杉鯉の日 「お前といると飽きんな」
鯉登はよくそう言って笑う。
明治の頃の俺に対する記憶がないこいつと再会してから何故かルームシェアするに至っているが、大まかな理由を言ってしまえば今世もこいつはボンボンで俺は金に困っているからとしか言いようがない。
鯉登は鶴見中尉や月島軍曹、尾形たちのことは覚えているのに俺のことは覚えていなかった。
前世では事あるごとに喧嘩になる相手だったが、今は少し高飛車でも気のいいやつだ。高飛車が大して鼻につかないのは、本人が努力家で実力派でもあるからだろう。
「俺もお前といると楽しいよ」
「杉元に面と向かって言われると些か照れくさいな。私もお前とは長い付き合いになりそうだと思っている」
生まれ育った環境も違えば、金銭感覚も価値観も俺とはかけ離れた存在だが、樺太でヘンケやエノノカちゃんたちに対してそうだったように今も俺のやることに口は出しても偏見で否定するようなことはしないのだ。
(そういや、尾形に対してだけは鯉登らしくない物言いだったけど何かされたんだろうか)
今の鯉登がそうであるように、当時の鯉登にも本人にしかわからない挫折や苦労があったのだろう。
「杉元は大学を出たら郷里へ帰るのか」
「いや……多分東京で就職すると思う」
トーンの落ちた声色で聞かれて、思わず反射的に口走ってしまったが実際にはそこまではっきりと考えているわけではなかった。
「そうか!社会人になっても杉元と一緒に居られたら嬉しい」
ホッとしたような顔で微笑まれると心臓に悪い。
畜生、お前は今も昔も頗る顔がいいんだから自覚を持て自覚を。
「そうだな、お前とはこれからも友だちで居たいと思ってるよ」
友だち、か。
自分で言ってみて胸の奥に違和感を覚える程度には、こいつの事が気になっていた。
いや、多分ではなく、きっと、俺は鯉登のことが好きなのだ。
*
これからも友だちで居たいと思っている、そう言質を取れて喜ばしいはずなのに何故だが浮かない気分の自分がいる。
目の前の綺麗な顔立ちの男をぼんやりと眺めながら私は心の中で首を傾げた。
杉元とは大学に入ってから知り合った。
自分とはまったく違う境遇で生きて来た男に興味を持ったし、何かにつけて気持ちの良い男だった。
性別を問わず杉元に好意的な人間は多い。
人に対して少しお節介で、そしてかなり損な役回りを引き受ける男だった。
*
「なぁ、何で俺がお前の枕になってるわけ」
寝起きの不機嫌な声が上から降ってくる。
うるさいな、私はもう少し寝ていたいんだ。
「おい、鯉登。おーい、音之進」
急に下の名で呼ばれて跳ね起きた。
家族や同郷の花沢にしか呼ばれることのない名前だ。
「なんだ杉元」
「おはよう。ところで何でお前が俺の布団の中にいるんだよ」
杉元の布団。確かにそのようだが、何故ここに自分が居るかについて記憶の糸を辿る。
昨晩、都内であった親戚の法事に顔を出したあと、しこたま飲まされて帰宅したのが日付を跨ぐ頃。
シャワーを浴びて出て来たところでリビングに布団を敷いて寝ている杉元の寝顔があどけなくて、何となく……そう何となくだ。
自室に戻るのが面倒なくらい眠かった、そう言えば納得してもらえるだろうか。
「あー、すまん。寝ぼけていたようだ」
結局まとめればこれに尽きると脳内で整理してから伝えれば、杉元は数秒拳を額に当てて唸っていたが出てきた言葉は「心臓に悪いからやめてくれ」のひと言だけだった。
杉元は、優しい――。
*
鯉登には常々自分の顔の良さを自覚するよう促してきたつもりだが、本人の自覚が足りないのか平気で今朝のような事をする。
普段はそうでもないが、たまに距離感を見誤るのだ。
俺がキッチンに立っているときもあまりに顔を近づけて手元を覗き込んでくるのだから困ったものだ。
幾度「近い近い近い」と注意したか分からない。
俺には分からない高そうな香水をつけているせいか、普段から近寄られるといい匂いがしてとても宜しくない。
そう、今まさにラストノートが甘い。
今夜はゼミ仲間に集られたらしく、俺がバイトから帰って来たタイミングで鯉登も少し酔って帰って来た。
そして帰って来るなり寒いと言って俺の懐に飛び込んで来たのだ。
俺からすれば十分お前も体温高いぞ、と思いつつその体温のせいでじんわりと薫ってくる香水がエロい。
「ほら、お前も着替えるかシャワーを浴びて来い」
「んー、もう少しだけ暖を取らせろ」
そう言って鯉登は俺の首のうしろに腕を巻きつけて来たのでいよいよもってヤバいと、力の限り肩を掴んで引き離した。
「こら酔っ払い、目を覚ませ」
「酔ってなどおらん」
本人はそう申告するが俺から見れば少し潤んだ眼と判断力の低下している様子が明らかに酔っ払いのそれである。
色気が尋常じゃないな、と赤くなっている目元を親指で撫でてやると気持ちよさそうに頬も擦り付けてきた。
「鯉登、誰にでもそういうことするなよ」と窘めると、頬を膨らませる。
ああ、駄目だなこれは。俺まで酩酊している気分だ。
気づけば自然に口を寄せていた。
最初は軽く触れるだけのキス。
何度か啄んでみたが鯉登が無反応なので、腰を引き寄せて今度はがぶりと唇ごと食むとやっと身をよじる気配がした。
鯉登の手が俺の後頭部に周り、ぐっと固定されたので俺も同じようにしてやる。
角度を変えながら舌先でノックした唇は簡単に開いた。
口の中は酒臭い、と思ったがそれ以上に鯉登の唾液が甘く感じてしまうあたり自分も末期だ。
舌で上顎を擦ると「んっ」と小さな声が漏れる。
そうかそうかここが弱いのか、と重点的に攻めると今度は鯉登の舌が俺の舌を吸い上げて来た。
負けず嫌いが発動したな。
100年以上前の、あの頃も子供じみた張り合いをしていたことを思い出して思わず笑ってしまう。
「こら杉元、何がおかしい」
「いや、お前は変わらないなと思っただけだよ」
「よく分からんが、もうキスは終わりか」
「……これからが本番だぜ」
自分の負けず嫌いも変わっていない。
俺は心の中で降参ポーズを取って再び鯉登の唇を貪ることに集中したのだった。