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    bin_tumetume

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    bin_tumetume

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    『DOG EAT DOG』で展示した作品です。
    開催おめでとうございました!
    完結に向けてちまちま書き足しています。
    人を選ぶ内容を含むため、最初の注意事項をしっかり読んでからお進みください。

    『人魚病』(前編)*注意事項*
    ・絶叫!?オオカミの森へようこそ!までのイベント履修済、★4のサイストは一部未履修有の状態で書いています。それでも記憶力がポンなので齟齬があったらすみません。
    ・花吐き病から着想したオリジナルの奇病が主軸になります。そのため、闘病や体調不良に関する描写があります。また、人体が異物に変形するような描写があります。(痛みを感じるような描写は少ないです。嘔吐表現などはありません)




    * * *


     ――――――――


     青柳冬弥にとって、東雲彰人は冷ややかな冬の夜に浮かぶ清廉な月のような存在だった。
     その眩さや夕焼け色の髪から太陽と比喩しても良かったが、どちらかといえばやはり月のようだと思っている。それは彰人との出会いが夜の街中であったこと、それまで進路を示してくれた父に反発し、真っ暗闇の最中で一人立ち竦む迷い子のようだった冬弥を見つけ、行く先を示してくれたことが大きいのだろう。彰人に出会い、こはねや杏とグループを組むようになるまでの冬弥にとって『月光』といえば、寂しげな前奏から始まるピアノソナタのことだった。しかし、今の冬弥にとっての『月光』は、VividBADSQUADの想いが形になった大切な思い出のひとつである。
     冬のシブヤにぽつんと存在しているあまり人の利用がない公園の一角は、昼の間は冬弥たちのための舞台になる。期末テストを揃って乗り切り、あと二週間もすれば冬休みということもあって四人での合わせ練習にも熱が入っていた。柔らかな月の光をタイトルに冠した曲は、次のライブに向けたセトリの中でもセカイで生まれただけあって特に思い入れのある曲だ。こうして、四人で一緒に歌っている時間は何にも代えがたく、冬弥にとっては至高の時間だった。いつまででも続けばいいのにとさえ思う。しかし、そういうわけにはいかない。物語に終わりがあるように、歌にもエンディングがある。それぞれのパートを繋ぎ、ハーモニーを重ねながらラストへ向けて駆け上がる。
     しかし、一拍の空白のあとに力強く響くはずの彰人のソロのロングトーンが不意に、ぶつん、と千切れた。それはまるで、かつて三田がアンプの電源コードを抜き取ってしまったときのように、唐突で、不自然なものだった。いつもと変わらない風景の中で、彰人が苦しそうに喉を抑えながら蹲るのがまるでスローモーションのように映る。喉からはひゅうひゅうと空気の漏れ出すような呼吸音がして、にきび一つない額には珠のような汗が浮かんでいる。
    「東雲くん!」
     突然のことに棒立ちになった三人のうち、一番早く我に返ったのはこはねだった。こはねの声に呼応した杏と二人で彰人のもとへ駆け寄る。それぞれが彰人の名前を呼びながら、持っていたタオルで汗を拭って、ペットボトルの水を差し出している。冬弥だけが現実にあるはずの光景が何処か遠くにあるようで受け入れがたく、形容しがたい焦燥感が募るままで身動き一つ取れずにいた。どくん、どくんと歪な音を立てている鼓動がうるさい。まるで耳元に心臓が移動してきたようだった。
     心配そうに覗き込む二人を彰人が片手で制する。首だけをもたげて、棒立ちになった冬弥に下手くそな笑いを投げかけた。唇が動く。
    『とうや』
     音にならなくても、自分の名前が呼ばれたのだとすぐに判った。これまで何百、何千と紡がれた三文字だった。そのあとに続いた言葉までは判別できなかったけれど、きっと謝っているのだろうと表情で推測できた。
     冬弥は人の感情の機微には疎いところがあるけれど、相棒である彰人のことは他の誰よりも理解しようと努力していた。だからこそ、相棒は隠し事の上手い男だと知っていた。たったそれだけのことで、冬弥は詳しく説明されなくても理解してしまった。共にいる月日が積み重なって、冬弥は彰人のことならかなり察することができるようになっていたけれど、それは彰人が冬弥に心を許してくれているからだ。冬弥にだけは、他人には見せないような心の裡まで無防備に開け渡してくれていた。彰人はその気になればいつだって、容易く隠し事ができてしまう。そして、この時になるまで何か大事なことを伝えずに黙ったままでいたのだ。そのことを謝られたのだと察することが出来てしまった。
     ベートーヴェンの『月光』の第三楽章。転落していくような悲痛なピアノの旋律が、冬弥の頭の中で警鐘のように鳴り響いていた。



     ――――――――――



     ゆっくりと落ち着きを取り戻した彰人はスマホで『Redey Steady』を再生し、四人はセカイへとやってきた。すると、彰人のさきほどまでの顔色は嘘のように平常通りに戻っていった。事情を聞きたそうにしている三人の視線を浴びた彰人は、後頭部を乱雑に掻いてから腹を括ったようにメイコのカフェを相談の場として挙げたのだった。

     “人魚病”

     彰人が診断された病名は、世間ではそこそこ名前の知れた病気だった。もっと長い正式名称があったはずだが、一般的にはこの病名の方が通りがいい。実際に発症した患者数は少ないと言われているが、症状の特異さからたびたび映像作品や小説の題材として耳にすることがあった。誰もがその病気のことを詳しくは知らなくとも、症状だけは聞いたことがある。そんな病気だ。片思いをしている人間のうちほんのひと握りの人物にだけ症状が現れる。主に四肢の機能不全、発声の障害、そして最後には人間が魚に変わってしまうという稀有な病気だ。何よりも有名なのは、それが人魚病と呼ばれる所以となる治療方法だった。まっとうな医療技術での処置は見つかっておらず、恋した相手からの口付けだけがこの病を完治に導くことができる。
     まるでファンタジーのような話だったが、冬弥や彰人たちは知っていた。この世界には、理屈で証明のできないようなことが身近に起こり得るのだと。
    「それで、さっきは声が出なくなっちゃったってこと?」
    「まぁ、そういうことだ」
    「それってヤバいじゃん! あれ、でも今は普通に喋ってるよね?」
    「何でか知らねえけど、セカイじゃ症状が出ねえらしい」
    「ここは想いでできたセカイだからね。彰人が歌いたいと思っていれば、もちろん歌えるよ」
     四人の話を聞くという名目で体良くメイコから手伝いを断られたミクを加えた五人で、一つのテーブル席を囲みながら尋問は始まった。尋問とはいっても、メイコから提供された飲み物が手元に準備されており、普段のミーティングとほとんど変わらない雰囲気だ。想定よりも重苦しくない雰囲気に、冬弥はひっそりと安堵していた。
    「そういうワケだから練習はセカイでやれば問題ない。どっちかっていうと、現実のライブの方がやべえ」
    「冬休み入ってすぐの日に一つイベントの予定があるけど……どうするの?」
    「イベントに穴開けるわけにもいかねえし、最悪の場合、三人で出てもらうしかないだろうな」
     こはねと、杏と、冬弥の三人で。彰人はいとも簡単に言うが、四人の中で会場を沸かすような煽りが上手いのは彰人だ。うまく客を乗せられるだろうか。と、そこまで考えてハッとする。冬弥は彰人と組むまではもっぱら路上ばかりで、隣に彰人がいないステージで歌ったことがなかった。
    「そっか……」
    「その次の自分たちで予定してる主催イベントの予定は春休みだしね。主催チームが一人欠けてるなんて格好つかないんだから、なんとかしてよ?」
    「……おー」
    「なにその気のない返事」
     杏がドリンクを口に含む彰人を指でせっつく。冬弥は彰人がこんな返事をするときに心当たりがあった。つい最近、テスト対策の間に身の入らない彰人から散々聞いた声だった。あまり乗り気でないのだろう。
    「それまでに、なんとか出来そうなのか」
     冬弥は重たかった口を開いた。風邪でもあるまいし、大人しく養生していれば治るといった病気ではない。なにしろ、治療にはここの場にいない第三者を巻き込む必要があるかもしれないのだ。
    「そっか、人魚病、だもんね」
    「ってことは、ついに彰人にも一足早い春が~?」
    「お前らなあ……」
     恋の話題に敏感な女子たち二人がとたんに色めきだつ。高校生になってからは息抜きとして遊んでみたり、歌に関係のない話をする機会も増えたが、歌が恋人のようなメンバーばかりなので色恋に関わる話とは全く無縁だった。そもそも、人魚病が発症したということは彰人には好きな人がいるということなのだ。年頃の少女たちにとっては関心のある出来事なのだろうが、冬弥にとってそれは青天の霹靂だった。
     これまで、彰人は誰かと付き合っているような素振りを見せたことがない。それに、誰か付き合っている人が居るのならば、歌に影響を及ぼすような症状が出る前に早々に解決するはずだ。いや、思いが結ばれているのなら発症すらしないのだ。冬休みのイベントには三人で出るしかないと答えたということは、そのイベントに間に合わない可能性があるほどこの問題が長引くと彰人が重く捉えている証拠だった。
    「彰人」
     大丈夫なのか、と口にすれば人は大丈夫と返すことしかできなくなってしまう。それが分かっているから、ただ名前を呼ぶことしかできない。しかし、彰人は冬弥が名前を呼ぶ声音だけで奥底にある心配を読み取ってしまう。頬杖をついて、ふう、と息を吐き出した。
    「……今、考えてるとこ」
    「うわ、やらしー。彰人って作戦たてて落とすタイプなんだ」
    「勝負は勝ち筋見つけてから仕掛けるモンだろ」
    「勝負って、子供じゃないんだから」
    「あはは、東雲くんらしいね」
     ともすれば深刻で重苦しくなってしまいそうな話題でも、ムードメーカーである杏が気をつかってくれているのか、冗談のような口調で雰囲気を明るくしてくれるのがありがたかった。
     冬弥は手元のブラックコーヒーの水面に目を落とした。中学生になるまでクラッシックに、今ですらストリートの音楽に囚われていた冬弥には、同じ年頃の少年少女が口にする恋愛感情というものが分からない。他の三人からもそんな話は聞いたことがないので、色恋に無縁でも気にしたことは無かった。それでも、今まで読んできた本の中にも恋愛を題材にしたものを数多く目にしてきた。冬弥には実感が無いが、人が人を好きになることは概ね良いことなのだろうと思う。どんな人物なのかも知らないが、彰人のことだから相手だって素敵な人であるのは間違いない。だから、気のいい相棒が好きな人と思いが通じ合うこともきっと良いことであるはずだと信じることにした。
    「俺たちで、何か助けになれるようなことはあるか?」
     仲間に気を回しがちなこの相棒に、心休まるような相手が増えることは良いことのはずだ。そのはずなのに、胸にすきま風が吹いたような心地になるのはなぜだろう。それは、相棒である自分を一番に頼りにして欲しかったという寂しさだろうか。
     じっと、彰人のオリーブグリーンの瞳が冬弥のグレーを映し出す。その内側を探るような、冬弥本人ですら気がつかない言葉の意図を手繰りよせるように。一度きりの大喧嘩をしてから、彰人はいつも冬弥の気持ちの裏側を見逃さないように気遣ってくれる。後ろめたいことなど何一つないはずなのに、なぜかその視線に居心地の悪さを感じた。
    「……いや、平気」
     彰人は口の端を歪ませるように笑うと、カフェオレに視線を落とした。光の色で印象を変える瞳が睫毛の影に覆われてしまう。まだ少年らしさを残した未発達の喉が、濁ったカフェオレと共に甘く苦い気持ちを飲み下していく。
     このとき、誰も知らないうちに彰人は一人でひっそりと決めてしまった。
    「彰人?」
    「ん? 何でもねえよ」
     薄らと感じている予感に蓋をして、閉じ込めてしまおうと。そこに在ったことを知っている彰人さえ黙っていれば、そこには何も存在しないのと同じだった。



     ――――――――――



     コンコン。教室のガラス張りになっている窓をノックする。廊下側の席の彰人に話しかけるには、これが一番簡単な方法だった。昼休みのガヤガヤとした騒音の中でもノックの音は聞き漏らさなかったのか、頬杖をついていた顔を上げる。冬弥が迎えに来たのだと気が付くと、放り出されたままの教科書とノートをかき集めて机の中へしまいこんだ。
    「よお、青柳。今日もお出迎え?」
    「ああ」
     いつも通り二人で昼の購買に向かうために財布を取り出して廊下に出てくるまで大人しく彰人を待っていると、本人よりも先に彰人と仲のいいクラスメイトが冬弥に声をかける。今までは先に授業が終わった方が相棒の教室に迎えに行っていたが、ここのところは冬弥ばかりが彰人のもとに訪れていた。
    「仕方ねえよな~、彰人のやつ、声でなくなってから授業中は寝てばっかだし」
    「そうなのか?」
     片足を引き摺るようにして歩いてきた彰人に向けた視線を鋭くすると、そそくさと顔が横へと逸らされる。余計なことを言うなとばかりに横に並んだ友人の脇腹を肘で小突いている。言葉が話せなくとも彰人の表情の変化はわかりやすく、冬弥にはある程度のことは理解できたため意思の疎通に困ることは少なかった。
    「まあまあ。拗ねてんだよ。体育も見学だし、先生も問題解けって指さないし」
     四肢不全――、声が出なくなった頃から特に脚に痺れが出始めてしまったらしい。歩くだけなら出来るようだが、走ったり跳ねたりということは難しいようだった。この症状もセカイでは起こらないらしく、四人での練習は必ずセカイで行うようになっていた。冬弥のクラスもそうだが、今の時期の体育の授業ではサッカーをしてる時期だったから、よけいに面白くないのだろう。
    「だからって、真面目に授業を聴かないのは良くない。これから、今の単元を基礎に応用の勉強になるのだから置いていかれることのないように……」
     すっかり言い聞かせるように注意を始めた冬弥に耳が痛いと彰人が目を瞑る。ただ口を動かしているだけで音にはならないのに、不思議と冬弥には「分かった、分かったから」と観念するような彰人の声が聞こえる気がする。
     不意に途切れたお説教に、今がチャンスとばかりに彰人は冬弥の腕を掴んで購買へと歩みを向けた。二、三歩たたらを踏んですぐに体制を立て直した冬弥が、隣を歩きながら呆れたように溜息をこぼす。
    「まったく……、冬休み明けのテストで泣きを見ても知らないからな」
     彰人は曖昧に笑った。本当に分かっているのだろうか。それでも、溜め込んだ冬休みの課題を積み上げて居た堪れなさそうにする彰人を見てしまったら、きっと面倒を見てしまうんだろうという予感があった。立ち去る二人の背中の方からクラスメイトがじゃあなと声をかけて、手を振って見送る。そんな彼に、冬弥は上半身を捻って振り向くと小さく手を振り返した。


     病気になる前と比べて歩くペースの落ちた彰人に合わせて辿り着いた購買は、人気商品は品薄になってしまうものの昼休みが始まったばかりに比べれば混雑しておらず快適だった。食事を摂る場所は日によって変えていたけれど、今日は一二月にしては比較的穏やかな気候だったため中庭に出てみたが、どうやら正解だったらしい。春や秋に比べて利用者が減っており、運良く空いていた日差しの当たる三人は座れそうなサイズのベンチを二人で利用することができた。規定のブレザーの中にも着込んでいるとはいえ、低い気温には耐えられず、二人で身を寄せ合うように座る。火傷するかと錯覚するほど熱かった缶のホットのブラックコーヒーに口をつければ、体の中から温まるようだった。
     もともと冬弥も彰人も口数が多い方ではない。二人きりでいると尚更だった。互いに沈黙が続いても気にしないから、黙々と食事を摂る。そうすると、いつも彰人の方が先に食べ終わった。今日も早々に惣菜パンを二つ平らげて、購買でつけてもらったウエットティッシュで手を拭っている。つい先ほどまでコロッケパンにかぶりついていた唇は、食品の油のせいかツヤを帯びている。
     彰人が病であると打ち明けられてから、早いもので一週間が過ぎた。現実では一向に声を出す様子が見えないので、あれから未だ進展はないのだろう。セカイでは人魚病の症状など嘘であるかのように元気に過ごしているし、共に歌っている。それでも現実の彰人を見ていると、冬弥の胸をあの得体の知れない焦燥感が苛んだ。彰人が口付ける相手はどんな人物なのだろう。考えたって答えの出ないようなことを、つい考えてしまう。
    『冬弥?』
    「……いや、何でもない」
     彰人の口が冬弥の名前をなぞったことで、自分の目線がそこに釘付けになっていたのだと気がづいた。手にしたままのサンドイッチに再び口をつける。パチパチと目を瞬かせた彰人が、何事かを打ち込んだスマートフォンの画面を差し出してくる。セカイ以外で会話するときは、専らスマートフォンに標準装備されているメモ帳のアプリを使っていた。
    『聞かない方がいいか?』
    「……彰人が、早く良くなるといいと考えていただけだ」
     文字を追うのは嫌いではないはずなのに、彰人の声が聞こえないことがこんなに不安になるものだと思わなかった。冬弥の言葉をどう捉えたのか解らなかったが、わしゃりと掻き混ぜられるように頭を撫でられて、自分が随分と落ち込んだ声音を発していたのだと恥ずかしくなる。
    『冬弥と歌いたい曲見つけてきたんだよ。後で聞いてくれ』
    「もちろんだ」
     並んだ文字列に間髪入れずに返事をすると、彰人がくしゃりと相貌を崩して満足そうに笑う。目が細められて涙袋の膨らみが浮き上がる、この笑い方が冬弥は好きだった。しかし、いつまでも見ている訳にはいかない。後で、ということは冬弥の食事が終わるのを待つつもりでいるのだろう。それならば、と残ったサンドイッチにかじりついた。それにしても、彰人の食事の終わりはいやに早い。そういえば、いつもは少なくともパンを三つは食べていたように思う。
    「彰人は、パン二つで足りるのか?」
     大きな口をあけて欠伸を発していた彰人は問いかけにこくりと頷く。瞼がおちかけていて、その目はとろりと微睡んでいた。日差しの陽気に当てられたのか、随分と眠たそうだ。今は食欲より睡眠欲の方が勝っているのだろう。
    「まさか夜更かしをしたんじゃないだろうな」
     今度は首を横に振る。していない、というサインだ。目を手で擦って眠気を誤魔化しているようだが、起きているのも辛そうだった。
    「曲なら聞いておく。肩を貸すから少し寝ているといい」
     昼休みに無理して起きていては、授業に身が入らないだろう。休めるときに休んで欲しいと伝えると、相当限界だったのか大人しく頷いた。音楽アプリを開き、聞かせたかったらしい曲を表示してイヤホンを渡すと力尽きるように瞼が閉じられた。うつらと揺れた頭が俯き、体重を預けるようにして冬弥の方に体が傾く。一人分の重さが、冬弥の肩にずしりとかかった。出来のいい耳が穏やかな呼吸音を拾う。彰人が傍にいると実感できて、ひどく安心した。



     ――――――――――


     その日、彰人から集合時間の直前になって、家族に捕まっていて遅れるといったメッセージがグループの連絡網に入っていた。放任主義のきらいのある彰人の家庭にしては珍しいことだと少しの驚きを覚えた。そう考えたのは杏とこはねも同じだったようだ。
     ここ数日の彰人の経過は決して良好とは言えなかった。片足を引き摺って歩くのはおろか、校内で松葉杖をついていたのを初めて見たときは唖然としてしまった。それは杏も同じだっただろう。そんな彰人に現実世界で長距離を移動させるのは憚られて、練習時の集合場所はすべてセカイにあるカフェに変わった。それに、二人だけでいるとたまに感情を落っことしてきたような、ぞっとする表情をするのだ。冬弥が話しかけるとすぐに鳴りを潜めるが、彰人が自分のしらない何かに成ってしまうようで、それが冬弥には恐ろしかった。
    「体調、崩してないといいけど」
    「心配だね……」
    「気がかりなのはわかるけど、暗いことばっかり考えていると気が滅入っちゃうわよ」
    「そうだよ。ちょっと用事があるだけなんでしょ?」
     杏とこはねが浮かない顔をしていると、メイコが冬弥も含めた三人にあたたかいドリンクを携えて声をかけてくれた。レンもそれに倣うように頷いている。注文をしていないのにそれぞれの好みを抑えたメニューを提供するあたり、本当によく観察してくれていると感心してしまう。彰人への心配を口にしなかった冬弥の分まで、きっちり用意されていた。干渉しすぎることはしないが、ちゃんと見守ってくれている。そうやって教えてくれているようで、飲み物を口にする前からあたたかい気持ちになる。こんなとき、自分たちの想いに応えてくれたこのセカイがあって良かったとその存在に安堵する。全員が口々にお礼をいいながら、ありがたく用意されたドリンクとレンの言葉を素直に受け取った。
    「そうそう。それに、彰人なら遅れてきて一番に言うんじゃないかな。お前ら、まだ声出しも終わってないのか、ってさ」
     カウンターに腰掛けたミクがすらりとした脚を組み直す。上げた顎に手を添えて見下ろすような視線を投げかける仕草は、たまに彰人がやっているのとそっくりだ。似ていないようで、案外特徴を捉えている発声はたやすく彰人の言葉に変換できてしまう。
    「あは、言いそ~」
    「そうだな。これを飲み終わったら、彰人が来なくても練習を始めてしまおう」
    「うん」
    「そうだね」
    「そうだ。彰人が来るまでオレが代わりをするよ。新しい発見もあるかもしれないし」
    「あ、それ、いいね。楽しそう!」

     結局、彰人は予定から一時間遅れて練習にやってきた。カフェの前の通路でレンと歌い、観客代わりのミクとメイコから講評を貰っていたところに、小走りで近づいてくる。そうして、悪い、とたった一言の謝罪ですませようとするものだから、杏が何があったのかちゃんと理由を聞くまでは練習させないと言い含めたのだった。こはねも冬弥もこれには同意見で、三対一になったと悟った彰人は早々に諦めて事情を説明し始めた。
     つまるところ、家を出ようとしたところを家族に見つかり、どこへ行くのか、誰と会うのかと散々問い詰められたらしい。本当のことを言うわけにもいかないから、誤魔化すのが大変だったと辟易していた。しかし、冬弥にだって家族の気持ちは分かった。出かけた先で彰人にもしものことがあったらと思うと、行き先や一緒に居る人物や連絡先を把握しておきたいと思うのは自然なことだと思う。そもそも、病体で外出が許されているだけ充分なほど寛容だ。
     煮え切らない反応だった三人を眺めて、彰人はそれならもう一つ、言うことがある。と切り出した。
    「来週のライブ、オレは参加できそうにねえ。今日から3人で歌う練習に切り替えるぞ」
     やっぱり。冬弥の頭にはその四文字が浮かんだ。彰人の言葉を聞いたとき、思ったよりも冬弥はショックを受けずにいられた。一緒に過ごしていて、なんとなく予感していたのだ。彰人と、その恋の相手は進展していない可能性がある。そして、冬休みに入ってすぐのライブにコンディションを合わせるなら、そろそろ調整がいる頃合だろうと。少し早い気もするが、次のライブに彰人が出られるかどうかの決断が、必要な時期に差し掛かっていた。
    「ちょ、ちょっと待ってよ。まだ来週でしょ?」
    「もう来週だ。今から調整しないと中途半端なことになる」
    「そんな……、なんともならないの?」
     まだ猶予があると思っていたのか、杏が焦ったように詰め寄る。こはねもギリギリまで待ちたそうに眉尻を下げた。
    「なりそうだったら、こんなこと言ってねえ。オレだって、穴を開けるようなことしたくねえ。でも、しょうがねえだろ」
    「しょうがない、って……!」
     ぐっ、と杏の顔が彰人に迫る。怒りに濡れた杏のまっすぐな視線が、彰人の目を灼く。身長差なんてものともせずに、至近距離で見つめ合う。そのまま、誰も何も言葉を発せず、動けもしない。まるでストリートの時が止まったかのようだった。彰人の決意は揺らがないとわかるやいなや、杏が俯き、悔しそうに拳をぐっと握り締めた。
    「彰人、正直に応えて。人魚病を治すつもり、ある?」
    「……治したいとは思ってる。けど、治るかどうかは別だ」
    「……、なに、それ」
     ふ、と感情の読めない吐息が杏の口から漏れる。呆れたような、哂っているような、杏には似合わないタイプの呼吸の音だった。
    「ビビッドストリートで、父さんの店でRAD WEEKENDを超えるってずっと言ってたのは、ウソだったの?」
    「…………」
    「……見損なった」
     彰人は答えないまま立ち尽くしている。ぽつりと、静かなストリートに杏の呟きが落ちた。
    「杏ちゃ……」
    「お互い、頭冷やした方がいいな。それまで顔合わせない方がいいだろ。オレは席を外す」
     こはねの言葉を遮って彰人が宣言する。負けん気が強いはずの彰人は、杏の言葉には何も言い返さなかった。全員に背中を見せて、一番近い曲がり角を折れていく。メイコは頬に手を添えて、レンがオロオロと杏と彰人が去った方を交互に見比べる。すとんと、杏がその場にしゃがみこんで両手で顔を覆った。冬弥は彰人を追いかけたかったが、この場に残った杏も同じように心配だった。
    「あ~~っ……、やっちゃった……」
    「杏ちゃん、大丈夫?」
     杏の呻きは先ほどの発言を後悔しているとすぐにわかる声音だった。横にしゃがみこんだこはねが、しょぼくれて丸まった杏の背中をさする。
    「勝手に、裏切られた気分になったの。それこそ、冬弥と組む前から彰人がRAD WEEKENDを超えるって言ってるの、店で見てきたんだもん」
     じわり、と杏の瞳に涙が滲む。悔しい、と杏がひとりごちる。杏だけじゃない、全員が悔しかった。彰人がどれだけの努力家か知っている。全員が尋常じゃない練習をこなすメンバーの中で、持ち前の体力で一番の練習量をこなしている。
    「彰人が一番悔しいはずなのに、言わずにいられなかったの」
     オレ達はライブ会場にいる誰にも負けないと、メンバーを先導して引っ張っていってくれる、唯一無二の歌声。来週のライブに向けての練習だって、病気さえなければ誰よりも練習をして挑んだはずなのだ。そんな彰人が歌えずにいることが悔しいと、本人ですら口にできないことを代弁して、杏は自分が傷つけたのだから泣くまいと歯を食いしばっていた。
    「なんで、どうして、よりによって彰人なの……」
    「……白石の気持ちは彰人も分かっているはずだ。だから、言い返さなかったんだと思う」
    「そう、かな。……冬弥が言うのなら、そうかもね」
    「杏ちゃんの気持ち、ちょっとは分かるよ。東雲くんが戻ってきたら、謝ろうね」
    「うん。ありがと、冬弥、こはね」
     杏がオーバーサイズの袖でぐいっと目元を擦って立ち上がる。その顔にはまだぎこちないながらも微笑みを浮かべていたので、気を持ち直したのだと分かった。成り行きをはらはらと見守っていたレンが胸に手を当ててほっと、安堵の息を吐き出した。
    「こらこら、擦ったらダメよ。お店のキッチンを貸してあげるから、顔を洗いましょ」
     そうメイコが杏へと優しく声をかける。
    「そうだね。私たちはカフェで待ってるから、誰か彰人を迎えに行ってあげて」
     誰か、と言いながらミクは冬弥をまっすぐに見つめていた。当然だ、とそれに冬弥も頷いた。
    「それなら俺が行ってくる。皆はここで待っていてくれ」
    「あ、それならオレも手伝おうか? 裏路地には詳しいんだ」
     レンの申し出に、冬弥は首を横に振った。
    「ありがたいが、彰人のことは俺が見つけたいんだ。それが、相棒というものだろう」
     ”相棒”という言葉を出されれば、この場で誰も反対する者はいなかった。みんなから見送られ、冬弥は彰人が曲がった路地を追いかけていった。


     彰人は、あまり遠くへは行かなかったようだ。彰人が姿を消した曲がり角をまっすぐ進んで、三つ目の脇道に入ってすぐのところで、壁に背中をもたれさせながらしゃがみこんでいた。冬弥が来たのに気が付くと、顔だけを上げる。冬弥もその隣に並んで座り込むことにした。広い迷路のような路地裏の片隅で、ぽつんとふたりぼっちだ。
    「杏のやつ、落ち着いたか?」
    「ああ。彰人に謝りたがっている」
    「謝られるほどのことじゃねえよ」
    「言われる気がしていたから、か?」
    「……お見通しか」
    「何でもわかるわけじゃない」
     ふ、と冬弥の口から吐息のような笑みが漏れた。なんだって、手に取るように分かればよかった。そうしたら、彰人が隠していた悩みや苦しみにも気づいてあげられたのに。それでも、今みたいに彰人の心情を確かめるような、静かな対話の時間も大切なのだから、心というものは複雑だった。
     ストリートのことを何も知らなかった冬弥の手を引いて、ライトのあたる場所に連れてきてくれたのは彰人だ。ただ、杏とこはねともグループを組むようになるまで、冬弥はずっと自分のことばかりで手一杯だった。ライトを浴びる彰人が眩しすぎて、その裏でどれだけ悩んでいたか知りもしなかった。それまでの二人には、歌しかなかったから。知りたいと思った。歌だけじゃなくて、彰人自身のことを。そうしてようやく歩み寄り始めて、これからだったのに。
    「お前は、怒らないんだな」
    「どうして俺が怒るんだ?」
    「オレが冬弥をストリートの世界に引きずり込んだのに、こんなことでダメにしちまって」
    「俺は、彰人が決めた道を進めているのなら構わない。それに、こんなことだとも思っていない」
     一度決めたら自分を曲げない彰人、他の全てを投げ出してでも歌にその身を捧げてきた彰人。そんな男が、夢を叶えるために必要なハードルを超えるのを躊躇っている。きっと、何か理由があるのだとは予想できた。
    「もし、もう歌えなくてもいいと決めても、それも彰人の大切な想いだ」
     くっ、と彰人の眉間に皺が寄る。歯を食いしばった唇はぶるぶると震えていた。強くこぶしを握り締めているから、そんなにしたら手のひらが傷ついてしまわないか心配だった。
    「……本当は、治そうと思えば治せるのかも、しれない」
    「かも、というのは?」
    「人魚病だって診察されて、恋した相手にキスされたら治るなんて言われても、相手に心当たりがなかった」
     彰人はしゃがんだまま腕に顔を埋めた。そうされてしまうと、今、どんな表情をしているのか分からなくなってしまう。だから、一言も聞き漏らさないように持ち前の聴覚を彰人に向けた。
    「考えて、考えて。……一人しか、思いつかなった」
     上着に顔をうずめているせいで、篭ってしまった声でもごもごと彰人が懺悔のように独白する。彰人が思い描く人物はどんなだろう。彰人の幸せを願ってくれる人だといいな、と冬弥はぼんやり思い描いた。
    「頼めば、人助けになるなら、そこに感情がなくても自分で力になるならって喜んでキスくらいは、する、やつだ」
     ……けど、といつもしっかりとした彰人の声が冬弥ですら初めて聞くほどに弱々しくなる。喧騒の遠のいたストリートに、吸い込まれてしまいそうなほど。
    「人助けなんかで、そいつを消費したくねえ」
    「消費、って……そんなことはないんじゃないか。喜んで人助けをするような人物なんだろう」
    「オレが、嫌なんだ。優しさを利用するようなことをする自分を許せねえ。それに……」
    「それに?」
    「この気持ちが間違っていたらどうしよう、って考えちまう」
     今、考えてるとこ。初めてカフェで人魚病の話をしたとき、いつもの癖で頬杖をついていた姿がフラッシュバックした。
    「間違い?」
    「これが恋なのか判断できねえ。恋なんて言葉で片付けたくねえ」
     ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲のアリア、『フィガロの結婚』より、『恋とはどんなものかしら』。春の訪れを祝うような、青空を小鳥の番が舞うようなオーケストラのさざめきのなかでスポットライトを浴びるオペラ歌手。悩ましくて、それでも楽しい。昔の人が歌うように、恋とはそんなものだと思っていた。冬弥には恋が解らない。それでも、彰人抱えているものは歌劇に描かれるように淡くて可愛らしいものとは違う気がした。
    「もし、キスをしたのに治らなかったら、落ち込ませるだろ」
     冬弥は、彰人と口付けをする自分を思い描いてみた。彰人に病を治すためだと頼られたら、自分なら快く了承するだろう。そうして、治らなかったら、違ったと言われたら、確かに力になれなかったことを残念に思うかもしれない、と。そして、ふと、気がついてしまった。今の自分の想像になんの嫌悪感もなかなったことに。彰人と触れ合ったのが一人の女性ではなく、自分の像であったことに。
    「……?」
     咄嗟に、自分の口元を押さえる。彰人が見ていたら、どうかしたかと尋ねられていただろう。彼が顔を伏せていて良かったと先ほどと正反対の事を思う。逸れそうになる思考をごまかすように、慌てて彰人の話に無理やり意識を呼び戻した。
    「……恋じゃなくても、それでも、彰人はよっぽどその人が大切なんだな」
    「どうしてそう思う?」
    「彰人が一番大切にしているのは、夢で、歌だと思っていた。それと天秤にかけられるほどなんだから」
    「……比べられたらここまで悩んでねえよ」
     わしわしと頭を掻く度にふわふわの毛が揺れる。小動物の毛並みのようで、なんとなく、冬弥はぽすりとその頭に掌をおいてみた。くしゃり、とオレンジのくせっ毛が潰れる。ビタ、と彰人の動きが止まったので、嫌がられていないか探りながらそうっと手を左右に動かしてみる。ゆっくりその顔が上がって、重たい前髪の隙間から冬弥をじ、と垂れ目が捉えた。少し赤い頬の下で、厚い唇がへの字にゆがんでいる。
    「ふふ」
    「……なんだよ」
    「いや。俺の髪とは違う質感だから、面白くて」
    「言ったな?」
     わしゃり。彰人が遠慮のない両手で冬弥の丸い頭を掴む。動物を丸洗いでもするみたいにわしゃわしゃと乱雑な手つきで掻き混ぜられた。ついさっきまで深刻な話をしていたはずなのに、どうしてかこんなくだらない悪ふざけすら楽しくて、笑えてしまった。
     子犬がころころと転がってじゃれあうみたいに二人でお互いの髪をかき混ぜ合って、一息つく頃にはセットしていた髪型はボサボサになっていた。それが面白くて、二人で顔を見合わせて吹き出す。ふう、と息を吐き出した。いつまでもここにいるわけにもいかない。二人の帰りをカフェで待っている仲間がいるのだから。
    「彰人がしたいようにすればいい。俺は、それを応援している」
     やっぱり、本当は少しだけ、頼ってもらえないのは寂しかったけれど。彰人に自分たちの歌よりも優先することがあるのは、悔しいけれど。そんなことを口にしたら、彰人が気に病んでしまうことも解っていた。だから、彰人が自分のことを頼りたくなるときまで、黙っていよう。傍で見守ろう。それが、冬弥の決意だった。
    「さあ、みんなのところへ戻ろう」
    「……ああ」
     先に立ち上がって手を差し出すと、彰人は大人しくその手を取った。


     その夜、冬弥が自室に帰り着くと学祭のときにたまたま連絡先を交換していた瑞希から冬弥へメッセージが届いていた。どうやら、絵名が冬弥と話したがっているらしい。絵名は冬弥の連絡先をしらないから、その仲介を頼まれたと書かれていた。瑞希を通すということは、おそらく話題は彰人のことなのだろう。瑞希にお礼を伝えて電話番号を伝えてもらうように頼むと、すぐに絵名からショートメールがやってきた。直接会って話がしたいというので、次の休みの日に待ち合わせの約束をした。
     眠る間際には冬場の乾燥した空気でカサついた唇にケア用のリップクリームを取り出して事務的に塗布をした。ストリートで彰人と話しているときに感じた違和感について、深く考える暇もなく冬弥はその夜を終えた。



     ――――――――――



     イルミネーションが増え、夜の景色はクリスマスムードが色濃くなってきた。二人にまったくその気が無くとも、店舗の外観から拘られたカフェに年頃の美男美女がそろって来店したとなれば、少し浮ついた店員から半個室のような落ち着いた席へ通された。
     当の本人たちはまったく気にすることなく、慣れた様子で注文を済ませる。絵名は店の看板メニューになっていたチーズケーキのセット、それから冬弥はブラックコーヒー。今日の店を提案したのは冬弥だったが、前に冬弥が連れられて来たときに彰人が頼んだものと全く同じメニューを絵名が選んだのが、少し面白かった。
    「ごめんね、突然呼びつけたりしちゃって」
    「いえ」
     二人とも注文がやってきてからが本題だと言わなくても解っていたから、最近の気温やら、取りやすいクレーンゲームの台のような当たり障りのない話ばかりしていた。店員が二人に商品を提供すると、絵名の口が緊張で引き締まった。彰人も同じことをする、と冬弥はまた彰人と絵名の共通点を見つけてしまう。それでも、ミントの添えられた生クリームがとろりと伝う王道のベイクドチーズケーキを少しだけと写真に撮っているのは彰人からの噂通りで、少しだけ安堵した。どうぞと冬弥が勧めれば、我慢できなかったのかフォークで小さく切り分けた一口を噛み締めていた。彰人がするように目を輝かせたのは一瞬で、すぐにそっとフォークを置いた。
    「なんとなく分かってるだろうから、単刀直入に言うね」
     そうは言っても切り出しにくいのか、所在なさげにネイルの施された指を組むように絡ませている。それは祈るような形にも似ていた。
    「彰人のこと、冬弥くんから説得して欲しいの」
    「説得?」
    「冬休みになったら病院に入院しよう、って話が出てるの。それなのにあいつ、お医者さんの話も全然聞かなくて……」
     入院。そんな話は聞いていなかった。つい先日、彰人がライブには参加できないと言いだしたのも、確かに時期として適切ではあるが随分急だと思ったが、このことが関係していそうな気がした。
    「拒否出来るような段階なんですか?」
    「まだ松葉杖で済んでるからね。でも、いつ車椅子での生活になるか判らないじゃない」
     確かに入院となれば、大部屋でも個室でも監視の目があるだろう。今までのように学校に来たり、自宅で様子を看ているのとはわけが違う。生活リズムは大きく変わるし、セカイへも来づらくなると考えている可能性は大いにあった。
    「それに、ろくに動けもしないし声もでないんじゃ、ライブの練習どころじゃないでしょ。あいつのことだから冬弥くんと一緒にいるんだろうけど、迷惑かけてるんじゃない?」
    「いえ、迷惑なんてことはありません」
     それだけは迷いなく返事をすることができた。相手の語尾にかぶせるような勢いで話すことは滅多にしないので、絵名も驚いたのだろう。猫のようなアーモンド型の瞳をぱっちりと見開いている。
    「そう? なら、いいんだけど」
    「はい。……」
     冬弥は頼んだブラックコーヒーの水面を凝視した。それは隠しきれない冬弥の動揺を表すように波打っている。入院、車椅子生活。たしかに治療と言うのならば、ちゃんとした医療機関の監視下に置かれるべきではあると思う。しかし、そんな場所に彰人を閉じ込めてしまっては、かつて冬弥に語ってくれた彰人の目指す夢に向かえるのだろうか。夢に向かってしか生きられない彰人が、そんな場所に閉じ込められて、生きていると言えるのだろうか。彰人はきっと悟っているのだ。歌を無くしては自分が生きていけないことを。それならば、冬弥は。冬弥だけは、彰人の相棒として、彰人の歩みを止めるようなことをしてはいけない。
    「……俺は、彰人がしたいようにしてほしいと思ってます。だから、説得はできません」
    「……そっか」
     そんな気はしてた。と諦めたように絵名が微笑む。絵名も分かっていたのだろう。絵名にも彰人にとっての歌と同じように、奪われては呼吸もできないようなものがあるのだろうと、冬弥は思った。それでも、絵名は彰人の家族として誰かに相談せずにはいられなかったのだ。こんなとき、頼りにしてもらえるのが自分であることが、相棒として素直に嬉しいことだと思った。
    「心配してくれているんですね。彰人のこと」
    「そんなわけないじゃない。ここのところどんどん寒くなってきたでしょ? ランニングついでに息抜き用のお菓子とか買ってきてもらえなくて、こっちはすっごく不便で迷惑してるの。もう、あいつがさっさと治してくれればいいだけなのに」
     そんなことを言いながら、手間を惜しまずわざわざ瑞希伝いに連絡をとり、今日も寒いなかで外出して冬弥と連絡をとってくれている。誰よりも人の心配をするくせに、それを表に出そうとしないところが彰人とそっくりだ。だから冬弥は絵名のことも好きだった。
    「そうだ。冬弥くんにあげようと思ってたの。ちょっと早いクリスマスプレゼントだと思って」
    「え、なんですか?」
     絵名が取り出したのは、プレゼントというにはなんの包装もされていない一冊の薄い本だった。何度も手にして読んだ跡がある。印字されていたタイトルは『人魚病の患者さんとの接し方について』。それだけで、すぐにこれが患者の家族向けに病院で配られるガイド本だと分かった。
    「こんな大事なもの、頂けません」
    「いいの、いいの。ウチにはもう一冊余ってるから」
    「すみません。俺は何も用意していなくて、今からでも何か……あ、ここの会計を持ちましょうか」
     今にも席を立とうとばかりに慌てた冬弥を見て、かえって絵名の方が焦ってしまった。両手を胸の前に挙げてぶんぶんと左右に振って拒絶を示す。
    「気にしないで。というか、それだと私が冬弥くんにたかってるみたいじゃない。本当に、ただの余り物だから」
    「それじゃあ俺の気がすまないんです」
     じ、と絵名を見返すグレーの瞳の意思は固かった。これには意外だった絵名の方が怯んでしまう。絵名の周りにも色々な容姿の友人たちがいるが、冬弥のような鋭利な刃物のような、研ぎ澄まされた美しさと形容したくなる美貌の持ち主はいない。敢えて挙げるのならば雫がいるが、表情の柔らかさが段違いだった。思わず圧倒されてしまう。
    「……彰人が、冬弥くんは頑固だって言ってたの。意外だったけど、ちょっと分かったかも」
    「ご迷惑ですか」
    「ううん。それじゃあ……、彰人と回ったカフェのうち、特にフードを気に入ってた店が分かるなら教えてもらえる?」
    「そんなことでいいんですか?」
    「うん。私たち、食べ物の好みがそっくりなの。でもあいつ、どこの店が美味しかったとかって情報を私に教えてくれないからさ」
    「分かりました。覚えているかぎり、お教えしますね」
    「ありがとう、冬弥くん」
     絵名が、一口しか食べれていないケーキをもう一度フォークでつついた。ひとくち分をぱくりと口に入れると、今度は頬に手を当てて「んん~」と言葉にできない歓喜を満喫したようだった。冬弥も覚めてしまわないうちに、ホットコーヒーに口をつけた。


     自宅に帰るなり、冬弥は絵名にもらった本を開く。頼まれたカフェについては、時間がかかりそうなので明日にでも纏めようと決意する。人魚病の名前があがったときに一度病気については調べてみたが、ネットには根も葉もなくどこまで信用できるか判らないような噂話ばかりだった。数少ない論文は見たことない言語だったり、英語や日本語の文献もいかに優秀と言われた冬弥の頭脳ですら、さすがに専門外の高校一年生に到底理解できる内容ではなかった。
     はらり、音を立てて紙面をめくる。人魚病の患者に起こることを、解説やデフォルメされたイラストが付きで解説しており、論文よりもとっつきやすそうだった。
     初期症状、まずは手足の痺れ。これは下半身から上半身へ上がっていくように症状が進むことが多いらしい。その次のステージで声が出なくなる。ここまでに二週間程度の期間を要す。ふと、冬弥は彰人の声が出なくなる日の数日前に、彰人が足首を捻ったと何日かダンスの練習を休みにしたことを思い出した。……嫌な予感が脳裏を過ぎる。
     手足の痺れや声が出なくなる症状は、突然来るのではなく調子の良い日、悪い日と周期を交互に繰り返しながら段階的に悪化していくらしい。声が出しにくかったり、喉がつっかえたりするような予兆があってから、声帯が使い物にならなくなる。冊子にははっきりとそう書かれていた。それじゃあ、あの日、歌の途中で途切れたきり、声を発することができなくなったのは。身を焦がすような焦燥感を打ち消してほしくて、かじりつくように冊子を読み進める。
     その後、手足の痺れは酷くなる。それは皮膚が魚の鱗のように変形するからで、こちらも二、三週間もすれば下半身不随になり、車椅子での生活を強いられるようになる。生体も魚に近づき、いずれエラになる器官が発生する。個人差はあるが外気温が低ければ冬眠をするように睡眠時間が増えることや食事の量が減ることもあるのだという。中庭で、眠たそうにしていた彰人の横顔が過ぎる。知りたくないことばかり解ってしまうのに、目が文章を追うのをやめられなかった。知らないままでいるのが、知ってしまうことよりも恐ろしかったからだ。
     車椅子生活は長くは続かない。そのあとはベッドに寝たきりになり、脚や腕はヒレとなり胴体は鱗に覆われる。外部からの刺激にリアクションが薄くなり、やがて口呼吸からエラ呼吸に切り替わるころには専用の水槽に移される。そして、最終的に一般的な魚のサイズまで縮んでいくのだという。もしも、そうなってしまえば、あとは患者の家族や親しい人の元に戻り、経過観察をするしかない。魚には言葉を発する喉はなく、いくら恋をしていてもそれを伝えるための手段も無くなってしまうからだ。
     当たり前だが、途中の症状までは実際に彰人に起こっている症状に間違いない。しかし、これからこうなるのだと事実を突きつけられてもまったく現実味がなかった。彰人はどんな魚になるのだろう。動き回ることが好きな男だったのに、暗く狭い水槽の中で満足できるのだろうか。彰人はいつまでセカイに来られるだろう。入院なんてことになってしまったら、この場所にくるのは難しくなるだろう。セカイに来ている間に巡回があったりしたら? ベッドで寝ているはずの患者がいなくなっていたら、脱走したと大騒ぎになってしまう。
     冬弥は、彰人と歌って過ごせる日にちが予想よりも遥かに少ないことに愕然とした。


     いてもたってもいられず、冬弥は逃げるようにセカイに駆け込んでいた。ぐるりぐるりと頭の中を暗い澱が暴れまわっている。具体的に誰かと何か話をしようと思ったわけではない。この気持ちの行き場や、解決策を探しにきたわけではない。こんな、衝動的で理屈の通らない行動は冬弥らしくない。それでも、大人しくしていることはどうにも耐え難かった。独りでじっと苦痛に耐えることには慣れていたはずなのに、冬弥はひとりぼっちでいることがこんなにも下手くそになってしまった。それもこれも、すべて彰人のせいだ。冬弥が苦しみの底にいるとき、いつも掬い上げてくれたのは彰人だった。
     裏路地を当て所もなく彷徨い歩いていると、聴き慣れた歌声が聞こえてきた。聞き間違えようもない、彰人のものだ。どこも同じようにグラフィティの書かれた壁を何度か曲がりながら音を頼りに路地を辿っていくと、彰人本人を見つける前にグリーンのツインテールを靡かせたミクが、壁に寄りかかって目を閉じていた。
    「こんなに遅い時間なのに冬弥も来たんだね」
    「ああ」
     冬弥もということは、やはり彰人も来ているのだろう。流れている歌声は今もこのセカイのどこかで彰人が歌っている証拠だ。現実ではこの力強い声がもう失われているとは、にわかに信じがたい。二人して彰人の歌声に耳を傾ける沈黙が訪れた。
    「……ミクは、知っていたんだな?」
     ――ここは想いでできたセカイだからね。彰人が歌いたいと思っていれば、もちろん歌えるよ。
     あの日、彰人の声がぱったりと出なくなってしまう前からきっと彼女は知っていたのだ。彰人の体が病気に蝕まれていたことを。絵名から譲り受けた冊子によると、声が出なくなる前には何度か予兆があるらしい。彰人があのときに大して慌てた様子も見せずにセカイへ行こうと提案をしたのは、セカイならば声が出ると知っていたからに他ならない。だから、この問いかけは質問というよりも確認だった。
    「そうだね」
    「彰人から口止めされていたのか?」
    「やっぱり、冬弥は彰人のことをよく分かってるね」
     それは紛れもない肯定の言葉だった。彰人と約束でも交わしていなければ、ミクは必要だと思えば彰人の体調のことを冬弥たちに喋っただろう。そういうところに気が回るあたり、抜け目のない男だ。しかし、どうにも考えが足りない。そんなことをされて、冬弥たちがその事実を知ったときに無力さを噛み締めることになるなんて思っていないのだ。
    「……俺は、彰人にとって頼りがいがないだろうか。支えたいと思うのは、迷惑なんだろうか」
     彰人の助けになりたい。のに、彰人は病気のことをあんな形で露呈させるまで黙っていたのだ。そして、相棒の自分には知らせず、目の前にいる彼女はずっと知っていた。それは、彰人に頼られているようで、羨ましかった。彰人を責めたいわけじゃない。ただ、彰人に頼ってもらえないようで、自分の不甲斐なさが悔しい。自分はたったひとりの相棒なのに。ぐ、と拳を握る。
    「それは、私じゃ答えられないな。違う?」
     ミクが歯を見せて笑った。いくらここでミクが彰人は冬弥を信頼していると口で太鼓判を押したって、それを信じられるのかといたずらにきらめく瞳が雄弁に語る。
    「本人に聞いてみなよ。ここでなら、ちゃんと話し合えるんだから」
    「……そうだな」
     彼女の言うことはいつも筋が通っている。だからみんな頼りたくなってしまうのだろう。
    「あのね、冬弥。ひとつだけ、知っていて欲しいことがあるの」
    「何だ?」
    「彰人と、このセカイのこと」
    「セカイのこと?」
    「うん。ここは想いでできたセカイだから、彰人も声が出せるって話をしたでしょ?」
    「ああ、覚えている」
     彰人がぱったりと声が出せなくなった日に、確かに聞いた。だからこそ、冬弥たちは四人揃っての練習場所をセカイに限定するようになったのだから。
    「彰人がここに来られるのは、夢を、想いを諦めてないからだよ」
     ミクの一言で、冬弥はハッとした。ポケットの中にあるスマートフォン。そして、その音楽リストの中にある『Redey Steady』。いつからか、冬弥たちの中に芽吹いていた想い。その証であるこのセカイ。このセカイを作り出しているのはVividBADSquad全員の想いで。じゃあ、夢を諦めてしまった人はこのセカイにどうやってアクセスするのだろう。ミクと話している間も、彰人の歌声はずっと聞こえ続けている。現実での煩わしいもの全てを振り払いでもするように。
    「……私から言えるのはそれだけ。それじゃ、頑張って」
     何もかもを見通していそうな顔でミクが不敵に笑う。言うべきことは言ったとばかりにくるりと背を向け、冬弥が来た方へと歩き出す。冬弥は、声のする方へと向かって足を進めた。
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