【フィ+ファ】師弟時代のメモワール師弟時代のメモワール
あれは確か、近くの街で大きな朝市が開かれる日だったはずだ。弟子入りしてふた月ほどで、ようやくフィガロとふたりきりの北での生活にも修行にもなれてきた彼を、街に連れて行こうと思っていた日。前日の夜にそのことを伝えたら、ひどく嬉しそうに楽しみですとほころんだ笑顔が眩しかったことを覚えている。
揺れた鈍いブロンドの髪、細められた菫の目と紅潮した頬、引き上げられた口角の記憶と、弟子っていいものかもしれない期待と感慨を肴に少しばかり酒飲んで、飲みすぎて、朝を寝過ごしたのであった。
普段ならば返事がなければ開けぬドアを開き、許可なく部屋に踏み込んだ弟子が、体調不良か、不慮の何かがあったのかと心配してフィガロの様子を確かめたのちに、足元に転がる酒瓶を見つけたのであろう。
「フィガロ様!」
大きくよく通る声が鼓膜を揺らし、目を開けたフィガロの前には、見たことのない表情をした弟子がいた。
予定の時間よりも寝過ごしたことはそれまでも何度かあった。そういう時には書庫にこもって自習に励んだり、屋敷の中を探索したり、身体を動かしたりと、フィガロのそれを咎めることのなかった彼がである。
「飲みすぎないでくださいね、っていったじゃないですか!」
言葉と当時に彼が叩いた羽毛布団が、ばふん、と柔らかな音を立てた。柔らかな羽毛の下にあるフィガロの身体にはわずか負荷しか感じられない。
そうなのである。昨夜、彼を朝市に誘った際に、嬉しそうにはにかんだ彼にそう言われたのであった。もちろんさ、なんて答えておいてこの体たらくである。本当に少しだけ、あまりに気分が良かったからそれに浸りたくて少しだけ飲んだつもりだったのだけれど、あまりに気分がよかったから杯が進んだのも記憶にあった。
「もう!」
というのはフィガロへの叱責の声であった。けれどもそこには甘えがあった。師匠と弟子という立場で本来ならば、そういう言い方はしない子であるとすでにわかっていたからだ。
仕方なのない人、という悪い意味ではない諦めがあって、それは侮りでもなかったし、声や言葉とは裏腹にすでに赦されているということがなぜだか理解できた。
その時自分の中に生まれた感情はまだ外に出さずに己の内でだけじっくりと噛み締めたかったのもあって、フィガロはそういうときの最適解であろう言葉をちゃんと口にしたのである。
「悪かったね」
そう言えば、赦しているくせに、赦しません、と彼が言う。少しだけ頬と目尻を赤くして。尖った唇は拗ねた心の表れのようだ。
どれもこれも初めて向けられたもので、まるで。そう、まるで人間が近しい人に向けるもののような、そういうものだった。はたからは見たことのあるそれを向けられて、その親しみのようなものを、 いいな。と思った。滲んだ感情は喜びだった。けれどもそれを口にするのは流石に場違いではあると理解していた。
魔法使いは約束をしない。だから精一杯の誠意を込めて、フィガロは彼に手を伸ばす。
「また来月行こう」
今度こそ、ね。と言葉を重ねれば、彼は渋々といった様相で頷いたのだった。