たどりついた祝福はたどりついた祝福は
わずかな、かすかな、魔法の気配がした。
それは北の大地で千年を超えて生きている魔法使いである己にとっては、取るに足らないような些細なものであった。けれどそんな些細なものでも設定している領域を越えたものは、否応なく神経に触れてくる。掃除をなまけたゆえに、棚の上から舞落ちた埃に鼻をくすぐられるくらいのささやかさで。
数か月前までのフィガロであったなら、気配があると認識するだけで歯牙にもかけなかったであろう。不意をつかれなければおいそれと敗けることはない。
けれども、そのわずかな気配に対してここまで神経質になってしまうのは、今現在、このフィガロが住まいとしている屋敷にはもう一人住人がいるからであった。
出会った当初は、弱くはないけれど、強さこそすべてである北の大地をわたり、フィガロの住まいを見つけ出したことを感心するほどには、強くなかった。いまは、その頃よりは強く、そして自身の力の扱い方を身に着けてはいるが、まだまだ発展途上といっていい若い魔法使い。
彼の生来のものもあったし、フィガロが与えたものもあった。与えられるばかりではなく、彼自身が絶えず思考し、試行し、自分で磨いたものもあった。そういったものが相まって健やかに、しなやかに日々めざましく成長している、いまとなっては目の中に入れてもいたくないほどに可愛いものとなった弟子。
そんな彼に、北で生き残っている魔法使いたちがフィガロに向けるようなものを近づけたくはなかった。必要があるのであれば、それはフィガロが意図し、選別する。彼の持つ知識と力とすべてをもって、ぎりぎり対応できるくらいのものを。
けれども、今日はそういった血みどろになる可能性のある修行の日ではなく、書庫で知識を蓄える日に当てていた。真面目な弟子は、フィガロが出した課題に取り組むべく書庫の中で必要な文献を捜しに席を外している。
ゆえに少しばかり手持無沙汰であったので、そのわずかな気配に意識を向けてみたのだ。
それは弱い力がいくつもかたまって、うちいくつかはもう力もなく気配だけとなっている。まとまったところで弱弱しく、いまにも消えてしまいそうなことには変わりない。目的地はここなのであろうが果たして、たどり着けるだろうか。
無害の皮をかぶった悪意や敵意、呪いの類でもない。
淡く輝く祝福や信仰がそこにはあった。
繊細さや技巧のたぐいもなく、拙い。数と力に任せたけれども真摯なそういったものを受けたことはある。けれどどうやら今回は己に向けられたものではないらしい。とすると、こちらに向かってくるのはなぜか。
俯き気味に、どこを見るでもなく机上の本に目線を落としていたフィガロはふと、窓の外に目を向けた。いまにも北の冷たく強い風にかき混ぜられ、消えそうであったその気配に、北の精霊が力を貸したことに気づいたからだ。
なぜ。これまで蓄積した知識、経験、それらをもって考えてみるに理由はすぐには思い浮かばなかった。
北の精霊たちは強いものを好むし、弱いものには興味を示さないどころか不愉快なものとして一掃することもある。そんな彼らが、あんなに弱いものに手を貸すのだろうか。
「フィガロ様?」
フィガロの視線を窓からはがしたのは、背後からかけられた声だった。
「ファウスト。ああ、文献は見つかった?」
声のほうへと顔を向ければ、何冊かの本を浮かせて運びながら、1冊を腕に抱えたファウストが、小さくかしげていた首を縦に振った。
「はい。おっしゃっていた場所にありました。他にも参考になりそうなものを見つけたのでいくつかお借りします」
「うん、いいよ。好きに使ってやってみて」
はい、と頷いた彼が腕に抱いていた本を机に乗せた。浮いていた本たちがその隣に静かに重なっていく。ばたばたと音を立てない、彼が手ずからそうしているような丁寧な扱いは、見ていて好ましかった。
修業を始めた当初、人間の中で暮らしていたこともあったのだろう、日常の中で魔法を使うという発想がなかったようであった彼に、魔法をうまく扱うためのコツとして一番初めに教えたことだ。手を使うように、生活の中で魔法を使うこと。
点灯、消灯、着替えや整理整頓、料理や洗濯。もちろん手ずからしたほうが早く正確なこともある。けれども、魔法を特別なものではなく、魔法使いにとっては手や脚を使うのと同じ生活の中にあるものだということを実感してほしかった。そのほうが精霊も魔法も馴染む、身体の一部であるかのように。
はじめは途中で落としてしまったり、最後まで丁寧に扱えなかったりと失敗もしていたけれど、この数か月ですっかり身の回りのことに魔法を使って生活することにも馴れたようである。
「外に何か、気になるものでも?」
机の上に乗った文献を挟んで正面の椅子を引いたファウストが、その座面に腰を下ろす前に怪訝そうに、けれども隠しきれぬ好奇心の色をそのアメジストの瞳ににじませて問うた。
「そうだね、なんだろう、と思っていて」
本当になんと言ったらいいのかわからなかった。誤魔化すつもりではなく本心からそう言っていると感じたのだろう、ファウストはそれ以上問いを重ねるのではなく、フィガロと同じく視線を窓の外に向けた。
ささやかで悪意のない気配は精霊の加護を受け、散らされることなくまっすぐにこちらに向かってきている。
「感じらとれるかい?」
真剣な表情で窓の外に向けた目を凝らしたファウストは、少し考えるそぶりを見せてからゆっくりと目を閉じた。いつであったか、探査魔法についての講義の時に教えた、感覚を一つ閉じることで別の感覚を鋭くすることを実践しようとしているのかもしれない。
感触を確かめるかのように両腕がわずかに広がり、手のひらが上に向けられる。
「悪意や敵意ではなさそうです。祈り……のような。知っている気配もあります」
「知っている気配?」
「はい」
手を下ろし、目を開けたファウストが椅子から離れて窓に近づいた。
「窓を開けます」
「いいよ」
ファウストが知っている気配、ということはあれらは彼に向かってきているということだ。とするならば、出どころは。
ファウストが窓を開ければ、張り詰める北の空気が一気に入り込んでくる。目的地をはっきりと認識したように気配の勢いが増すのと同時に、フィガロはそれがなんであるのか理解
した。
「わっ」
北の精霊の力を借りて形を保っていたそれが、開かれた窓を通ってファウストの頭上に到達する。そして、ぱん、と小さな破裂音を伴って弾けたそれが、きらきらと小さな光の粒となって、彼の鈍いブロンドの髪へと降り注いだ。
「これは……」
「祝福だね。きみにむけたものだ」
「どこから」
「探ってごらん。わかるはずだよ」
指先に纏わせた光の粒を、じっとそれを見つめるファウストの目が遠くを見るようなものに変わり、そして何かに気づいたように見開かれ、つるりとしたアメジストに光が宿る。驚愕、戸惑い、喜び、とのその色を変えていくさまを眺めながら、フィガロは光の粒をひとすくい人差し指で受け止めた。
送り元はこの北の国ではない、中央の国の北東あたり。ファウストが属する革命軍がいま拠点としている場所なのだろう。数人の魔法使いの魔力のなかに知っているものがあった。
ファウスト共にこの屋敷を訪れた、彼の従者。たしかレノ、レノックスだ。レノックスはこの場所を知っている。だがここを座標として認識し、到達地点と設定したというわけでなさそうだ。込められた魔法を解析するに、方向だけ定めて力技でここまで届けようとしたようだった。
知識には乏しく、荒削りで、力技というには魔力もそれほど強くない。
かの軍に集っている魔法使いの実力はこんなものか、と考えたところで、はたと気づいた。
「どうしてこのタイミングで送られてきたんだろうか」
「それは、おそらく今日が僕の誕生日だからだと思います」
「え?」
「物を贈れるほどの余裕がなかったので、仲間の誕生日には、とびきりの祝福を贈るんです。とびきり、といっても戦いに赴くときに贈るものとは違う趣向をこらすくらいだったんですが」
ここまで届くなんて、すごい。綻ぶように笑んだファウストが手のひらで受け止める祝福の所以を教えてくれる。けれどもその前に告げられた単語が気になって、情報として流れていくだけだった。
「誕生日?」
「はい。あ、北の精霊の力も感じます。もしかして力を貸してくれたのかな。皆の気持ちの強さに答えてくれだのだろうか。ありがとう」
「それはたぶん、きみへの祝福だったからじゃないかな。この辺りの精霊にはきみかなり好かれているから」
噛み合わない。感動したようにいまだ散る光の粒を見つめてばかりいるファウストは、珍しくフィガロからの問いに生返事だ。
遠く離れた地にいる仲間からと、やってきて半年にも満たないこの土地の精霊から祝福を受ける弟子の姿は、それはとても誇らしく、微笑ましいものだけれど。でも、それよりも。
「今日?」
「え?」
「ファウスト、きみの誕生日」
ようやく、眼差しがかちあった。祝福はもう光のを失いその効力をファウストに与えるばかりだ。けれども彼の手はまだそれを受け止めるために、手のひらを上に向けまま、袖口からほっそりとした手首をのぞかせている。
フィガロからの問いの意味を理解できないのか、目を丸く見開いて唇を薄く開けた顔つきは可愛らしいけど、そうではない。それどころではなくて。
「今日です」
「いくつになった?」
「十八になりました」
「そっか。誕生日おめでとうファウスト。何も準備してなくてすまないね」
「いえ、フィガロ様には日頃からたくさんのものをいただいています。こうして今日という日もこうして教えを乞い、それが叶ってる。それがどれほどのことか理解しています。そんな中で、精霊や、仲間からも祝ってもらいました。僕は幸せ者です」
「そう」
「はい」
嬉しげに口許はほころばせているファウストのフィガロを見つめる眼差し、その表情、声音、それらに嘘はなく、ただまっすぐな敬意を感謝が向けられている。それはひどく心地よく、暖かで、フィガロの心を沸き立たせるものだった。
けれどやはり、それでは足りない。
フィガロはゆったりとした動作で椅子から立ち上がった。とっておき、というならとっておきの酒がある。そうだ、そうしよう。居間の暖炉のそばにテーブルを置いて整えて、と思い付いたままに魔法を発動させ、数部屋先にある居間の家具をすでに動かしながら、必要な物を思い浮かべた。
「ファウストはこのあと、ここで課題を解いていて。文献も揃っているし、君なら解けるだろうからね」
「わかりました。フィガロ様はどうされるのですか?」
「俺はちょっと準備をすることにする」
「準備、ですか?」
「そう、せっかくの誕生日だ、いつもとは違うディナーといこうじゃないか」
微笑みながら、右手を彼に向かって伸ばした。ファウストの髪にわずかに残った祝福の光を人差し指の背ですくい、払う。それが彼に馴染むのを認めてついでに、髪を耳にかけてやった。
「祝わせて、俺にも」
「そんな、いえ、ありがとうございます」
頬を染めた嬉しそうな愛弟子の微笑みは、フィガロが引き出した、フィガロだけに向けられたもの。
それはもうかわいかった。