脱皮の話② あれから三日が経った。行灯に照らされた黒い鱗は薄らと白く濁り、脱皮が近いことを示している。おまけに感覚も鈍くなっているのか、それとも怠さが勝つのか、こうして身体を拭いていても大倶利伽羅はぐったりと目を閉じたまま動かない。
先ほどの食事もさじで掬って食べられるたまご粥を何とか食べきった程だ。動けない分食べる必要がないのだろうが、普段の食事量の半分以下で足りるものかと気を揉まずにはいられない。
「これなら明日には終わりそうか」
「…………そうだな」
独り言のつもりで呟いたそれに思わぬ返事が戻ってきて目を瞬く。振り向けばいわゆる「赤疲労」の時と似たような顔つき。これも一口団子でどうにかなれば良いものを、とその頬を撫でた。平常とは違い、自分よりも低い体温に心の臓がひやりと冷える心地がする。
「……鶴丸」
「ん?」
「…………」
喋るのも億劫になるらしく、口数が減った大倶利伽羅はその分視線が雄弁になる。薄暗がりの中でもそんな柔らかで温もりのある金の目はよく見えた。それはきっと互いにそうで、夜目の利くこの刀にはおかげで緩んだ顔もよく見えているのだろう。
たまらなくなって、触れるだけの口づけを落とせばその目が見開かれた。
「…………おい」
「おや、違うのかい?てっきりおねだりかと思ったんだが」
そう言ってわざとらしく首を傾げてみると、ため息が返ってきた。自分のくすくすと笑う声が部屋に響く。
黙り込んでしまった大倶利伽羅を横目に、尾の先まで拭きあげて「よし」と湿った鱗の表面を撫でて確かめる。くすぐったそうに尻尾が揺れた。この調子なら外皮に新しい鱗を引っ掛けたりもしないだろう。
「明日は俺も非番にしてもらった。ああそれから、歌仙が食べたいものを考えておけとさ」
「……余計な」
どちらのことだろうかと思わないでもないが、きっと両方か。「諦めな」と言えばそっぽを向いてしまった。
厨に立つことが多い歌仙にとっても、よく飯を食らう大倶利伽羅があまり食べなくなるこの期間は気にかかるらしい。たまご粥を作っている時も「大倶利伽羅の調子はどうだい?」と訊かれた。
「さて、寝る前にこれを片付けてこよう。なにか要るものは?」
「無い」
「分かった、良い子で待っててくれよ」
「……」
返事の代わりに、たしんと尻尾が床を叩いた。
途中、洗濯籠に着替えを放り投げて厨へと向かう。空になった小さな土鍋を洗って、それから明日の朝餉は……握り飯を二つ残しておいてもらうように書き置いておくか。
「鶴丸」
「ん?おお、歌仙か。こんな時間まで朝餉の仕込みかい?」
皆が寝静まるとまではいかずとも、既に床に就いている刀も多い時間だ。早寝の印象がある歌仙がまだここにいるとは思っておらずたたらを踏んだ。
「いいや、仕込みは別の刀たちが終えてくれたよ。きっと君は朝餉も食わずにあの刀に付き添うんじゃないかと思ってね」
「おっと、俺はちゃんと握り飯でも頼もうかと思ってたんだぜ?」
じっとりと睨まれ、潔白を示すように両手をひらひらと振る。すると呆れたように息を吐いたかと思えば、諦めの響きを含んで「それならいいけれど」と視線から解放された。隣をすり抜けて、流しで洗い物をしながら話を続ける。
「明日の朝、大倶利伽羅の部屋まで軽食を持っていくよう篭手切に頼んでおいた。他に食べたいものは?」
「俺は握り飯だけで十分なんだが……」
「仕方がないね。梅と昆布でいいかい?」
「りくえすとをしていいなら、昨日君が作ってたホタテの甘辛く煮たやつを入れてくれ」
「…………仕方ないね……」
「っくく、冗談だ。梅と昆布だけで有難いさ」
初期刀殿は俺のことも心配してくれているらしい。
それに気づいた途端どこか気恥しい気持ちになって、昨日の夜、大倶利伽羅の夜食を作る傍らで歌仙がひっそりと作っていた肴を要求してみる。「あれは駄目だ」と返されるかと思いきや、ぐっと呻きながら了承されて堪えきれず笑いが漏れた。
「それじゃあお休み。大倶利伽羅のことは頼んだよ」
「……そりゃあ、頼まれなくとも」
咄嗟にそう返せば、ふふ、と微笑ましそうな表情で手を振られた。
「ただいま」
おかえりの声はない。寝てしまっただろうかとも思ったが、近づいてその髪に触れれば、大倶利伽羅は顔を上げてじっとこちらを見つめてきた。
明らかに重そうな瞼に「眠いなら無理に起きていなくていい」と伝えると、消え入りそうな声で「あんたが、」と呟かれた。成程、"良い子で待っていた"らしい。隣に横たわって、それから褒めるように柔らかく撫でてやる。もはや抵抗もされなかった。
「ほら、傍にいるから早く寝な」
「……ん」
「ああ。おやすみ、伽羅坊」
大人しく目を閉じた大倶利伽羅は程なくして穏やかに寝息を立て始めた。かわいいなあ、と溢れ出た言葉は起きていたらすげなくされてしまいそうだ。呼吸に合わせて規則正しく上下する身体を見る限り、今はぐっすりと寝入っているようだが。
脱皮の期間はどうしたって無防備にならざるを得ない。それでも警戒を解かないために眠りが浅くなってしまうのだろうか。俺がこの巣を離れている間も寝る時間はあっただろうに、疲労の浮かぶ目元をなぞる。こうして傍にいる間は眠れるというのなら、夜だけと言わず一日中そうしたいものだが、きっと大倶利伽羅はそれを望まない。
「……欲がないよなあ、きみは」
それなのに俺はといえば、穏やかな夢を見られるようにと願いながら、傍にいるだけでは到底満ち足りなくなってしまった。夜明けが待ち遠しくて堪らない。だって、もうすぐ冬が来てしまう。
──きみが、眠る季節だ。