溶けたマシュマロとパンケーキの隠し味 3
「休みなのにアンタたちと顔合わせなきゃいけないの、何かの罰ゲーム?」
しかめっ面の歌姫に、五条が舌を出した。
燦々と降り注ぐ太陽光が容赦なく肌を焼く。硝子は手のひらを目の上にかざした。普通に眩しい。五月の晴天を舐めていた。
街はようやく起き出したところだった。休日の東京の朝は遅い。開店時間前に繁華街を歩く人は少数だ。怠惰な休日にはふさわしい。連休で旅行に行っている人も多いのか、繁華街はいつもより少しだけ控えめだ。近くの改札から吐き出される人数もなんとなく少ないような気がする。
眩しいので、硝子は少し移動して五条の影に入った。こういう時は無駄にある身長が役に立つ。
あまりに有名な犬の銅像の前で、四人は集まっていた。
「こっちだって会いたくて来たわけじゃねえし。歌姫が弱いからだろ。俺だったらそんな呪霊さっさと祓って遊びに行くわ」
「はあ!? それが先輩に対する口の利き方!? だいたいねえ、私は今朝も一件済ませてきたところなのよ!?」
「それが何? どうせ雑魚でしょ」
五条が顎を上げた。そうすると、やたらと長身の五条の顔はほとんど見えなくなる。サングラスが日光を反射する。
歌姫がぎりぎりと歯ぎしりした。
「アンタねえ……!」
「まあまあ、悟、そのへんにしようよ、ね?」と夏油が取りなす。
「そうだよ。歌姫先輩、今日は私とデートなんだからね」
「硝子ー!」
くるりと振り返った歌姫が硝子に飛びついた。硝子の首に手を回して五条を睨みつける。
仲が悪いのは百も承知だが、これも致し方ないのだ。
「約束、忘れないでよ」
念押しする硝子にひらひらと手を振って、五条が背を向ける。
「こっちは任せておいて」夏油が微笑む。
――五条よりは信頼の置ける奴なので、良しとしよう。硝子は一人頷いた。見かけが不良そのもののくせに、夏油は律儀な性格なのである。
「あ、今なんか失礼なこと考えたでしょ」
五条がじろりと硝子を睨んだ。――睨んだ、とは硝子の主観だ。本人に睨んだつもりがないとしても、数百年ぶりの誕生などというご大層なその六眼に見つめられると、そんな気持ちになる。
「考えてない」
「嘘だー」
「嘘じゃない」
「ほら悟、早く行かないと私たちの休日も終わってしまうよ」
「はあ!? こんな雑魚に手間取るわけないじゃん!?」
「うんうん、そうだね。悟は強いからね」
「傑もだろ!」
手慣れたように五条の興味を移していく夏油に、硝子は内心、感心した。伊達に二人組でいつも行動しているわけではない。少々距離感が近すぎるような気もするけど。
「それじゃあ、歌姫先輩の任務、よろしくね」
「任せてくれよ」
「硝子こそ、忘れないでよ」
「うん。一週間分のデザートね」
五条が満足げに頷いた。
仲良く二人がスクランブル交差点を渡っていくのを見送り、硝子は歌姫に向き直った。
「歌姫先輩、あんな奴らだけど、強いのは間違いないから」
「でも……」
真面目な歌姫は渋った。たとえ犬猿の仲とはいえ、自分の仕事を肩代わりしてもらうのに抵抗があるらしい。
――そんなもの、捨ててしまえばいいのに。あんなクズどもが人の役に立てるなら、それに勝ることはないのに。
歌姫が深刻そうに言った。
「……ねえ、硝子。他に変な要求はされてないわよね」
「ないですよ。一週間分のデザートだけです。さ、早く行きましょう」
あっさり言う硝子に、歌姫は頬を引きつらせた。
「五条の奴、意地汚いわね……」
「ほんとですよ」
望めば何でも手に入るくせに、たかが食後のデザートで頼みを引き受けてくれるのだから、安いものだ。
一抹の不安を浮かべた歌姫の手を取って、硝子は心なしか浮き足立った足取りで店に向かった。
白い大皿の上に、小さく切り分けられたケーキがずらりと並んでいる。生クリームでデコレーションされたスタンダードなケーキは果物やジャムで彩られて目にも鮮やかな色合いだ。他にもチーズケーキ、ロールケーキ、タルト、その他様々な種類。ガラスのボウルにはヨーグルト。端の方にはサンドイッチやパスタ、カレー。
所狭しと並べられた食べ物に、歌姫も目を輝かせた。
坂を上った先にある店だ。記名して一〇分ほど待っただろうか、通された店内はいかにも若い女の子の好みそうな内装をしている。
席に荷物を置いて、取り皿を片手にスイーツを選ぶ。ややデコレーションや切られ方が雑なのは否めないが、ここは高級なスイーツを楽しむ場ではない。気取ったような繊細なスイーツにはない楽しさがあるのだ。
具体的に言えば、品数である。
「――でさあ、あいつすごくむかつくんだよね」
「電話一本で追加任務? 嫌な感じですね」
「ほんとよ! 予定があるって言ったのに!」
酒でも入ったようなテンションで歌姫が愚痴を言う。
「なんか卒業したくない気持ちになってきました」
特に崇高な意識もない硝子としても、そんなに働きづめになりたくない。
しかし、歌姫は眉をひそめた。
「んー、そこは微妙かも……硝子、今寮だよね?」
「そうです」
「最近、任務はどう? 結構呼び出されたりしない?」
「そこまでじゃないですよ。待機が多いですし。……そういえば最近、外出の機会が減ってきたような」
「反転術式は珍しいものね」
術式は多岐に渡るが、硝子の術式はその中でも珍しい。ほとんどが呪霊を祓うための、いわば攻めの術式なのに対して、守りの術式は希少だ。
「術師の仕事は嫌じゃないけど、もっと休みはほしい」
歌姫がため息をついた。
「まあまあ。今日は五条と夏油に代わってもらえたんだし、この後服見に行きましょうよ」
「そうね。休みなんだもの、楽しまなくちゃ!」
それから何回かスイーツを取りに行き、合間にしょっぱいものとしてパスタを挟んだり、存分にメニューを楽しんだ。
というか、後半はほぼ喋っているだけだった。さすがに時間いっぱいまで食べるのは硝子と歌姫の胃袋にはきつい。
「あ」
「ん?」
ストローをくわえたまま、お行儀悪く歌姫が首を傾げた。ごくりとジュースを飲み込んで尋ねる。
「硝子、どうかした?」
硝子の視界の端を、犬のような姿をした呪霊が毛をたなびかせ、走り去っていった。
4
頭上高くに昇った日と共に起き出した街はいつも通り賑やかだ。
ゆるい坂道を上りながら、五条は夏油を振り返った。
「傑さあ、どういう風の吹き回し?」
「何? 友達の頼みを聞くのがそんなにおかしい?」
「いやオマエはそういう奴だけどさ」
「悟だって一週間分のスイーツで手を打つなんて、随分と軽いじゃないか」
「別にー」
ふいと五条が顔を逸らした。
「歌姫の任務の手伝い、ねえ……俺らが勝手にやっちゃっていいわけ?」
「いいんじゃない? 誰が呪霊を祓うかは関係ないだろう。解決すればいいんだよ」
「その心は?」
「これ」
夏油は立ち止まり、ごそごそとポケットを探った。
「あ、それ!」
出てきたのは映画のチケットだった。
「この前気になってたB級映画。ちょうど今日で上映が終わりなんだ」
単館系の上映で、短い期間しかやっていない。何も知らないお坊ちゃんに低俗極まりない遊びを教えるのは、夏油の楽しみのひとつでもある。
「最初からそう言ってくれればいいのに」
「だからさっさと呪霊を祓って見に行こうと思って」
一瞬頷きかけて、五条は首をひねった。
道ばたで立ち止まった二人に見向きもせず、通行人は通り過ぎていく。
「…………いや、理由になってなくない? 別に映画は行けばいいでしょ?」
「わかってないなあ、悟は」
夏油は指を振った。
「この近くで歌姫さんが祓除にいそしむとして、その混乱がこっちまで来たらどうする? もし祓い損ねた呪霊が被害を拡大させたら?」
こんな繁華街では、呪霊なんてありふれている。それなのに、追加で歌姫へ依頼が舞い込んだ。それなりに強い呪霊と見ていいだろう。
「つまり、先回りして祓っておくと?」
「そう」
「でもそれ、杞憂って奴じゃない?」
五条がサングラス越しにじっと夏油を見つめた。真っ黒なレンズすら透過しそうな視線が刺さるのを感じ、夏油はあっさり真意を明かした。
「興味深い話を聞いたから、呪霊を手に入れたいんだ」
「なんだ、やっぱりそうなんじゃん」
五条がにやにや笑った。
「ところでさあ、歌姫が祓う予定の呪霊って何?」
「え? 硝子から話聞いてなかったの?」
「聞いてない」
ふてぶてしく五条が言った。いつものことである。
「聞き流してた、の間違いだろう」
「だって歌姫に割り当てられた奴でしょ? どうせ弱いじゃん。傑、そんなのに興味あるの?」
「呪霊は単に戦闘に強ければいいってものじゃないよ、例えば時間稼ぎに向いているのとか――」
「ワン!」
「ん?」
「は?」
犬の鳴き声がした。
ここは繁華街だ。犬の散歩コースに選ばれることは少ない。少ないだけで、ないわけではないのだが、
「あの犬か?」
五条がサングラスのつるをつまんだ。
二人の視線の先、道路の向こうの歩道で犬がうろうろしている。数歩歩いては立ち止まり、向きを変えて来た道を戻り、また立ち止まる。中型犬くらいの大きさ。白く短い毛は薄汚れているのか、やや灰色がかった部分とまだらになっている。片側の耳はぴんと立った三角形だが、もう片方の耳は折れている。
「首輪はあるけどリードはなし」
「というかあの犬って――」
外見上は完全に犬だ。しかし、ただの犬ではない。
通行人は、リードもしていない、飼い主もいない犬の隣を素通りしていく。まるで見えていないように。
五条が犬に向かって歩き出した。
「あ、悟!」
すたすたと歩いて道路を渡った五条を追いかけようとした夏油だったが、けたたましいクラクションで立ち止まった。
少し冷や汗が出た。あやうく轢かれるところだった。
車が通り過ぎるのを待って夏油が道路を渡ると、
「こいつかわいいな!」
たっぷりした毛並みをぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら、五条が機嫌良さそうに笑っていた。
「いや早っ!? いつの間に手なずけたの!?」
犬もまんざらでもなさそうだ。ふんふんと匂いを嗅ぎ、夏油の足に鼻を近づける。
夏油は一歩引いた。
犬を撫でまくっていた五条が、とうとう犬を抱き上げた。
「ところで悟」
「うん」
「それ、呪霊だよ?」
「うん、知ってる」
「ワン!」
五条の腕の中で、犬の姿をした呪霊が返事をするように元気よく吠えた。