こたえはいち チョコレートがついている。
隣に座ったファウストの、フィガロの前に立つときには比較的下がり気味で、東の国の魔法使いや子供たち、猫などを前にした時には上がっていることもある口の端、口角の右側についた茶色のそれを横目に見ながら、フィガロは手にしたグラスに口を付けた。
薄い唇が縁取る彼の口は、その大きさからどうしてあれだけの音量と芯のある声が出るのかが不思議でならないほどには小さい、と思う。本当は大きいのだろうか、食べるときにはそれほど開かないだけで。
それに、若いころから食事の仕方は綺麗だった。偏見も含むことを承知しつついうならば、大分昔の辺境の村の出身であるにもかかわらず。当時、外見の年齢のままにしか生きていなかったころから。ということは、生まれ育った家でそう躾られたのだろう。テーブルマナーは苦手です、決まりごとがたくさんあって。なんて、フィガロが魔法で用意した料理たちに対して可愛らしく恥じらっていたこともあったけれど、使うカトラリーの種類と順番を一度教えてやればそれ以降、ほとんど 間違うことはなかった。
いや、いまはそれどころではない。そんな、小さな口に余裕をもって入る分しか口の中に食べ物を入れない彼が、チョコレートを口の端につけているのだ。日に焼けぬ白い肌を汚すその茶色がひどく目について。これはいったい、なにかの示唆か。
叡智の二つ名をもつフィガロの頭脳が回転する。これまでの経験と知識とそれらを分析して得た知見と、持ちうる限りのすべてをもって、あらゆる可能性をはじき出し、自身の行動の取捨選択しようと動き出した。
まずは現段階の状況を確認しようか。
時間は夜。若い魔法使いは寝静まり、夜を楽しむ大人の時間だ。この先の授業の準備をしようと図書室に赴いたら、同じ目的だったのだろう彼もいた。軽い挨拶をして、いつものように一蹴され、これが“いつもの掛け合い”ってやつ。と悦に入りながら目的の棚で文献を見繕い、それらを運んで適当な机に腰をおちつける。彼から遠すぎず近すぎない、視界の端に入る場所。するとファウストのほうからやってきたのだ。
他の雑談にはなかなか興じてくれないが、授業や任務の問題解決に関することとなると話は別で、彼は時折フィガロに助言を求めにやってくる。先ほど挨拶の際に彼が机に広げていた文献と何かしら書き留めていた紙を見たから、質問内容も予測ができていた。
薬草と魔法植物の組み合わせと効能、対象について、の基礎から三歩くらい応用に踏み込んだ内容のそれ。時と場合と状況と、それより優先される基本効能、知識と経験則から導き出される答えを理論立てて組み立てて、優先順位をつけて言葉にする。教えるって意外と学ぶことが多いよね、なんて、言ったら頷いてくれそうな気がする。これは口には出してみなかったけれど。
そうして気づけば彼はフィガロのそばに移動してきて、いくつか授業についての話をした。ほかには、昔からの知識と最近の常識をアップデートしたりとか。立場は少し違っているけれど、彼に魔法を教えていた頃のようなその時間を、フィガロは結構気に入っている。今夜のファウストはなんだか纏う雰囲気が柔らかくて、フィガロに対して開いている気がした。あれもこれも気のせいなのかもしれないけれど、読み間違えていたとしても傷つくのは自分一人だ。ともすれば自由なもので、浮かれた気分のままに、この後軽くいっぱいどう?なんて聞いてみたのだ。
拒絶六割、承諾三割、残りの一割は未知数。これでも拒絶八割から大分好転した統計だ。承諾が三割に増したのは、ファウストの押しに弱いところのさらに弱いところを押すコツを、あれこれ試して得た技術だ。さて今夜は、どう転ぶだろうか。
答えは承諾。そしていま、魔法舎の四階、ファウストの部屋にいる。フィガロの部屋に誘ったけれどそれは拒否されたのだ。全てを思い通りに運ぶのは難しい。魔法で出したテーブルを前にベッドの上に並んで座っているのは、椅子を二脚置くには床のスペースが足りなかったから。ならば部屋にある一脚をフィガロに譲って彼自身はベッドに座る提案をされたのだけれど、せっかくなら、彼のベッドに興味もあったので、そこはうまくうやむやにしていまこの状態というわけだ。
ボトルの中身はウイスキー。肴はともに賢者にもらったチョコレート。子供たちや甘いものに目がない魔法使いたちには甘めのチョコレート、酒好きには甘さ控えめのチョコレート、と贈る相手によって種類を変えていたらしい。そんなに気を遣わなくてもいいのにとも思うのだけれど、真心のこもった贈り物はうれしいし、こうしてファウストとの共通の話題にもなるのでありがたかった。
こぶし二つ分あけて隣に座ったファウストは、いつも身に着けているケープも帽子も脱いでいる。少しだけくつろいだ様子で、けれども眼鏡と装飾品はまだ彼を守る鎧の役目を負っていた。それも外してしまえばいいのに。手袋は、チョコレートをつまむために外された。そのまま素肌の指がグラスを掴んでくるくる回し、なかに注がれた琥珀色の液体を氷にまとわりつかせて遊んでいる。
上向いたまつげに縁取られた菫色のまなざしが向けられるのは言葉をこちらにかけるときだけ。それも色のついたレンズに阻まれて本来の色を見ることはなかなか叶わない。外からの光を一切遮断している暗い部屋のなかで、灯りをともすのは蝋燭の小さな炎だけ。まあ、暗さなど関係なく視界は良好。そういう魔法は意識せずともフィガロのすぐそばにあった。
口明けにしたボトルは既に空で、今飲んでいるのは二本目である。程よく酒精がまわっているのは、楽しそうな雰囲気が増したファウストの様子から見て取れた。フィガロもフィガロで、いつもよりも思考の精度が落ちている自覚がある。自覚はあるが、いつもより、というだけで完全に鈍っているわけではないことだけは宣言しておきたい。
この思考にかかった時間だってものの数瞬だ。さてこの前提において、口元にチョコレートをつけたファウスト、と解く。その心は。
一、キスを誘っている。口の端につけたものを、唇を寄せてなめとるついでにキス。こういう場において常套手段だ。と、思う。
二、うっかり。なので、下手にキスしようものなら部屋から追い出されるか、彼自身がここから出て行ってしまううえに、しばらく口をきいてすらくれなくなるかもしれない。
三、幼心に戻って口を拭ってほしい。甘え。いやないだろう、大丈夫か俺。
一がいいし、一だろうと思う。だからこそ、選択肢の一番上に挙がってくるのだ。おおむね一だろう、だがしかし、こういう場合においてフィガロの頭脳は答えを間違えがちだ。こと、ファウスト相手に関することにおいて。
悩ましいので消去法で冷静に考えよう。まず三はないだろう。なんだそれ、と自分で導き出した答えであるのにありえないと思う。ということは二、か。一がいいけど、二だろうな。残念すぎる。相手がファウストではなかったら迷わず一だけれど、相手がファウストではなかったら一は選ばない。世知辛い。
では、ファウストの行動が、二の「うっかり」であったとして、ならばフィガロが取るべき行動はどうか。唇を寄せる、ではない、違う違う。指で拭ってなめてみる、でもない。ええい、働け俺の頭脳。言葉で指摘する、そうそれそれ。
すでに手をすこしだけ彼のほうに向かってついて身体を傾けていたフィガロは慌てて軌道修正をかけた。危ない、もう少し叡智の結晶の導き出す結論が遅かったら、選択肢を間違えるところだった。
「ファウスト」
「なんだ」
眼鏡越しの菫色がフィガロに向けられる。以前は敬意の輝きをもって直接向けられていたからか、やはり眼鏡が邪魔だなと思った。
「チョコレート、ついてるよ」
ここ、と自身の口の右端を指で示すと、小さく首をかしげたファウストが自分の口元に目線をやる。あ、寄り眼みたいになって可愛い。
「どこだ?」
「え……?」
「どこ」
こぶし二つ分であった距離がひとつ分ほどに詰められた。教えてくれ、といわんばかりにすっと顔を差し出して、眼鏡のガラスの向こうで、菫色が瞼に隠される。
ベッドの上、フィガロのほうに両手をついて上半身を傾けて、差し出された顔。瞼を下ろしてすこしだけ、顎を上向けている。姿だけ見れば口づけを待っているかのような目の前の光景にただ、思考だけぐるぐるぐるぐる回っていて、いつものように口は回らない。
フィガロが少しかがんで顔を傾け近づければ、それだけで唇を寄せることだって簡単だ。だって彼は見ていない。じわりを咥内に湧き出た唾液を飲み込んだ。ごくり、とやたら大きな音が気がして、しかしてそれはフィガロにだけ聞こえるためらいの音。
伸ばした指先が震える。そんなことここ数百年、いやもしかしたら生まれてこのかたなかったかもしれない。唾液を飲み込む音とともに主張し始めた心臓の鼓動が、やたら大きく耳の奥で脈打っていた。
「こ……ここ」
どうやって普段言葉を連ねていただろうか。ファウストの反応を見るため、どこまで拒絶していてどこまで拒絶されないのか。押し切れるのはどこまでか。反応するということはまだ見限られ切っていないということで、反発は期待の裏返しだ。だから、まだ彼がフィガロに期待することがあるならば、できることはなんだって応えてやりたいと思っている。
震える指先で、まずは顎に触れた。距離感を間違えないために。それから、ゆっくり口の右端に。触れた指先をすこしだけ肌を押し込んで、横に滑らせチョコレートを指先に移した。それでもまだぬぐい切れなかったものが彼の肌の上に残っている。
「ここか」
ぱちり、と瞼が開かれた。フィガロの指が離れるか離れないかのところにあるというのに、彼の舌ちろりと口の端からのぞく。口の端をなめとる際に、その舌が離れるのに間に合わなかったフィガロの指先に触れていた。
「ありがとう」
少しだけもの言いたげな色が菫色の目に乗る。なにか、まちがえただろうか、また。ファウストの期待に、希望に、できるだけのっとっりたいと思っているのだけれど、しょっちゅう選択肢を間違えている自覚はあった。だから、今回もまたまちがえたのかもしれない。
うんとも、ああともつかない言葉にもならない声しか出せなかったフィガロを見て、彼は少しだけ笑ったようだった。微笑んで、ため息をついて、それから眼鏡をそっと外した。なぜ。眼鏡の弦をおり、テーブルの上にそれを乗せたファウストが、グラスを見てボトルを見て、それからまたフィガロを見た。
「なあ」
「うん?」
「おまえの顔にもついてる」
「え、うそ、どこ」
直接向けられた菫色。そこに自身が映っていることにじわりと這い上がるのは歓喜だ。うれしい、けれど少しだけ苦しい。
「顔に触れても?」
「いい、けど」
ああ本当に、もっと言葉を紡げるはずなのに。先ほどまで高速回転していた思考はいまは完全に停止していて何も考えられない。酒精のせいか。いや、そんなに飲んではいないはず。考えられたとしても、恥ずかしいような青い期待しか導き出さないような気がするが。
こぶしひとつ分の二人の距離、その間にファウストが左手をつく。伸びてきた右手が、さきほどフィガロがそうしたようにまずは顎に触れた。その指先を目で追ってしまう。整えられた爪、細い指先、そこに続く骨ばった手。だから、というわけではないのだけれど、近づいているものへの認識が遅れた。普段ならばそんなことはない、そんな無防備な真似していたら、二千年も北の国で生きていけない。
気づいたときには間近にオリーブ色の髪があった。口の端に柔らかなものが触れ、そして離れる。
眼前で、オリーブ色の隙間から、菫色の目がこちらを見上げていた。それがゆっくりと瞼に隠されて、鼻先がぶつからない角度に傾けられた顔がまた近づく。今度は唇全体に、しっかりと、けれども柔らかいものが重ねられた。
「うそだよ」
押し付けられたものが離れ、けれどもまだ吐息がかかる距離にある。キスをするときの呼吸の仕方は教えることができるくらいに詳しかったはずなのに、いまはどう息をしたらいいのかわからなかった。
「キスがしたかっただけだ」
悪戯が成功したあとのような楽し気に輝く菫色が細められた。
「色々考えてこらえた俺が、ばかみたいじゃない」
かろうじて口にできた言葉とともに彼の頬に手を添えれば、気持ちよさげにすり寄られる。
「おまえはそういうの、考えないほうがいいってことだよ」
ファウストの目線がフィガロの目と唇とをいったりきたり、まるでどうしたいのかと訪ねてくるかのようだった。これは、いいってことか。あっている?まちがえていない?ばくばくと跳ねる心臓の音がうるさくて、これが彼に聞こえていたら、格好良さのかけらもない。
まだすこしだけ躊躇いはある。けれども目の前にある薄くて小さく見える唇の、その中の広さを知りたくて。いやちがう、そこに触れたくてたまらない。
頬に添えた手でファウストの顔を固定する。それから、今度はフィガロが首を傾ければ、口づけの予感にファウストの目が満足げに細められ、そして閉じられた。その動きに誘われるように、唇を寄せる。
触れた柔らかさはさきほどと同じもの。すこしだけ甘いのはチョコレートの残り香だろうか。目を閉じれば、一つの感覚を失ったことでほかの感覚が鋭敏になり、鼻腔をくすぐるのはこの部屋に漂う空気がより濃くなったような彼の香りだ。
重ねて、唇で挟んで食んだ。柔らかくて、気持ちがよくて、もう少し深く触れたくなる。いいだろうか、と舌先で彼の唇を突いてみれば閉じられていたところに薄く隙間ができたから、そっと入り込んでみた。おそるおそる、というのが伝わったのか、ファウストが喉の奥で笑ったのがわかった。
だってもう、きみに関する重要なことは何ひとつだって間違えたくない。