【フィガファウ】「清純派」「触れる」「清純派、清純派うるさい」
怒りにも似た焦りの滲んだ声。フィガロをまっすぐにとらえる紫眼がすぐ間近に迫っていた。
そんなこといったって、きみのことを妖艶、あるいは汚濁とかそういうものと、清純と、どちらなのかといわれたら圧倒的に後者じゃないか。なんて言おうものなら、選択肢が極端すぎる。とか、いやもしかしたら、僕には汚濁が似合うに決まってる。なんて本気の目をして返してくるのかもしれない。少しばかりの怒りを添えて。
しかし、幸か不幸かフィガロはそれを言葉にしてファウストの怒りを買うことはなく、ただただ瞬きの間に頭の中でだけ巡った思考であった。
言葉を発するために唇が、塞がれていて声を出すことも開くことができなかったので。
本当は、フィガロから言葉を奪うほどの拘束力はもっていない、柔らかくて少しだけかさついた、けれども隙間が少しだけ湿り気を帯びているもの。それがフィガロの唇に重なっている。むにむにと食むようにして動くのだけれど、それ以上何かをしてくるわけではなかった。
押し付けて、はさむだけ。
近すぎで合わなかった焦点を合わせてみれば、眼前では、先ほどまでまっすぐにフィガロをとらえていた紫眼がぎゅっと強く閉じられた瞼に隠されている。眉間には皺が深く刻まれていて、まるで機嫌が悪いときのようだ。けれども目元にもそれに続く頬にだって、うっすら朱がさしているいるから、おそらくそうではない、ということはわかった。
おそらく、とついてしまうのが、わかりやすいのにわかりにくい、彼の地雷を踏み抜いてしまった過去の経験ゆえである。
目を閉じるのがマナー、というのはどこから得た知識だろうか。書物か、それとも四百年の間に誰かがファウストに教えたのだろうか。いや、後者であるならきっと、こんな閉じ方にはならないはず。前者であろう。うん、きっと、たぶんそうだ。そういうことにしておこう。
普段ならばもっと客観的にいくつもの選択肢を見出すのに、いまは随分と主観的で自分本位だ。そんな自分がおかしくて、目の前の彼が可愛らしくて、ふっと笑みの息がこぼれた。
それをどういうふうに受け取ったのだろうか。びくりとファウストの肩が震え、その振動が、フィガロの両肩に置かれた彼の手のひらから伝わってくる。違うよ、大丈夫だよ。そう伝えるつもりで右肩に置かれた、ファウストの左手の甲に触れると、指先が小さく跳ねた。
肩に置かれた手に力がこもる。身を離そうとしている気配に、フィガロは素早く彼の左手に重ねた右手に力を込め、左手で彼の右腕の肘の上を掴んだ。離れることを阻む動きに、ファウストが動きを止める。ぎゅっと閉じられていた瞼が、そろり、と開かれた。現れた紫眼は、戸惑いを含んで揺れている。いつかの頃と同じように、これでいいのでしょうか、と問われているようで肯定のために目を細めて見せた。
右肘の骨の形をなぞってから、そっと彼の頬に手を伸ばす。笑みの形に口角が吊り上がっていることを自覚しながら、けれどそれをどうしたって普段の微笑のように戻すことができない。
唇だけくっついたまま。触れるだけの拙い口づけ。そこからどうしたらいいのかわからなくて固まってしまうだなんて、やっぱり清純派じゃないか。
嘲っているわけではないことだけは確実に伝わってほしい。そのためには、きちんと言葉で伝えなければ。
ファウストの頬に左手の指先を添え、少しだけ顎の角度を変える。そうすると、鼻先がかすかに触れ合うかたちで、唇が離れた。
「嬉しいよ」
ファウストが何かしら言葉を発するより先に言う。言葉を尽くそうとしては間に合わない。端的で的確な言葉を探すまえに口から飛び出していた。右手で触れていた彼の左手を、己の頬に運ぶ。緊張を物語るように頬に触れた指先は汗ばんでいた。
言葉を探すように彼の唇が、何度か開いて閉じるたびに見え隠れする白い歯と赤い舌。見つめあっていたって視界の端でちらつくそれに意識を持っていかれる。
「フィ……」
「いやじゃないなら、口を開けて」
また、彼の言葉を封じ、ファウストの頬に添えた指に力を込め、そして顎を傾けた。触覚に集中するため、目を閉じ距離を測ったとて、さまになるくらいには慣れている。けれどもいまは、薄くでも目を開けてみていたかった。どんな表情をするの。いつ目を閉じるの。目は閉じないの。もし閉じるなら、その目には最後にどんな色を宿すの。
「そんな大きくじゃなくていいからね」
フィガロが唇を重ねる直前に、ファウストが深く息を吸おうとしたので、そう告げた。