「貴様、飼われておったのか?」
木々のざわめきがまるで波が砂を揺らすよう。
尾のように結った髪を遊ばせる若者の頭上には、狼の耳は見当たらない。薄紫の着物を身にまとう彼は、今日は狼の仮装をしていない。しかし彼はそこらの狼よりも余程獣らしく、無遠慮に狼男の首輪に指をかけた。
それでもその若者は、きちんと根っからの人間のようだった。はたと己の無礼に気づき、すぐに指を外した。
「昔のことだけどなあ」
狼男の声に、懐旧の情は感じられなかった。地面に吐き捨てるようで、けれどどうにも喉に残っているようで。狼男は数度咳払いをした。
「おぬしほどの男を捕らえるとは、大した人間であったのだろうな」
「人間ではないぞお。あれは、同じ狼男だった」
「……同族で?」
「親だ」
忌々しげに首輪を引っ掻く狼男に、若者は彼の人生を垣間見たように感じた。
異種族とはいえ、母の腹に寄生した種族であることは変わらない。家族という箱の色は、近しい種族であるほど似寄る。
「悪い子だったからなあ、俺は」
それ以上狼男は話そうとしなかったので、若者もまた尋ねなかった。尋ねたところで、同調できる自信がなかったのだ。
例え箱の色が同じであろうと、中身は蓋を開けてみなければ分からない。若者にとってその箱の中身は、宝物であると言って差し支えないものだ。それを守るためならば、命すら惜しくない。
しかし、どうもこの狼男にとっての箱の中身は、腐臭がするものらしい。
「首輪はずっと着けておるのか?」
「こんなもの、捨ててしまいたいんだけどなあ」
言葉とは裏腹に、狼男の爪先は首輪を撫でるばかり。それが家族への情であるならば、若者にそれ以上踏み込む権利などない。しかし、とてもそうとは見えなかった。
若者は、狼男の首輪へ手を伸ばす。微かに狼男の肩が跳ねる。
「……首に手を伸ばされるのは、抵抗あるぞお」
「ふむ」
聞いているのか、聞いていないのか。丸めて捨てるような相槌を打ちながら、若者は無遠慮に首輪へ指をかける。
「貴様はこれを捨てたいのだな?」
「その通りだが、それが?」
「ならば、我がおぬしの代わりにこれを捨ててしまっても構わぬな?」
若者の指に首輪が引かれる。首の骨への圧迫感に文句を言うこともなく、狼男は彼らしかぬ呆けた目で若者を見つめた。
「……何故君が、わざわざ?」
「何故もなにも、困っておるのだろう?」
首を傾げる若者は、狼男が何を疑問に思っているのか理解していない様子だった。
若者の視線が狼男の頭上へ向けられる。そこには立派な狼の耳が生えており、目の前の男が異種族であることを如実に物語っている。その姿を改めて見た若者は、一人納得する。
種族の違いこそが不理解の原因であると解釈したのだ。
「助けを求める者へ手を差し伸べる。それこそが人間である」
狼男の尾がゆらりと揺れる。若者の視線がそちらへ降りたことを敏感に感じだった狼男は、隠すように尾を手で押さえつけた。目を伏せ一歩後ろに下がり、唇をぎゅっと結ぶ。
小さく咳払いをしてから若者に向き直っても、狼男は自分の尾を手で押さえ続けていた。
「なら、頼む」
彼が告げたのは、そんなたった一言。それを受けた若者は、自分の胸を掌で叩いた。
「任されよ」
「じゃあ、首輪を外し――」
「では、動くでないぞ。狼男殿」
「え?」
首輪に伸ばしかけた手を止めた刹那、狼男の首筋に鎌鼬が走った。何が起こったか理解する前に、若者が握る長物が目に入る。
狼男の首から、首輪が外れる。それは重力によって落下し、地面に転がった。首輪は既に輪の形を成しておらず、見事に切断されていた。
ほとんど反射的に首を押さえた狼男は、今何が起こったかを理解し、声を荒げた。
「危ないなぁあああ!?いきなり刀で首輪を斬るか!?」
「むっ。頼むと言ったのはそちらであろう」
「命を散らす覚悟はしてなかった!」
「我がそのようなへまをするものか」
激しい動悸に襲われながら、狼男は恐る恐る首を押さえた掌を見る。確かにそこに血は付着していなかった。両掌で首を包んでみるが、首はきちんと繋がった状態でそこにある。
無くなったのは、首輪のみだ。
「……まあ、しかし、とりあえず助かったぞお」
「それは何より。やはりおぬしは、首輪などない方が似合っておるな」
得意げに笑い飛ばす若者に、狼男は文句を言うことも馬鹿らしくなった。首輪が失われた首筋を、風が撫でる。
彼の尾は、大きく揺れていた。