初恋はミルフィーユ 怖い、と司が言った。龍水の目を見て、真っ直ぐ見て、向かいの席に座って、テーブルを隔て、ティーカップのハンドルをつまみながら。龍水はケーキフォークでミルフィーユを倒し、司の目を見る。真っ直ぐ見る。
「怖い?何がだ」
「君の……目かな」
「フゥン?それは俺の顔立ちの話か?無粋だな、レディにそんな話をわざわざ菓子と紅茶をつついてリラックスしてる時に?」
「茶化さないで」
「今のはギャグか?」
「ふざけないで」
パ、と龍水がケーキフォークを持ったまま、両手を小さく上げる。お手上げのポーズをしている割には口角はあがっている。司はティーカップに口をつけて、中のハーブティーを一口飲み、また話し始めた。
「SAIを見る目だ。妹が兄を見る目じゃない。獣が狩りをしている時の……獲物を見る目だ」
「兄としての勘か?」
「俺が弟でも気が付いたと思うよ。SAIは何も言わないのかい、それとも君たち本当に気が付いてないの」
「さあー……?」
「さあって」
「気が付いてくれたなら、俺も楽なのだがなあ」
横倒しのミルフィーユを、ケーキフォークで割っていく。掬うように持ち上げて、口元に運ぶ。司は不思議そうにしている。
「妹としての目じゃないと、自覚があるさ。妹として見てないからな」
司の眼差しが刺さる、刺さる。司は龍水を見ている。真っ直ぐに。向かいに座って、テーブルを隔て、美しい花の描かれたティーカップのハンドルをつまみ、ハーブティーを飲みながら、ケーキを食べる龍水を見ている。
「誰の子も、腹には宿らん。ゲンあたりに探ってこいとつつかれたか?龍水財閥は同族経営をしない。父たちの二の舞を私は踏まない。その景色はもう見飽きた。私の欲しいものとは違った」
飲み込んだミルフィーユが、喉から腹へ。龍水は腹を撫で、笑ってみせる。ぺたんこのお腹には筋肉はあれど、生命が宿っている気配はない。人類復興を目指す真っ只中、会社を立ち上げなおす手練たちの社交界に参加する機会も増えた。恐らく司、あるいは司を龍水の元に向かわせた誰かが知りたいのは、先日食事を共にした男性と龍水の仲だ。ゲンか、ゼノか。件の男性の出身地はスペインと聞いた。ゲンたちも今年は欧米諸国を周っているのだったか?こんな回りくどいことをせずとも、聞かれれば答えるのにと龍水は思い……すぐに考え直した。これが利益の絡んだ事業にまつわることならば、自分は友人からの問いには答えないだろう。ビジネスの基本は信頼から。放蕩娘と言われ続けた龍水だが、荒唐無稽の馬鹿をやらかしたことは無い。彼女の根底にあるのは商家の魂なのだから。
「あれが兄でなかったら、俺はあれを囲っている。そう思う度に自分の中の七海の火が燃える。司、七海の家があそこまで大きくなったのは、一族の中に実力者を産み続け、産ませ続けたからに他ならない。七海の家は優れた人間の交配所だ、血の糸で編んだヴェールを、優れた女に被せ産ませ続けた修羅の家さ」
ミルフィーユはもう無かった。司の持つティーカップも空だ。一滴もない。
「龍水、君はSAIの妹にはなれないのかい」
「妹さ……ずっとな」
司の目線がふいと逸れた。悔やむように「そう……」とだけ呟いた。
「司。貴様は良い、兄さんだなあ」
何度ノックしても返事がなかったくせに、ミルフィーユを買ってきたの一言で扉は開いた。SAIはドアの隙間から龍水をジロリと睨みつけ、龍水の持つケーキボックスを受け取ろうと腕を伸ばしている。
「俺の分もあるからな、中に入れろ」
「なんでだよっ、もう……。いいよ、キッチンで食べよう。お前、パイ生地食べるの下手だろっ?」
「いくつの時の話をしているんだ……?」
ケーキのために、ドアが開く。龍水はケーキボックスを抱えたまま、来た道をSAIと戻る。
「なあ、SAI。俺の目が怖いか」
「は?なに……?誰かに何か言われたの?お前が落ち込むなんて珍しいね……」
「いいや、単に兄からの率直な感想を聞きたくなっただけさ」
SAIが龍水の後ろをついてくる。SAIは今、龍水の背中を見ている。自分よりも背の高い妹を後ろから見て、腕を伸ばし、ケーキボックスではなく龍水の頭を撫でた。
「別にっ……怖くないよ……」
大きな手だ。大人の男の手。小さな子どもを撫でるかのような、優しい兄の手。
「……そうか」
「そうだよ、お前は僕の妹、なんだから……」
優しい兄の、慈愛の声。わだかまりのなくなった兄妹の関係性を慈しむ兄の精一杯の愛。龍水は鼻をすする音がバレないようにしながら、足を早める。
「そうか、俺はSAIの大事な妹か」
「そこまで言ってない!……思ってないこともないっ、けどっ、さっ……」
ケーキのためにドアは開き、妹のためにキッチンに向かう。龍水が振り向いて、SAIを見る。
「SAI、俺の目は怖いか」
SAIも龍水を見る。真っ直ぐ、真っ直ぐ、向かい合って、何の隔たりもなく。
「何も変わんないよ、いつものお前の目だよ、龍水」
嘘偽りのない愛の言葉が、龍水を貫く。
「そうか」
と答えた。ケーキボックスを持つ手が震える。後ろから兄の「どうしたの」と心配の声がする。龍水は今度は振り向かない、息を整えて、歩を進める。
「なんでもない」
初恋は実らず、腹に生命は宿らない。七海龍水の兄は良い兄だ。とってもとっても、良い兄さん。