溶けたマシュマロとパンケーキの隠し味③ 5
「服見に行きましょうよ」
「そうね」
時間より早く出た硝子と歌姫は、坂を下って商業ビルに入った。この繁華街のランドマーク的な施設で、でかでかとビル名が駅から見える。地方から来た人にとっては都会の象徴として憧れの的だが、
「私、実はここ、あんまり入ったことないんですよね」
「あー、東京にいると逆に来ないわよね。その辺でも服買えるし」
「そうなんですよー。高専から出るのもちょっと面倒だし。私、任務で外出することも少ないし」
「敷地が必要だからって、あんな辺鄙(へんぴ)な場所を東京と呼ぶのはちょっと抵抗あるわ」
「ほんとですよ。あんなの東京じゃない」
エスカレーターに乗って一フロアずつ歩く。円柱の中央にエスカレーターが配置され、店舗を見て回るにはぐるりと一周する。
服飾業界は気が早いから、既に夏服が置いてある。一部の春物はセールが始まっている。今日は夏日になるから、あながち間違いではない。東京の春は短いのだ。
「んー、どうしようかしら」
店に入った歌姫が悩みつつ、トップス二着を見比べている。普段の和装はあくまで仕事着で、私服では全く毛色が違う。呪術師に服装規定はないのだから、仕事着を好きなファッションにしてもいいと硝子は思うのだが、歌姫としてはこの方が気合いが入るらしい。
「どっちも試着してみましょうよ。私もこれ試着するので」
少し待ってから試着室に入り、散々迷ったあげくに歌姫は二着とも買った。ついでにパンツも購入。硝子も薄手の羽織ものを買って、二人はエスカレーターに乗った。
「まだ三階なのにこんなに買っちゃってちょっと不味いかも……」
紙袋を腕に引っかけて、歌姫が悩ましげに腕を組んだ。
「荷物、コインロッカーに預けてあるんでしたっけ?」
「そうなのよ。新幹線で来たから、スーツケースに入らないと面倒なのよね」
「帰りの時間、大丈夫ですか?」
「それは変更してもらったわ。突然任務を割り込まれたんだもの、それくらいやってもらわないと」
言いながら、硝子はケータイを開いた。
「新着メールなし、着信もなし――よしっ」ぱちん、と歌姫がケータイを閉じる。「問題ないわ、きっと。五条と夏油の方が気になるけど」
「大丈夫ですって。あいつらに祓えない呪霊なんかいませんよ」
それに――と硝子は夏油の顔を思い出す。あれは単に任務を肩代わりしてくれる顔ではなかった。真面目で気遣いもできるくせに、ルールの隙を突いてギリギリを攻める不真面目さすれすれのところもある。
「そういえば、さっきご飯食べてる時に何かいたの?」
「ああ、なんか珍しい呪霊を見たような気がしたんですけど、気のせいでした」
しれっと硝子は嘘をついた。余計なことを言って休みを無駄にしたくない。どうせ大した呪霊でもないのだし。
エスカレーターは短い。すぐに上の階に着く。
次の店でも試着し、気に入った服を買い、そして次の店へ。そんな調子で最上階に辿り着いた。最上階は軽食が売っている。さほど空腹ではないので、ぐるっと一周してみるだけだ。
「いやー、買ったわね!」
「うっかり夏物も何着か買っちゃいましたね」
「梅雨入りしたらしばらく着れないのわかってるんだけど、可愛いから買っちゃうのよね……」
「わかります……」
呪術高専はもとより、正式に卒業して呪術師になった歌姫にはそれなりの収入がある。呪術師はきつい労働に入るが、その分給料は高い。
そこで硝子は眉を動かした。
フロアをうろうろと歩き回っている少女がいる。うろうろしていること自体はおかしくない。着ている服の系統がこことそぐわないのも、まあいいだろう。問題は、少女が手に持っているものである。
「歌姫先輩」
硝子は歌姫の袖を引いた。声を潜める。
「あの子、見えますか」
「見えてるわよ。さっきからここをうろついてるわね」
「あの子が持ってるのって……」
「首輪とリード、かしらね」
少女が握っているのは、犬の首輪とリードだ。いずれも残穢がべったりこびりついている。ちょっとだけ――いや、だいぶ嫌な予感がした。
少女が顔を上げた。
視線が合う。
少女が意を決したように、こちらに近づいてくる。
「ど、どうしよう」
「逃げます?」
「でも……困っている人を見捨てるのも……」
歌姫がためらう。そこが歌姫のいいところで悪いところだ。
「あ、あの、お姉さんたち」
「何?」
――逃げられなかった。
休日が消滅してゆく気配に軽く絶望しながら、硝子は諦めた。
少女はぎゅっと手を握った。
「わたしの犬、見ませんでしたか?」
「犬?」
「犬……」
歌姫が首を傾げ、硝子は眉をひそめた。
「こういう犬なんですけど」
少女がケータイに写真を表示させた。
それは、先ほど硝子が見かけた犬とよく似ていた。
6
「こいつマジで犬だな」
「そうだね、完全に犬だね」
犬を抱き上げた五条いわく、手触りも犬そっくりらしい。夏油は触りたくないので、すべて五条の自己申告である。抱かれたままの犬が夏油の匂いを嗅ごうとするので、さりげなく距離を取った。
呪霊は気味悪く恐ろしげで奇怪な姿をしていることが多いが、この犬は一体どんな感情でできたのだろうか。六眼持ちの五条が何も言わないところを見るに、さほど問題はないだろう。――と思いたい。家でペットを禁止された子どもが犬を拾ってはしゃいでいるように見えなくもないが。
リードがないので犬を抱き上げたまま、五条と夏油は渋谷を歩く。呪霊である犬の姿は一般人には見えないはずなので、五条がどんな風に見えているのかはちょっと気になる。
当の五条は何も気にしていない。腕の中の犬も大人しいものである。おそらく変人だと思われているだろうが、この程度の変人は、東京という大都会ではあまり目立たない。
「なあ、歌姫に来てた依頼ってどんな感じ?」
「そういえばまだ説明してなかったね」
本来は歌姫に依頼された任務は、この繁華街で頻発している呪霊の祓除だ。主な被害はポルターガイスト現象だが、先日、怪我人が出た。棚が倒れてきて、その下敷きになった店員が怪我をしたのだ。件の店はレンタルビデオ店を営んでいる。テナントの入れ替わりが激しい街にしてはそこそこ続いているところで、夏油や五条も行ったことがある。人の身長より高い棚が所狭しと並んでいて、背の低い人のために台座が用意されているくらいだ。倒れてきたらかなり危ない。
「〝窓〟の報告ではそんな感じかな。このあたりは人口も多いから〝窓〟が定期的に巡回してるんだけど。似たような例が最近、いくつか挙がっていて、共通点が見つかった」
「まあ、ポルターガイスト現象は呪霊の仕業としては珍しくないけど……共通点?」
「犬に襲われた、と言うんだよ」
傍目には事故だが、被害者が奇妙なことを供述したため、高専預かりの案件となった。
――いわく、犬を見たのだと言う。
「犬」
五条は腕の中を見下ろした。
「オマエか?」
大人しく抱えられた犬はクゥンと鼻を鳴らした。動物の表情はわからないが、ちょっと可愛かった。
「それどういう感情?」
「悟」
「わかってるって」
口をひん曲げて、五条が犬を抱え直す。
こんな繁華街の店の中に犬がいるはずがない。一人だけならまだしも、複数人が見たというなら、何らかの関連が疑われる。
「棚が倒れたってのは、犬が倒したってこと?」
「そのあたりが曖昧でね……被害者も混乱していたんだろう。犬が棚を倒したのか、犬に驚いて棚を倒したのかは、ちょっとよくわかってない。ほら、棚と棚の間隔が狭いだろう。ひとつ倒れただけでも挟まれて危険だし。他の事件もそんな感じで」
だから発見が遅れたとも言う。死者が出るような騒ぎではないから、仕方がない。
犬の額あたりを撫でながら五条が言う。
「それだけで呪霊のせいって判定するのもなあ。両者が無関係の可能性は?」
「それを確かめるのも任務の内。被害者の共通点は犬を見たこと。そして、被害者全員が犬を飼っている、もしくは過去に飼っていた」
「犬が関係する呪霊? どんなだよ」
「さあね」
通常、呪霊は人間をベースにした、もしくは人間が混ざった姿をしていることが多い。負の感情を向ける対象は人間が多いからだ。その点、五条が抱き上げている呪霊は犬そのものに見える。
「で、さっきからどこに向かってんの?」
「現場」
五条が嫌そうに顔をしかめた。
「ここだよ」
すり鉢の底にある駅から歩いて数分。犬を発見した場所からさほど離れていない。商業ビルの建ち並ぶ区画で夏油は立ち止まった。背の高い建物に挟まれ、道路の日当たりは悪い。まばらに人が通り過ぎていく。
視線を上げると、弱い呪霊が空を泳いでいる。それ自体は普通だ。これだけの人がいるのだから、呪霊くらいいるに決まっている。
呼び出した呪霊を使って数匹の呪霊を祓い、夏油は軽く手を払った。祓った呪霊は消え去るので、気分の問題である。
「それっぽい奴、いないけど」
言いながら、五条は拾った犬(の呪霊)を見下ろした。
「まあ、犬はここにいるけどな」
「やけに大人しいのが引っかかるね」
五条が頷いた。
「こいつの仕業には見えないんだけど」
「でも、犬が関係していると見て間違いないはずなんだ」
改めて、夏油はしげしげと犬を眺めた。ついでにケータイを開いて検索してみる。出てきた写真と犬を見比べる。
「渋谷で犬と言えば――」
「うん。ハチ公だね」
夏油はケータイの画面を五条に見せた。
「うわ、そっくりじゃん。じゃあこいつハチ公?」
「そうなんだと思う」
片耳の折れた犬だ。元からこうだったわけではないらしいが、これがハチ公の写真として載せられているのだから、そういうことだ。
「じゃあさっさと取り込めばいいじゃん」
「仮想怨霊――と言うには怨霊じゃないけど、まあコレクションに加える分にはいいだろうけど」
忠犬の代名詞ならば、探し物にはうってつけだ。呪霊は何も戦うためだけに使うのではない。探索、索敵も立派な役目だ。
「なあ傑、映画いつ?」
「午後二時一五分」
「そろそろ昼食べようぜ。腹減った」
「その犬はどうする気?」
「どうせ見えないんだし、テーブルの下にでも座らせればいいんじゃない?」
「いやまあ、見えないのは事実だけど……」
「細かいことは気にすんなよ」
「悟は少しは気にしなよ」
「ねーえースイーツ食べ放題はー」
「あそこは混んでるから諦めて。あと硝子と歌姫と鉢合わせしたら気まずいでしょ」
「えー! せっかくクーポンあるのにー!」
「まだ期限に余裕あるから今度」
「やーだー」
気分は完全に、駄々をこねる子どもをあやす親である。
当のあやされてる五条はというと、周囲の視線を気にするでもなくぶすくれた顔をしている。サングラスをかけているくせに、表情が豊かすぎる。
「我が儘言わないで、他の人に迷惑だろう」
「じゃあ次はいつ?」
「次の任務で渋谷に来た時」
「えー! それっていつかわかんないじゃん!」
犬を抱きしめて――この犬は他の人間には見えないので変な動作に見えているだろうが――、五条がカウンター上のメニューを見上げた。
これはただのお遊びだ。実の親相手にこんな振る舞いができなかったのを、今存分に果たしているのだろう。夏油にはいい迷惑だが。
手早く注文を済ませ、確保して置いた席に向かう。五条はまだ後ろで注文を悩んでいる。夏油に連れ回されてもまだ慣れていないから、店員に指し示されたセットメニューでも見ているのだろう。
「――あっ」
不意に声がして、夏油は振り向いた。
五条の腕の中から、ぴょんと犬が飛び出したところだった。犬が走り出す。
「うわっ」
トレイを持って席につこうとした夏油の足の間をすり抜けて、犬は店外へ出た。あっという間の出来事だった。
呆然とした表情の五条が夏油を見た。
「犬、逃げちゃった」
「この――ッ、馬鹿悟!」
トレイを持ったまま、夏油は眉をつり上げた。
「うるせー! 傑だって油断してたくせに!」
思わず出た二人の大声に、店内の人間が一斉に振り返った。
はっと我に返った夏油は軽く頭を下げながら席に座った。
「とりあえず、ご飯食べていいかな」
「追いかけなくていいの?」
「あれにはマーキングしておいた」
「さっすが!」
「迂闊な悟とは違ってね」
「傑は一言多いんだよ!」
拗ねた五条がようやく注文を済ませる。
カウンター越しにうんざりした表情の店員が見えた。