溶けたマシュマロとパンケーキの隠し味④ 7
歌姫が額に手を当てた。
「ああ、結局こうなるんだわ……」
「だから知らんぷりすればよかったんですよ」
硝子は腕を組んだ。ちょっとだけ恨みがましく少女を見つめる。
二人分の視線を浴びた少女は首をすくめた。
すぐに硝子は視線を外した。少女に当たったところで仕方がない。職業柄、こういうことには慣れている。そういう勤務体制(まだ学生だが)はどうかと思うが。
商業ビルを出た三人は、少し歩いてメインストリートから一本入った路地裏に立っていた。百貨店の裏側の通りだ。急に坂道になっているからか、人が少ない。ここなら立ち話をしていても大丈夫だろう。
「そういうわけにもいかないでしょう」
「もう、歌姫先輩、そういうところ真面目すぎるんですよ」
「嫌いになった?」
「いえ、好きです」
「ありがと」
歌姫が笑った。
「それにしても、犬ねえ……」
少女の飼っていた犬が脱走したらしい。
「犬を探すなら私たちじゃ役に立たないわよ」
言いながら、歌姫は視線を少女に向ける。どうやら、ただのペット探しではないようである。
「あの、わたしの犬、ほんとは死んじゃって……でも、死んだ後にも犬小屋にいたんです」
半泣きの少女がそう言った。先月、犬が死んでしまった。悲しみながら葬式を行ったが、家に帰ると犬小屋に犬がいたらしい。
「それってつまり、犬の幽霊ってこと?」
「たぶん……」少女が頷いた。「お父さんにもお母さんにもお姉ちゃんにも見えなくて……わたしにしか見えないんです。犬がいるって言ったら、変なこと言うなって怒られて……」
「でも、犬はいるんでしょ」
「はい」涙の張った瞳で、少女はもう一度頷く。
「そういえば、歌姫先輩の任務も犬の呪霊じゃなかったですか?」
唇に指を当てて考え込んでいた歌姫が目を上げた。
「私もそこが気になってて――っていうか、嫌な予感がするんだけど」
「私もです」
硝子は頷く。おそらく同じことを考えているだろう。ここは渋谷だ。そして、この地で犬と聞いて連想するものはひとつしかない。
「そうよね。たぶん、そういうことなのよね……ああ! 貧乏くじじゃない!」
歌姫が頭を抱えた。
これが呪術師の宿命なのだ。硝子は少女に向き直った。
「犬の写真、もうちょっと見せてくれる?」
「はい。これです」
少女が素直にケータイを差し出す。写真の中の犬は赤い首輪をして、舌を出している。毛並みは白っぽい。短くみっしりした毛が生えている。肉厚の三角形の耳はぴんと立っている。
「この犬、実はさっき見たんですよ」
「えっ⁉ いつ⁉」
頭を掻きむしっていた歌姫が顔を上げ、目を見開いた。
「ご飯食べてる時に。大した呪霊じゃないからいいかなって」
「あー……まあ、硝子が言うなら大した呪霊じゃなかったんだろうけど」
「それに――」
「それに?」
「邪魔されたくなくて」
少し沈黙した歌姫は、硝子に抱きついた。
「硝子ー! 愛してる!」
「私もです」
抱き返しながら、硝子は呟いた。
「あ、いいこと思いつきました」
「何?」
至近距離で歌姫が首を傾げる。先輩は今日も可愛い。
「夏油と五条に探させればいいんですよ。元々そういう約束なんですから、一個くらい追加してもいいと思うんですよね」
「ナイスアイディアね!」身体を離した歌姫が指を鳴らした。「じゃあ、君、写真を赤外線通信で送ってくれる?」
少女とケータイを付き合わせる歌姫を横目で見ながら、硝子もケータイを取り出した。ぱかりと開いて電話帳を呼び出す。
せっかくの休日をここで台無しにされたら、たまったものではない。
いつにも増して、硝子はやる気になっていた。
8
「もしもし――硝子? どうしたんだ」
手持ち無沙汰に通りを眺めている五条を横目に、夏油は通話に出た。
「うん、うん――それはいいけど――へえ? 犬?」
五条の視線が夏油へ向く。二人は駅からゆるやかな坂道を上がったところにある百貨店の向かいにいた。ギャラリーも備えた大きな建物だ。昼食を食べて店を出たところで、硝子から電話がかかってきたのだ。
硝子と歌姫は、何やら呪霊がらみの事件――というほどでもなさそうだが――に巻き込まれたようだ。突然話しかけてきた少女が、残穢のこびりついた犬の首輪とリードを持っていたらしい。その飼い犬は死んでしまったが、家に帰ると犬がいる。しかも、その犬は少女にだけ見える。
「せっかくの休日なのに災難だね」
話を聞くと、なんだか怪談話じみている。非術師にしてみれば、呪霊による事件もこんな風に見えるのだろう。適当に相づちを打っていたら、硝子がぞんざいな口調で言い出した。
『そういうことだから、犬探しもよろしく』
「ええ? その犬、本当に呪霊関係あるの?」
こちらで見た犬の呪霊の話は伏せて、夏油はそう尋ねた。先入観を与えるのはよくない。――というのは建前である。ここで簡単に承諾するのはなんだか損した気分になるというだけの話だ。
『知らない。たぶんあるでしょ』
「たぶんじゃ困るよ。こっちは既に歌姫の任務を肩代わりしてるんだから」
『だから頼んでるんじゃん。一つも二つも変わらないでしょ』
「うーん、呪霊祓除ならともかく、犬探しは結構違うんじゃない?」
『とにかく、歌姫先輩とのデートを邪魔したら殺す』
「ははは、物騒だなあ。――あ、切れた」
笑っていたら、しびれを切らした硝子に電話を切られてしまった。
「硝子、何だって?」
しゃがみ込んでアスファルトの路面を見ていた五条が顔を上げた。ラフな格好をしてサングラスをかけた背の高い男がそうしていると、とても柄が悪く見える――などと自分を棚上げしながら夏油は思った。
「デートの邪魔したら殺すって」
「ははは! 物騒なんだけど!」
夏油と同じことを言いながら五条が立ち上がる。
「で? 犬探しだって?」
「ああ。呪霊の犬がいるからそれを見つけてほしいって――っと、写真来た」
メールに添付された写真を見ると、
「うわ、こいつさっきの犬じゃん」
「そっくりだね」
五条が抱えていた犬と写真の犬は瓜二つだ。
「はー、こいつがその女の子の飼い犬?」
「ということはつまり、この犬はハチ公と似ていることになる」
「で、そのハチ公と思しき仮想怨霊――って呼んでいいのかな? が最近の事件の犯人、と」
「まだそうと決まったわけじゃないけどね」
「ここまで来て無関係ってこともないでしょ」
「まあね……」
歌姫から譲られた任務は、傷害事件を起こしているらしい犬の呪霊の祓除。
二人が見かけた犬の呪霊は、ハチ公の写真とそっくりだった。
そして、硝子から追加で依頼された犬探しの犬は、そのハチ公とよく似ている。
「んー、ハチ公って忠犬の象徴だから事件を起こすとは思えないんだけど」
「別にどっちでもいいでしょ。事件があるところにハチ公の仮想怨霊がいるんだったら、そいつを祓えばいい。それで解決しないなら別の呪霊の仕業ってこと」
「それはそうだけど」
夏油はケータイの画面を見た。映画の時間までまだ余裕はある。五条と二人でこの程度の呪霊を祓うのに手間取ることもないだろう。だが、このままのんびりしていると任務が終わらない恐れがある。期限は今日中――というわけではないが、本来は歌姫に割り振られた案件だ。長引かせるといろいろと面倒くさい。具体的には、硝子との取引に違反する。
違反したら硝子は何と言うだろう――あまり嫌味を言うような性格ではないが、なんとなく自分のプライドが許さない。
「さっきの犬は――っと」
マーキングしておいた呪霊の現在位置を探ると、どうやら今いる場所から東方向にいるようだ。あのあたりは大きな商業ビルがある。人の多い地点で何かをやらかしたら面倒だ。この街は屈指の繁華街なので、そもそも人の少ない場所というのも相対的に少ないというだけで、人口でいえば決して少なくない。
「ねえ傑」
「ん、何」
顎に手を当てて考えこんでいた夏油の肩を五条が軽く叩いた。どこかを指さす。
「犬、いるけど」
「ああ、こっちも――」
と言いかけて、夏油は首をひねった。なんだか反応がおかしい。先ほどまでひとつだった反応が分かれている。
五条の指さす方向へ視線を向けると、
「こ、これは……!」
「ねえ、どういうこと⁉ なんか犬、いっぱいいるんだけど!」
「ワン!」
答えるように、道の先に現れた白い犬が吠えた。