真っ暗な森の中で、星を見上げている。
特にそれといった理由は無かったけれど(無い方が正解なのかもしれない)、僕は星を見るのが好きだった。僕には、星を見る事しか出来なかったからだ。
今よりずっとずっと前、僕はこの森の中で目を覚ました。その時、僕の隣にはこの望遠鏡があった。自分の正体も分からないまま、僕はずっと星を見上げ続けている。
そんな気味の悪い自分の事など考えたくなかった。僕は夜の闇にこんな僕を呑んでほしくて、星を見上げ続けた。
ある日の事だ。僕はその日もいつものように星を見ていた。
すぐ横から、ガサガサという何者かが草を掻き分ける音が聞こえる。クマか何かな。その時はそう思った。
「あの、」
ふと、真後ろから人の声が聞こえてきた。僕は驚いて、声のした方へ思いっきり振り返った。嫌な汗が背筋を伝う。
「ごめんなさい。驚かせたかったわけではなくて」
物腰の柔らかい男性だった。背丈は僕よりも二回りくらい大きい。濃い青色の髪の毛で、不思議な模様が編み込まれた服を着ていた。よく見ると、左右で目の色が違う。綺麗な人だと、素直にそう思った。
「私の名前は扉守。貴方は?」
「す、ステラ……」
僕に名前があるとすれば、どんな名前だろう。何回か前の夏の日にふとそう思って、考えた名前だ。まさか名乗る日が来るとは思わなかった。
「ステラ。そうですか。素敵な名前ですね」
扉守さんは続けた。
「ところでステラさん。貴方、この森から出た事はありますか?」
僕は思わず目を見開いた。そんな事考えた事もなかった。
確かに、僕はこの森を出た事がなかった。この森の外には何があるだろうと考えた事こそあれど。
僕は扉守さんの問いに、無言で首を横に振った。
扉守さんは僕の答えを認めた後一瞬目を伏せて、それから僕に言った。
「ステラさん。私は、貴方を自由にしに来ました」
あまりに急な話の展開に、僕はついていけなかった。
混乱する僕に、扉守さんは丁寧に説明してくれた。
まず、扉守さんはこの世界とはまた違う世界に住んでいるという事。
僕は、扉守さんの仲間がある日急にグレて創り出した生き物だという事。命を創り出すという事がまだ安定してできなかったその仲間は僕の命を不完全な状態でこの世界に落としてしまったらしい。「不完全な命は、生まれた場所に留まる習性がありますからね」と扉守さんは言っていた。だから僕は森から出る事ができなかったのだ。
その仲間の妙にきく悪知恵のせいで今の今まで僕の存在が扉守さんに知れる事がなかったのだそうな。
「そこで貴方に私の仲間の非礼をお詫びしたくて。よろしければ、貴方の命を完全なものにして、私達の世界へ招待したいのですが」
自由。その単語が反芻する。自由ってなんだろう。
どこにでも行けるのが自由なのかな。
「そこって、明るい場所?」
「ええ、もちろん」
……決めた。
「星は、暗い場所の方が綺麗によく見えるんだ。扉守さんのお誘いは嬉しい。本当に嬉しいけれど、もう少し、ここに居ていいかな」
僕には、星を見る事しかできなかった。もしかすると、この森を抜けたら星を見るよりもっと面白い事に出会えるのかもしれない。でも、何となくわかるんだ。僕はきっと、いつまでも、星を見る事が好きなんだって。
「ごめんなさい。あなた達の好意を踏みにじる事になってしまって」
本当に申し訳なかった。扉守さん達にとって、僕は生まれるべき存在じゃなかったのに、僕を助けようとしてくれた好意を踏みにじってしまって。
僕は少し俯いた。真っ暗な闇の中の真っ黒な地面と、それとは正反対の色白な自分の足が見えた。
扉守さんが、少し笑った気がした。
「謝らないでください。私達は、貴方を自由にするためにここに来たのですから」
「でも……!」
「どこにも行かないのも、自由の選択肢の一つですから」
何だか、言いくるめられてしまったような。でも悪い気はしない。
「それじゃあ、私はこれで。森の外には出られるようにしておきますね」
扉守さんが僕に背を向けて去っていく。僕は小走り気味に、扉守さんの服の裾を掴んだ。
扉守さんが僕を見た。
「良かったら、星、見ていきませんか?」
よくわからないお誘いだな。言ってから恥ずかしくなってきた。
扉守さんは少し息を漏らしながら僕に笑顔を見せた。
「そうですね、貴方が綺麗だと言っていたものは、私も興味があります」
初めて出会った人。そんな人と、自分の好きなものを分かち合えるだなんて。夢にも思っていなかった。
僕は笑った。僕の顔を見て、扉守さんは何だか嬉しそうにはにかんだ。
深い深い夜の宙が、僕達を照らしていた。