俺は、教室の隅にある自分の机で本を読んでいる東さんに声をかけた。
「東さん」
俺が机のすぐそばまで寄って声をかけると、東さんは読んでいる本に律儀に栞を閉じて、俺と目を合わせた。
「今度皆で遊びに行かないかっていう計画を立ててるんだけど、東さんも一緒に来ない?」
東さんは俺が話している間、俺の後ろにいる女の子にちらちらと目を向けた。なんでだよ。
「……行きたい」
俯き気味に、東さんはそう言った。
「本当に?!」
飛び跳ねるような気分だった。純粋に嬉しかった。東さんと一緒にどこかへ行けるなんて。
「約束だからね!」
俺は笑った。
約束の日、バス停で合流した俺達は、水族館に行く事にした。
水族館は街に一個しかないからそこに行って、皆は施設内では満足したフリして、外に出た瞬間に「ちょっと狭かったよね」なんて笑い合ったりしていた。幼い俺はその言葉の真意に気が付く事もできず不機嫌に眉を寄せた。
帰りのバス、俺達は最後方の席を独占するなどしながら、話に花を咲かせていた。
東さんは外を向いている。何か面白い景色でもあるのだろうか。
「東さん、何見てるの?」
東さんの方に歩み寄ると、東さんはこちらを向いて、ぼそぼそと呟いた。「次のバス停の近くに美術館があるの」
「東さんはそこに行ってみたいの?」
「今はいい。いつでも行けるし」
その物言いに、俺はちょっとムッとした。でも不思議とモヤモヤしない。
バスの停車ボタンを押した。
東さんがギョッとしたようにこちらを見る。
俺は小声で言う。「俺の我儘だっていうのは重々承知だから、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
バスが停まり、俺と東さんは席を外した。
「ごめん、東さん水族館に忘れ物したらしいから、皆先帰ってて。ごめんね」
俺達は逃げるようにバスを降りた。
「ねえ、良かったの? あの子達、辻くんの事好きなんじゃないの?」
そう聞かれ、俺はなんて答えればいいのか迷った。自分の気持ちにすら気づく事のできない奴に、一体自分の何が伝えられるっていうんだ。
「別にいいよ」
俺はそれだけ返した。俺ってサイテー。
「最低」
東さんからもそう言われてしまった。しかし如何せん俺の傍を歩いてくれるという事は、特別嫌な気分にさせてしまったわけではないのだろう。そう思いたい。
俺達が美術館に行って見たのは、戦争だとかそういうものを題材にした作品だった。俺は頭が悪いからよくわからなかったけど、東さんが楽しそうだったから俺も楽しかった。
美術館からバス停に向かう帰り道、コンクリートの歩道の奥にぼんやりと海が見える。
東さんは海の方を見つめながら、何かを考えているようだった。
バス停までの道のりで会話が一つもないというのももどかしくて、俺は東さんに話しかけた。
「東さん」
「なに?」
返事をもらえたのが嬉しいと思った。
「ごめん、何でもない」
最適な話題があまりに見つからなかった。ああ俺の計画性の無さ。
東さんは再び景色を見始めた。
なんで俺は何もかも上手くできないんだろう。口にするのを迷うって事は、俺にとってはその程度の事だったのか?
東さんの華奢な腕を掴んだ。
半ば無理矢理にこちらに向かせた東さんは驚いたような少し怖がっているような表情をしていて、俺はどんな顔をすればいいのかわからない。
「東さん」
東さんの肩を掴む。怖がらせてしまっているだろうか。怖くて顔を上げられなかった。
「したい」
ああもう、何で上手く言葉にできないんだ。申し訳なさで涙が出てきた。
「私としたいの? そういう事」
ごめん。違う。俺はただ……
俺の頭に手が回される。反応しようと思った時には遅くて、俺は東さんと接吻をした。
東さんは俺の事が好きなの?
東さんは嬉しい?
俺は“そこはかとなく”悲しい。
どうしてだろう。
誰もが羨むようなキラキラした想いで心は満たされているはずなのに。
俺は一体、何を失うというの?
やがて東さんは俺から顔を離す。東さんの頬は高揚していて、俺の下腹部がそそられた。
「ごめんね」
大して申し訳ないと思ってなさそうな口調で言われる。
俺はただ、茫然としていた。
「ねえ、東さん」
「なぁに?」
東さんはまるで別人のように妖艶と笑みを浮かべて、俺の目を覗いた。
「東さんの誕生日って、いつ?」
俺にできる事はあっただろうか。俺に、東さんを救う事はできるのだろうか。
図々しいまでの慢心。俺は東さんに甘えすぎているのだ。
許してほしかった。愚かな自分自身の事を。他の誰でもなく、東さんに。
そういえば、今日は東さんの誕生日だ。
東さん、どんな花が好きだったかな。
俺はどうしても東さんと同じ大学に行きたくて、必死に勉強した。それが実を結び、見事合格できたというのだから喜ばしい話だ。
学科は違うけどキャンパスは同じだから、キャンパス内の食堂で会うなんてことも結構あったりして、それなりに満喫した生活を送っていた。
俺はあの、東さんとファースト接吻を交わした日の事を今でも昨日の事のように覚えている。(恥ずかしいからキスとは言いたくない)
でもその類の話題を東さんに振られる事は今まで一度もなくて、俺は東さんという人間が結局何者なのか何もわからないままなのだ。
という事で、東さんが何を考えているのか知りたいという趣旨が100パーではないけれど、東さんの誕生日を祝ってみる事にした。
それなりにいい感じのものをプレゼントしてみれば“それ”の話題も自然に振れるかもしれないし、何より、東さんが喜ぶ事をしてみたかった。
東さんは大学に入ってからあんまり笑わなくなったと思う。
元より表情がコロコロ変わる人ではなかったけれど、だとしても、纏うオーラが日に日に禍々しくなってきているのだ。
何か悩みがあるに違いない。俺から聞くのはハードルが高くてとてもできそうにないけど、東さんから話してくれるようなら全力で聞いてあげたい。
ある日の事、キャンパス内のカフェで一人でコーヒーを飲んでいた東さんに声をかけてみた。
「ちょっといい?」
「え、あ、辻くん。久しぶり」
久しぶりという言葉が絶妙に俺の心を抉る。半月前にちょっと話したじゃん。
「今いい?」
「うん。大丈夫」
なんだかちょっとかしこまった雰囲気だな。誕生日会とか切り出しにくい。……ええいままよ。
「東さんってさ、誕生日一週間後だったよね……?」
東さんは毒気が抜けたように呟いた。「うん」
「誕生日が変わるなんて聞いた事ないもんね。そらそうだ」
「で、私の誕生日が何?」
「誕生日会を開こうと思ってまして」
「誰か呼ぶの?」
うーん……、東さんと共通の友達いないなあ。
「今のところ未定。二人きりの可能性大だよ」
「そっか」
二人だけはやっぱり嫌か。会場も俺の家とかになりそうだし。
あのファースト接吻事件から東さんに対する感情の時が止まっている俺は、東さんの貞操観念がまともだという事に安心感を覚えたりした。
「いいよ二人きりで。というかやろ。誕生日なんて最近まともに祝われてないんだから」
食い気味に言われる。困った。
「私の家でやろ。私の家結構広いし。午後四時私の家集合ね」
「わかった」
東さんがこんなに乗り気だというのは意外だったけど、東さんが嬉しそうでとても良かった。
「じゃあ、また後で連絡するね」
二日後のド深夜、東さんからあまり望ましくないメッセージをもらった。
『辻くん車持ってたでしょ。迎えに来てくれない?』
指定された場所に向かうと、東さんが今にも泣きだしそうな顔で居た。
車に入れて何があったんだと聞けば、「同じ学科の友達の友達に初対面でご飯に誘われて無理に酒を飲まされて、気づいたらホテルのベッドで寝かされてたから逃げてきた」と。
オイオイオイオイ。
「ん?」
「ごめんわかんなかったよね。もっかい言う」
「いい。聞きたくない」
……なんで俺?
バカだから詳しい事はよくわからないけど、普通こういうのは保護者に言うべきでは。
「ゴムはしてたっぽい」
「うわああ」
生々しい単語が出てきて鳥肌が走った。
「でも安心できないから、明日産婦人科行くよ」
「……なんで俺? こういうのは普通保護者とか公的機関では?」
よし。聞けた。
「お母さん、そういうので話通じる人じゃないし、こうなった以上学科の人も絡んでるかもしれない。信用できない」
「でもなんで俺……? そりゃあ東さんの力にはなりたいけどさ、俺みたいななよなよした奴が役に立つとは思えないんだけど」
「別にいいんだよ。自分の体なら自分でなんとかできるけど、私は私の話し相手にはなってくれないから。それに、私、辻くんの事好きだし」
「ん?」
信号が黄色に変わる瞬間。いつもなら無理矢理突破しちゃうけど、今は急ブレーキをした。
「likeじゃなくてloveね」
「……なんで?」
「あ、ごめん。こんな話の後に言われたくないか」
「いやタイミングに関しては謝らなくていいんだけどさ、俺のどこにそういう要素ある?」
信号が青に変わる。俺はのろのろ進みはじめた。
「全部って言っちゃえばそうだね」
「そっかあ……」
この「そっかあ」は決して否定の意味合いではない。全部という抽象的なようで具体的な表現を噛み締め、頭を抱えている時に出る自然な言葉なのだ。
「辻くんは、私の事好き?」
「好きに決まってんじゃん」
くそ。全部わかってるくせに。
状況の胸糞悪さは一級品だったけど、感情ばかり輝いていた。
「その男はどうするの?」
「実は逃げる前に証拠写真いっぱい撮ったんだよね」
わ。悪そうな顔。
その後紆余曲折を経て全てがひと段落し、俺は今日誕生会を開くために東さんの家に来ていた。
「ねえ、「会」って言うくらいならもうちょっと人がいてもいいんじゃない?」
「二人だけの会があったっていいだろ」
俺は傍にあったレジ袋から適当なものを取り出した。
「食べる?」
「食べるに決まってんじゃん」
俺の手からそれを奪った。ピザらしい。
「辻くんも食べるよね?」
「もちろん」
ああ、うん。
なんだか涙が出てきそうになった。
俺はこんな風に、下らない事で屈託なく笑う東さんが見たかったんだ。
「東さん、誕生日おめでとう」
東さんはこちらを見て、照れくさそうに歯を見せて笑った。
「そろそろさん付けやめてね」
「わかった」