嫌な話「奏汰さま、さ、さん?奏汰さん!今日はこれをもってきたぞお!」
「しっ、気づかれたらだめだ」
「おれのおやつ、わけにきたんだぞお」
「えーと……信者だからじゃなくて、うーん……ともだち?とも……だち?だから?……か?」
「また来るなあ!バイバイ!」
今日も今日とて斑の訪れに、奏汰さまの嬉しそうな声が響く。滅多に聴こえぬその声は、我らの頬を綻ばせる。
奏汰さまのご尊顔を拝見できるような立場にない我らにとって、その声はどれほど有名な歌人の声にも勝り、聞き入ってしまう。
しかし、幼子にしか分からない世界もあろう。我らは耳を塞ぎ、彼らの会話を遮断する。
奏汰さまは倒れられたのは、その直後だった。
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「あああァあ!いやあああああああ!」
獣のような悲鳴。獣のような醜態。この世の終わりかというような阿鼻叫喚に、無様にも我は立ち尽くす他なかった。
年端も行かぬ幼子の存在が揺らげば、それだけで我らの足元は容易く崩れ落ちる。
「悪いものだ」
嘔吐を繰り返し、畳に爪を立て、荒く呼吸をする奏汰さまに、誰かがそう呟いた。
「神に呪いが降り掛かったのか?」
腹を抱え、海老のように丸くなる奏汰さまに、誰も触れることができなかった。抱くことも、撫でることも、……近付くことすらも。
当然だ。呪われた神に、一体誰が触れようとするのだろうか。
「……終わり、なのか?」
不意に、無数の矢の如く視線が私に突き刺さる。その視線は心臓まで届こうかというほど鋭く、殺気立っている。
ぽたり、と、畳に落ちた雫が己の冷や汗であることに気づくまで、時間がかかった。
「終わり、ならば」
それが、我らの役目なれば。
「……、そ」
「待て」
私の声を遮るように、荒々しく襖が開いた。こちらに向いていた視線が、襖を開けた彼へ流れる。剣山のような、一歩踏むごとに血塗れになるような空気がにわかに和らぐ。
それはまるで、毒を持って毒を制すようだ。自らが剣山のような鋭さを持ったこの男に、今まで錯乱状態だった女が縋り付く。こちらに何かを求める視線を向けていた男までも、彼に頭を垂れる。
毒ガスの発生源であるかのように皆が距離を置いている奏汰さまの元へ、彼は真っ直ぐに近づいた。
おそらく、彼は誰より奏汰さまのことを知っている。この世に奏汰さまがお生まれになったときから、奏汰さまの手足のように働き続けてきた人物だ。信頼という面において、彼を超えるものなどいない。
しかし、そんな彼が鞄から取り出したものを見た瞬間、再びこの場の空気は張り詰めた。
「な、ん、なんですか、それは」
彼が鞄から取り出したのは、棒状の何か。正体不明のそれに、この場の人間は幼子のように狼狽えた。
そしてあろうことか、彼はそれを奏汰さまの太ももに突き付けた。
「いやああ!」
「止めて、止めてください。奏汰さまにそのような得体の知れないものを使わないでください」
か細い声で紡がれる懇願。喚き声など聞こえてすらいないように、彼は棒状の何かを奏汰さまに押し当て続ける。それは、ほんの数秒のことだった。耐えかねた誰かが彼に飛びかかるより先に、その棒状の何かは彼の手により奏汰さまから離される。
彼に浴びせられる怒声。そして、罵声。
「……っ」
それは、なんと異様な光景か。その刹那、誰も奏汰さまを見てもいなかった。
奏汰さまを見ていたのは、たった一人。未だに棒状の何かを握りしている彼はまっすぐに奏汰さまを見つめ続け、そして救急車を呼べと叫ぶ。
そんな彼に、拳が振り上げられた。奏汰さまを見てもおらず、苦しむ奏汰さまに近づきもしなかった連中が、ただ一人奏汰さまを救うべく動いている男へ拳を振り下ろそうとしている。
「――喧しい!」
気づけば、私の喉から愚かな連中と変わらない感情任せの獣めいた怒声が放たれていた。ああ、私も奴らと変わらない。苦しむ奏汰さまに、私も近付くことすらできなかった。
しかし、幸いにも私の一言は連中の動きを制止させるには十分であった。左腰に携えられた得物を一瞥し、勝手に怯えてくれる。
そして、私は奏汰さまへ近づいた。奏汰さまの脈を取りながら救急車を呼ぶ彼の隣にしゃがめば、そのとき漸く彼が顔面蒼白であったことに気がついた。
彼ならば、ここの連中全員を蹴散らすことも容易かろうに。慣れた様子で救急へ連絡を入れた彼は、少しの間スマホを見つめて放心している様子だった。そして、我にしか聞こえぬほどの声量で呟いた。
「……今日、斑は来ていたか」
それがこちらへの問いかけであると、一瞬気づかなかった。それほど弱りきった彼の声に、私は頷いた。
そのとき、彼が握りしめている棒状のものが目に入った。それが、なんなのか。理解した瞬間、心臓が殴られたように激しく脈打った。
「おい。……それは」
「……こんなことで、この子は死ぬんだ。それほどまで、どうしようもなく、この子は……」
その先の言葉は、我らだけは言ってはならなかった。
けれど、その先の言葉は、私達だけは知っておかなければいけなかった。
そうでなければ、人として、親として。……全てが、終わってしまうから。
「この子は、人間なのだから」
エピペンを握りしめたまま、三毛縞は呆然と呟いた。